謁見の間
世界が止まった。
あぁ、止まる瞬間というのはこういう感覚なのか。いろいろ経験してきた十数年(前世も併せれば三十ちょっと)、ここまで止まるという表現が相応しい場面は他にないだろう。第三者だからこそ感じられる、万象一切が動くことを停止した、不動なる世界。……なんて気持ち悪い表現は置いといて、目下、非常にまずい展開へと相成った。聞き間違いでないならば、あちら側の姫君はこう言ったはずだ。ゴミ男、と。
「相も変わらず無愛想な顔に埃まみれの髪。まさにゴミだな。それ以上こちらに来るなよ、肺炎になる」
「昔と全然変わってねーなォイ。まだその髪型してんのかよ。どう見ても虫の触覚にしか見えねっての」
「わざわざ貴様の滞在を許可してやったのは誰だと思っている? 身の程をわきまえたらどうだ」
「はぁ? 俺が? 誰に? そもそもあんた誰だっけ。虫国に帰ったらどうですかー」
「下種の勲章が歩いているようなゴミと話してやっているのだ。感謝しろ。そして死ね」
「何で虫が人様と話してるんだよ。巣に帰れよエサやろうかぁ?」
……。
嘘だ、これ王族の会話かよ。あいつら本当は偽物じゃないよな。
今もなお二人は口喧嘩を延々としており、収まる気配はない。淡々としながらどこまでも相手を貶す言葉の応酬。ルェンさんを見れば、笑顔だ。ただ、明らかにピクピクと身体が痙攣している。もう無理しなくていいよ、と言われれば卒倒しかねないあり様である。もしかしたら、彼女にとって初めて見る王女の姿なのかもしれない。もしくは、第六極長が思い描いていた王女とはかけ離れた言動をしているのかもしれない。
そうだ。ここは謁見の間だ。しかも話す二人は、次期国の長になる者である。
矢のように飛び交う罵りも、ようやく沈静化し始め、互いに落着きを取り戻してきたようだ。シェリナ王女の後ろでは忍者のように存在感を消している不気味な男がいる。彼は今も黙ったままだ。対して二人の喧嘩を終始想定通りと穏やかに見ていたピッチェスさんが、自慢の仕事スマイルでずずぃと前に出る。
「お互い久方の会話、存分に楽しまれたことでしょう。それではここで、国務に入りましょう」
「おい待てピッチェス。虫と話す必要はねぇぞ。もうやることはやった。あとは帰るだけだ」
「そうだ早く帰れゴミ。一刻も早く祖国に帰り鬼ごっこでもやるといい」
「その触覚っていつ取れるんだ? 着脱可能って聞いてるぜぇ? なぁピッチェス」
「……お二方とも、それぐらいでいいでしょう。既に書類には目を通されているはず。あとは双方が判を押すだけでございます。シェリナ様も、ご用意されているようで」
いつの間にか、シェリナ姫の後方にいた男がすっと書類を卓上に置いていた。呼応するようにピッチェスさんも書類をジンの前へ。互いの王子・王女は紙を一瞥し、鼻息を荒す。さては、こちらが先には判を押さないぞ、という意思表示であろうか。判を押してしまえば、自分が相手に負けて先に押したという無意味なプライドが発動しているのだ。……子供かぁ! 夢じゃないよな、確認するが、これ現実かよ……。
「ジン」
ふん、とそっぽを向いていたジンの身体がピクンと動き、顔から冷や汗がこちらからでも見えるほど流れ始める。横を見ると、ニコニコとそれは楽しそうに、そして恐ろしい笑みを浮かべて銀髪を見据える碧髪の少女がいて。時間にして五秒もしなかっただろう。
ジンが判を押した。
彼の行動にやや驚きつつ、先にやられた以上こちらもせねばなるまいとして、十数秒後、シェリナ王女も仕方なしに判を押した。さっとピッチェスさんとクロネア忍者が書類を回収して。
「あぁ良かった! これで無事、謁見は終了ですね。それでは私たちはこれで」
