家族
「何で、ここに。アズール観光はどうしたんだよ!」
「「飽きた」」
「……」
涙が頬を伝い、少し鼻水も垂れて。鏡を見ればさぞ情けない顔になっているに違いない。急いで涙を拭き、あっちにいけと右手を振り回す。
ニタニタしながら見てくる妹と、ニコニコしながら見てくる姉。どっちもどっちだ、不愉快極まりない。先ほど奈落の底まで落ち込んでいた気持ちを蹴り飛ばし、必死に奮い立たせて二人を睨む。飽きたなんて、嘘に決まっているからだ。僕のために来たんだ。
「僕なら大丈夫だ。ちょっと今、情緒不安定になって落ち込んでいただけさ。昼間からほんと馬鹿みたいだと自分でも思うよ」
「ねぇ兄貴」
「ん、何だイヴ」
「家族に嘘ついてどうするの?」
……。
「嘘なんてついてない」
「家族に強がってどうするの?」
「強がってない」
「家族に悲しいこと言って何になるの?」
「言ってない」
「家族に誤魔化して意味はあるの?」
「誤魔化してない……!」
「家族に」
「うるさい!」
「……」
「ハァ、ハァ」
「じゃあなんで、泣いてるの?」
もはや、止められなかった。
わからない。何故、目からこんなに溢れてくるのか、全然わからない。止めようがないほど、もうどうしたらいいのか見当がつかないほど涙は泉のように流れゆく。頬を伝って顎にいき、机には小さな水たまりが出来上がっていた。
「もう、なんだってんだよ……!」
「シルド。貴方が今まで一生懸命頑張ってきたのは知っています。でも、足りないものがあったことに気づいていないでしょ?」
「足りないものなんて、ない」
「本音を言える相手よ」
姉が席を立ち、髪を撫でてくる。
「シルドの周りにはジン王子、モモちゃん含めいろんな人がいたはず。皆、いい人で素敵な学校生活が送れたでしょう。でもね、その中で一人でも、貴方の本音を心から言える相手は、いた?」
「……」
「どんなに仲が良くても、自分の全てを何もかも言える相手というのは、生涯一人か二人でしょう。仲が良いといっても所詮は一年の間柄。心を完全に開くにはまだ時間がかかるでしょう。そんな状態の中、シルドは一人、自分の弱い部分や汚い部分を全てさらけ出せる相手がいない中、一生懸命、本当に一生懸命頑張ってきた」
「モモやジン王子が凄くいい人ってのはあたしたちも知ってるよ」
「でもね、何も恐れずに、安心して自分の全てを見せられるわけではない。それは人として当たり前のことだし、誰もが共通すること」
「そして、普通なら自分の全部を平気で見せれる相手ってのがいるよね」
「「家族」」
イヴも、席を立つ。
「兄貴はさ。頑張ろうって、夢を諦めないって自分を鼓舞してここまでやってきたんでしょ? だったら自然と自分に厳しくして他人に甘えることを禁じていたはずだよ」
「モモちゃんやジン王子が多少、その鎖を解いてくれてはいたけれど、やっぱり全ての鎖を解けるわけじゃない」
「そしてそんなのが溜りに溜まってきたとしたら。いつか……限界がくるよ」
「限界は自分で許容できるはずもなく、自然と出てしまうもの」
「兄貴」
「……なんだ」
「第二試練って、他国の図書館の謎を解明することだよね」
「あぁ」
「シルド、貴方が今やっている、他国に行くための情報探し。もしステラさんから図書館や新聞といった媒体からの情報探しを禁じられていなかったら、貴方はどうしてた?」
「そりゃ、図書館を使うに決まってる」
「兄貴。ならさ、仮に他国に行ったとして、謎を見つけられたとして、解くためにどうするの?」
「図書館や新聞を使うに決まってるだろ。さっきから二人は何を言ってるんだ。真意がみえないよ」
「まだわからないの?」
「え……」
「他国の図書館にある文字は全て、その国の言葉なんだよ?」
その国の言葉。
外国の言語。
「どうやって調べるの? 兄貴、クロネアかカイゼンの言葉、知ってる?」
「……知らない」
「知らないで新聞や図書館の文字、読めるの?」
「……読めない」
「よく考えてシルド。今、貴方はステラさんから練習をして頂いてるのよ」
「練、習」
『二国についての情報収集は、一切禁じる』
『ただし、人の口からでのみ、許可する』
『ここで重要なのは、図書館や新聞といった媒体を青少年から切り離すことにある。視野や教養を広げるため』
……そうか。
「今やってること、図書館や新聞を使わず何かの決断を下すことは……他国に行けば必ずやることだ」
「「そう」」
「何も知らずに、わからずに、字も読めずに、他国の図書館の謎を解かねばならない」
「そうよシルド」
「ただね兄貴、言葉に関してはあたしの陣形魔法“同音電糸”がある。口による意思伝達は可能だよ。けれど、現在の魔法学において、他国の文字が読めるようになる魔法は……残念ながら確立されていない」
「第二試練の舞台は、人との意思伝達ができるかどうかで全てが決まる……ってのか」
「兄貴にとって、何も知らずにそうなってしまった時、きっと底知らぬ絶望がくるだろう」
