占い
高身長で、紳士帽子と紳士服を華麗に着こなす一人の初老。服の色は紺で、落ち着いた印象を受ける。
黒の眼鏡に白毛の髭。経験を重ねた者だけが出せる聡明な気迫と落着きある佇まいの彼は、店主のいない店で悠然と座っていた。
見た目は老人なれど、瞳の奥から感じる強固な意志に思わず足を止めてしまう。にっこりとほほ笑んで、彼はこちらに来る。
「今、ちょっと店主は留守でね」
「ピュアーラさんとお知り合いですか?」
「あぁ、彼女とは数年前からの知り合いだ。今日は食材の買い出しに追われていたようで、代わりに私が留守番をしていたのさ」
「そうだったんですか」
「私のことは思い出せたかな、蒼くん?」
「はい」
渋味のある初老の声に思わず背筋が伸びる。高雅な人格を匂わせる彼に、微かながら憶えがあった。
初めてアズールに来た際、行き交う人々や王都の雰囲気に呑み込まれてしまった。怖くなかった、といえば嘘になる。ただ、それよりも高鳴る鼓動で全身が沸騰するような感動が勝った。そして、震える足でなんとか王都を歩いている時。
僕は、一人の老人とぶつかったはずだ。
一年も経てば普通なら憶えていない。しかし……。
『僕は、夢を必ず叶えるためにここに来たのです』
『ワハハ、そうかそうか。なら頑張りたまえ。その言葉、決して忘れぬようにね』
彼から言われたことは、しかと胸に刻まれている。
「憶えていてくれたのかね。嬉しいねぇ」
「あの時は失礼しました。余所見をしていまして……」
「いやいや、初めて王都に来たのだから仕方ないさ。ところで、どうだい。少しこの老いぼれと遊んでいかないかい?」
「遊びですか」
「そうさ。占いだけどね」
「「占いっ!?」」
さっきから人形のように声ひとつ出さなかった我が家の姉妹がむんずと前に出てきた。その際僕の頭をユミ姉が、左肩をイヴが掴み、ちぎり捨てるように後ろに弾き飛ばされた僕を誰か介抱してくれてもいいと思う。
ことウチの姉妹は占いが大好きなのだ。昔からそうだったけど、まさか今になっても信じてるとは思わなかった……。
「おおっと、お二人さんは彼の友達かい」
「違うよお爺ちゃん、あたしは妹で」
「私が姉になります」
「ほほぉ、姉妹か。こりゃまためっぽう美人さんだ」
「兄貴、このお爺ちゃんすっげーいい人だぞ!」
「たった一言で懐柔されんな!」
嬉々としながらユミ姉とイヴは座っている初老の前へ。遅れて僕も二人の後ろに座る。
どんな占いなのかと興味津々な姉妹を前に、初老は右手に持っているステッキを僕らと彼の間にある台へ、垂直に置いた。そして、ステッキを離した右手をこちらに見えるよう仰向けにして、宙を掴むように……グッと握る。
「“廻廊の砂上”」
ステッキが、砂と化した。
みるみる煌めく粒となり、水のような流体へと変化していく。いや、実際はただの光る砂だ。それなのにまるで水のような動きをし、息を呑んでしまうほど可憐な輝きは、摩訶不思議な世界へと招待される感覚に襲われた。
砂は、とても小さな階段となる。
左右対称の螺旋階段となり、台の上から始まって天井へと続いていった。天井に達すると今度は光る結晶へと変わり、雪のようなゆったりとした速度で台へ落ちてくる。
そして再び螺旋階段へ集まっていき、天へと昇っていく……。イヴがとろんとした表情で“廻廊の砂上”を眺めていた。
「やばい。お爺ちゃんに惚れそう。いや、ダメダメ、将来の旦那がお爺ちゃんとか絶対ないよ。でも、大事なのは二人の愛だし。そこに年齢は関係ないよね……。けどさ、十年後旦那が死んじゃったら。あたし未亡人かぁ。そして旦那と元妻の息子が言い寄ってきて、禁断の愛ってやつかぁ。いいかも……」
イヴはしばらく現実の世界に帰ってこないようなので、希望のあるユミ姉を見る。