「……長旅、大変ご苦労であった。クロネアの世界を、存分に楽しんでいくがよい」
「ありがとうございますシェリナ姫。お言葉に甘え、我々アズールの民はクロネアで至高の一か月間を楽しませてもらえることでしょう。深く、感謝とお礼を申し上げます」
本来ならばこの後食事や雑談など優雅なひと時を味わえるはず。
……が、そんなもの焚火に捨てる木片のように、消し炭に消えてなくなった。いや、もしかしたら最初からそんなものは用意されていなかったのかもしれない。ピッチェスさんとクロネア忍者には、こうなることは目に見えていたのだから。
げっそりとしたルェンさんに連れられ、僕らは塔を後にした。
* * *
「あんなシェリナ様……生まれて初めて拝見しました」
「げ、元気出してくださいルェンさん」
「はぁ。……何か言いました?」
「駄目よシルドくん。私に任せて」
「お願い、モモ」
落ち込み街道まっしぐらのルェンさんをモモとリュネさんにイヴとユミ姉の四人で励ます。それを傍目で見て、あぁこれこそ異文化交流だなとしみじみと感じた。……ちらりと横を見る。
「ジン。帰ったら反省会ね」
「何でだよ! 俺はちゃんとしてただろ! ふっかけてきたのはあいつの方からだぞ!」
「文句あるの?」
「ないです」
「王族同士の謁見。楽しみにしてたのになぁ。はぁ」
「そりゃ無理なことだぜシルド。俺、空船に乗ってクロネアへ向かう際、ルェン・ジャスキリーが自己紹介した時にこう言っただろ。『第六極長か。あの虫女らしい人選だ』って」
「言ったような気もするけど、まさかその一言だけでここまで予想するなんて至難の業だろ」
「諦めろ。アズールとクロネアは犬猿の仲だ。今も昔も変わらないのさ」
「ジンが改心すれば随分と変わるんだがな。にしても、どうしてあんなに仲が悪いんだよ。初対面……じゃないんだろ」
「あぁ、ガキの頃に一度クロネアがアズールに来た時があってな。その際俺が虫女と会ったんだよ。んで、俺とあいつ、初めて会った時に開口一番、こう言ったんだ」
『うわ、虫みたいな女』
『うげ、頭がゴミだわ』
「……マジかよ」
「ミュウもそん時横にいただろ」
「うん、あの後は大変だったよ。二人が大喧嘩してアズール騎士団とクロネア護衛衆が飛んで来たんだもん。そして何故か戦争みたいになりそうだったし」
「まぁ、親父とお袋、相手側の王と王妃が仲良くなってたから、子供の喧嘩で終わったがな」
一歩間違えれば三大王国の二国が戦争を始めていたのかもしれなかったのか。
結局のところ、戦争というのは些細なことで起こるのが常だ。領土問題や宗教もあるが、歴史を紐解けば女性を巡った末だったり食べ物を投げつけられた恨みだったりと、溜め息しかでない始まりも多々ある。戦争にならなくて本当によかった。
ルェンさんの様子を見るに、普段のシェリナ姫は王族に相応しい気品と慈愛に満ちた女性だという。
しかし、残念ながら彼女にとって見るのも嫌な相手がこの世に一人、いるようで。例外のさらに枠外といったところか。
「ルェン・ジャスキリー。安心しろ、今頃はいつものシェリナ・モントール・クローネリに戻ってる。なんなら戻って確かめてきてもいい」
「いえ、私の仕事は皆様をクロネア滞在中、楽しんでいただけるようご案内することにあります。ここで引き返してしまえば、それこそシェリナ王女に叱責されるでしょう」
「そうかい、見上げた忠誠心だ。誇りに思うだろうよ、あの王女も」
「恐縮の極み」
珍しくジンが他人を褒めた。多少なりとも、申し訳なく思っているのかもしれない。他人のことなんて二の次、三の次のジン。自分を第一にしているものの、ほんの少しだけ……心境に変化があるのかもしれない。ジンまでもが日に日に成長しているんなだぁとしみじみ思った。こいつにとって良い方向へなれば、白帝児だけでなくアズールにとっても、素晴らしい形になるのかもしれない。小声でぽつり。