「だからステラさんは……練習を?」
「えぇ」
「図書館や新聞を兄貴から切り離したのは、あっちに行くための予行練習だったんだよ。他国に行けば嫌でも直面する『知らない文字』という名の恐怖。今まで自分の貴重な情報源だった図書館と新聞も、文字が読めないとただの施設と紙でしかない」
「シルド、貴方はおそらくステラさんから言われたはずよ。文字を介さず調べるという意味の大切さを。人と話す重要性を意図した言い回しは、なかったの?」
『よく聞いて、考え、自分で判断しなさい』
『意味はある。価値もある。自分の大きな成長に繋がる』
『耳で感じ、目で知り、身体で学びなさい。青少年』
「……あった」
「答えは、既に示されていたんだね」
「そうか」
そうだったのか。
少し先のことを考えれば出てくるだろうもの。けれど、なかなか思いつけないもの。『どちらかの国を選ぶ』ことだけに神経を尖らせてしまい、目先の障害だけを見ていた。ほんの後に迫りくる、文字が読めないという壁に対しては、考えが及ばなかった。
本来なら、どちらかの国に行くとしても言語が違うのは当たり前のことだ。
そのため、多少はクロネアかカイゼンの言葉を勉強するのが妥当なもの。ただ、どちらか一方を選べば一方の勉強は意味がなくなり、結果として先に行く国を決めてから勉学に励むのが効率的だと思う。
ステラさんに第二試練を言われた当初は、きっとそう考えていただろう。あまり覚えていないけど、順序よく目標を立て、消化していくつもりだった。なのに、いざ第一試練が終わって、第二試練の夏休みまで時間に結構な余裕があるとわかったこと。加えて、行事や学校生活での出来事、勉強にも力を入れないといけない、モモの誕生日や休日における新しい出会いなどありとあらゆる刺激が目の前で起こる現実を過ごしていって。
次第に、夏休み前にどちらかの国を決めればいい、という考えだけが残ってしまった。
そのように、頭を切り替えてしまった。
となってしまえば、もはや自ら修正することは不可能だった。
先のことを考える余裕は消えてしまって、今自分の目の前にあることだけに集中してしまって、第二試練の重要性を、無意識のうちに少しずつ無いものにしていった。忙しい毎日を理由に、見失っていた。
「……いや」
ちょっと、待ってほしい。本当にそれでいいのか。ひとつ、おかしなところがないか。
そうだ。他国に行くことがわかっていながら、その国の『文字がわからない』という事実に今まで気付かなかったことが、ありえないだろう。何故だ。
前世でいうアメリカに行く時は、当然英語という文字がわからないと生活できないというのは常識だったはずだ。なのにどうして僕は、そんな『常識』を忘れてしまっていたんだ。たとえ矢のように過ぎていく忙しい毎日であろうとも、さすがに気付くはずだろうが。
百人が今の僕を見ていたら、百人全員が笑っているに違いない。そんなことにすら気付かなかったのかよ、と。
「兄貴。魔法学の一つにある『常識の死角』って知ってる?」
「何だそれ」
「常識すぎる事柄の一部分が、ひとつでもネジ曲がってしまった時、人は途端に常識を認識できなくなる現象のことだよ」
「お前難しいこと知ってんな」
「陣形魔法ではよくあることなんだよ。陣を書く手順が一つでも間違うとね、途端に分からなくなる場合があるの。書き順って陣形では凄く重要でほんの一部分が狂うだけで発動しない場合もあるんだ」
「へぇ……。あ」
前世で起きた、とある出来事を思い出した。小学六年生の頃、ダニエルという男の子がいた。彼はハーフであり英語がペラペラで頻繁に英語を披露しては皆からかっこいいと言われていた。ただ、英語は話せるけれど一つおかしなところもあって。
ダニエルは、英語は話せるけれど文字が書けなかったのだ。
別段、手が不自由だというわけではない。英語の文字を勉強することを極端に嫌っていたのだ。もともと国語も大嫌いだった彼は親から何度言われても決して文法や英語の文字を練習することをしなかった。彼曰く、「話せるんだからちょっと勉強すればすぐ覚えるよ。文法だって英語が話せるんだから理解しているってことだろ? 大丈夫さ」と自慢げに話していた。
しかし、小学六年生の英語のテストで彼は赤点を取ってしまった。
単純なこと、読めないからだ。
彼がいつも使っている英語がどの文字に該当するのか理解できない。普通ならありえない現象に、皆不思議がっていた。話せるのなら文字ぐらい書けるだろうと。今思えば、ダニエルは文字ではなく音で英語を話していたのだろう。文法や話し方も全て両親が話す英語の音で記憶しており、紙に記された文字がどの音に該当するのか、分からなかったのである。
言葉がわかることだけが先行してしまい、文字への関心が極端に消えてしまった。
結果、本来英語を勉強する上で文字から始まって話せるようになるはずの常識が、順序が、逆転しまった。
僕はクロネア語を魔法により話せるようになるとわかった途端、『話せる部分のみ』を会得したはずなのに、前世の記憶も手伝って文字まで理解した気になっていたのかもしれない。ダニエルのように、こと言語において気が大きくなっていたのかもしれない。
慢心による思考の欠如。
常識の死角。
思い込み。
油断。
いろいろあれど、他国の人と魔法ひとつで自由に話せるという衝撃は、思いもよらぬ綻びを生じさせることになってしまった。
それを今、ようやく……気付けた。
「一年前と全然変わってないな」
「それは違う」
ユミ姉が即座に答える。
「シルド。ここで大切なのは他国に行った際、文字が媒体となったものが使えないと知ること『だけ』よ。自分の情けなさを反省するためじゃないの」
「けど!」
「黙らっしゃい」
「はい」
「ただそれだけなの。シルドに非があったとか、成長できていないとか、そんなものは断じて考える必要がないことなの」
「実際は」
「失敗と成功の割合が7:3で構成されている人ほど強くなれる。これ、お母様の格言。苦しみを知り、なおかつ活かせる人間というのは、存外少ないもの」
「……」
「シルド、いい? 失敗した時、落ち込むか切り替えるかは個人の力量で変わる。けれど、どちらにいっても成長の材料とできないのなら、失敗する意味すらなくなってしまう。前を向きなさい。最終的に己がどうありたいのかを見据え、信じなさい。自分は大丈夫だと。シルド、貴方はもうアズール図書館の司書になりたくないの?」
「なりたい」
「シルドの夢は、失敗なしの道で掴めるものなの?」
「いや、失敗ばかりさ。……イヴ」
「何?」
振り返ると、穏やかに笑う妹がいて。
「ごめんな」
「いいよー」
「そうしてやっと、自分の目標を再確認したシルドに、問いましょう。今回の失敗は……シルドにとって、情けないもの?」
「いいや。僕の大きな成長に繋がるものだよ」
言葉と同時、二人に抱き着かれ、なんとか倒れずに受け止めた。一年前どころか、これからも共通することがある。
失敗。
心から体験したくないけど、残念ながら失敗とは、人の一生において永遠に付きまとう存在のようだ。これはもう、一年前がどうたらこうたら言う以前の問題で。
ただ、一年前と、はっきり変わったこともわかった。
失敗に対する、受け取り方だ。情けない、恥ずかしい、反省せねば。ずっとこれが、失敗に対しての受け取り方だった。失敗することは嫌だし、辛く、怖い。だから出来るだけ避けるよう、成功するよう考え行動していた。合っているのだろう。正しいのだろう。
しかし、そういう考えをしていた場合、いざ失敗に直面した時。
脆いのだ。
弱いのだ。
誰だって嫌なことは避けたい。僕も一緒。だから頑張るのだが、そうやってある意味、避けたいと思う逃げ腰の意思で取り組んだ場合は、失敗がくるとそれはもうボロボロになってしまう。怖いから。
失敗を好きになるのは間違いだが、怖がるのはもっと間違いだとユミ姉は言う。
今、僕は二年生であり、これから二国のうち一つを決断する。そして決断した後に他国へ渡り、多くの障害を前にするだろう。失敗が後ろから這い寄って来るだろう。
「だからどうした」
失敗という存在そのものに、僕は恐怖を覚えていた。
口では何とでも言っても、やっぱり怖かった。嫌だった。だからこそ、もうやめにしたい。自分でも薄々気づいていたし、どこかで踏ん切りをつけたかった。区切りが必要だった。今が……その時であろう。
「で。偉大なる兄貴様」
「何だ、可憐なる妹よ」
「今回の件、どうお考えで?」
「ククク、何とも愚かなものよ。これ如きでヘコむなど」
「ヘコむなど?」
「馬鹿としか思えなかったわ!」
「だよねぇええええええ!」
「“愛しき髏頸・極”。……はぁ、どうしてシルドとイヴは二人一緒になるとこうなるのかしら」
失敗上等、かかってこいよ。
これから山ほどくるんだ。いちいち情けないだの恥ずかしいだの言ってられんのだよ。夢を掴むために、前進しなければならないんだ。
妹と二人で姉に土下座する中、そう誓った。
負けられないと。
そうして、魔法が解かれた直後に、大声で叫ぶ。さっきからクスクス聞こえるんだっての。
「こそこそ隠れて何やってんだ? ジン、ミュウ、モモ!」
「あれ、バレてた?」
「もう、ジンが笑ってたからだよー」
「嘘をつくって結構大変なのね。フフフ、楽しかったけど」
「んで? 決まったのか、どっちの国に行くかをよ」
「あぁ」
「ちょ、待ってよジン。シルドくん、私が改めてクロネアを説明するよ。さっきまでとは状況が全然違うし、シルドくんも気づいてくれたし」
「いや、いいんだ。それに、もう出た」
「ってなわけだミュウ。座っときな」
「……うん」
答えは出た。
イヴがいること。ステラさんの最後の言葉。いろいろ吐き出せて、考えがすっきりしたこと。
この三つが組み合わさった時、出た。
なんともおかしな三つだが、不思議と混ざり合い、導いてくれた。
「決断の時だ」
笑って皆を見る。もう、迷いはなかった。