「二度とあんな虫とは会いたくねーわ」
現実は厳しい。
さて、そんなわずか数分足らずで終了し、肩透かしをくらった謁見の間も早々と退場して、階段を一分ほど降りると目の前に扉が見えてきた。扉は自動的に開いて、真っ暗な闇が迎えてくれる。ルェンさんが扉の前で止まり、つられて僕らも足を止める。
「ここは塔の中心部に位置します。今更ですが塔の名は『王芯』と呼ばれ、学園啓都を統括する歴代の王族が所有する塔です。最上階と謁見の間以外の階は、中心部が空洞であります。理由としましてはこれが王芯で働く者らの塔内における移動手段となっているからです」
と現れるは、もはや学園啓都では見慣れてしまった雲。説明する必要はないだろう。これに乗って一階へ降りるというわけだ。前世でいうエレベーターで、雲を見ても驚かなくなったのは、徐々にクロネアに馴染んできていると思えた。
雲の大きさは結構なもので、僕ら全員を難なく乗せて下降する。真っ暗と思っていたけど下へ降りる途中は常に周囲には光る樹木があり、不安になることはなかった。蛍林と呼ばれる樹木だそうで、クロネア名産の一つであるという。雲は静かにゆったりと降下し、無事一階へ。塔内の見学は残念ながら禁止されているらしく、僕らは一階の廊下を歩くだけであった。そして、本当なら昨日遊びに行っていたはずなれど魔法の館で引きこもっていた自分にとって、初めての……大園都へ。まさか入る最初の一歩が街のど真ん中から始まるなんて、随分と滑稽なものである。
「さぁ参りましょう。皆様、どこか行きたい場所はありませんか?」
クロネアへ到着して二日。
まだ二日しか経っていないのかと思えるほど濃厚な日数なれど、いいじゃないか。
驚き楽しむことが、旅の醍醐味なのだから。そして忘れてはならない。今日は、大事な大事な……とても重要な舞台になるだろう場所へ、向かうつもりだということを。
「じゃあお言葉に甘えて、ルェンさん」
「はい。アシュラン様、なんなりと」
「学園啓都で一番有名な図書館を……お願いします」
いざ、第二試練の舞台へ。
* * *
「……ふぅ」
「ご立派でございました、シェリナ様」
「どこがだ。見たかルェンのあの表情を。初めて見たぞ。失望したであろうな、羞恥の極みだ」
「その~の極みという言い方をあの子は貴方に憧れ使っております。シェリナ様を崇拝し、全てを捧げるつもりであるルェンが、どうして失望などしましょうか。第六極長の性格は、誰よりも貴方様が理解しているはずですが」
「相変わらず遠回しな励ましをするな貴様は」
「性分ですので」
「まぁよい。極長らに伝令は出しているか」
「既に。興味を示す者もいれば、我関せずとする者も」
「ルェンがいるのだ。変なことにはならんだろう。……が、昨日の魔法の館。実に面妖なものだ。こちらの想定外のことを引き起こす可能性は否定できん」
「左様で」
「しかもアズールだけでなく、我々にも不安材料があろう。あれほど厳命していた接触禁止令をあっさりと破った馬鹿者だ」
「……まぁ、あの子は特別ですので。『本命』と当たらなかっただけ、よしとしましょう。今朝クロネア王都へ旅立ったと報告がありました。付き添いの者もおります。万が一のことはないでしょう」
一息。
「しかし解せんな」
「?」
「アズール側の目的がだ」
「旅行だと聞いておりますが」
「本当にそう思うか?」
「……ふむ。考えすぎかもしれませんが、旅行以外となると、いろいろ面倒ですな」
「第三極長『怪人』を呼べ。奴の意見が聞きたい」
「御意」
「ただの旅行なら捨て置こう。だが、それ以外ならば……こちらも動かざるをえまい」