「これ、癒呪魔法として使えないかしら。主に相手を長時間自分の虜にする……。でもそれだと我に返ったとき面倒ね。できたら記憶も一緒に消せるように。あぁ、確か記憶操作は魔法違反に該当してしまう。あら、だったらいっそのこと廃人にさせてしまえば」
こっちはこっちで違う世界にいっていた。
「ちょっと可哀そうだけど、二人には幻覚を見てもらっているよ」
「え、今この二人幻覚見てるんですか」
「あぁ、いつもの二人じゃないだろう?」
……ウチでは大抵こんなです、とは言えない。
「はい」
「あまりこういうのは私も好きじゃないが、どうしても蒼くんに伝えたいことがあってね」
「今更、大変失礼なのは承知で伺いますが、貴方は何者ですか」
「ワハハ、大したものじゃないよ。只の占い師だ」
黒眼鏡をかけ、髭を生やした初老は席を立ち右横にあった椅子へと座った。彼の前には別の台があり、正面には空席がある。
前をちらりと見ると、姉と妹が独り言を楽しそうに口にしていた。再度横を見ると、初老と台と空席が。
「“廻廊の砂上”は見ての通り相手に濃度の高い幸福催眠をかける魔法だ。日常生活で、妄想に意識がいったとき、周りの声が聞こえなくなることがあるだろう? ボーとしていた、ともいうね。ほんの数分だけ、相手にそんな世界へ旅立ってもらうものだ。妄想は誰しも楽しいものさ」
「何が目的ですか」
「先も言ったよ。私は、蒼くんに伝えたいことがある」
「なら、二人の前で言えばいいはずです。わざわざ幻覚の魔法を使うなんて……。一歩間違えれば、僕らは貴方の操り人形になっていた可能性もある」
「本当に、そう思っているのかい?」
……“廻廊の砂上”は、眼前の初老により説明された魔法──ではない。いや、合ってはいるのだが、ほんの一部分の説明だろう。
まず間違いなく、初老の魔法は、相手に強力な暗示をかける魔法だ。妄想世界へ誘った程度なのは、あくまで彼が魔法の威力を弱めたからに過ぎない。
ユミ姉とイヴは、歴代のアシュラン家の中でも極めて優秀な逸材とされている。幼少より我が家最強の母さんからみっちり修行を受けていたから、二人とも魔法師としての腕は度を越している。事実、その強さが父さんに認められたからこそ、十代の娘を留学に出させてもらったのだ。半分脅迫していたが。
それでも。
ユミリアーナ・アシュランとイヴキュール・アシュランは純粋に強い。間違いなく。
そんな二人を容易に術中へと誘った彼の魔法は……おそらく特級・癒呪魔法だと推測される。癒呪魔法を使いこなし、同時に耐性もあるユミ姉すらかかっているということが、特級クラスである何よりの証拠だ。
僕が彼の魔法を妄想世界へ誘う程度の魔法ではないと確信したのはここにある。上級以下の魔法なら、耐性のあるユミ姉がかかるわけないからだ。
問題は。
そんな本気になれば相手をどれだけ惑わせられるか想像もしたくない無慈悲な魔法を……幸福まったりの妄想世界に旅立たせる程度にしたことにある。
「貴方は、何者ですか」
「占い師だと、これも先に言ったよ」
相も変わらず渋味のある声と笑顔を向けて。どこまでも優しく、温かい空気が店内を覆う。
本来なら恐怖を覚えるはずなのに、身体の芯から安心させる不思議な空間に包まれた。横で姉妹が魔法の幻想に浸っているにも関わらず、身体が自然と、席に座る。
「感謝するよ」
「いえ」
「では、蒼くんにどうしても伝えたかったことを言おう」
口調は先と変わらない、笑顔も一緒で変わらない。ただ、目だけが異様なほど熱を帯びて、僕を見据えて相手は言った。
「近いうち、キミに大きな試練があるだろう」
もはや占い師とは、到底思えぬ相手だった。
* * *
敵とは思えない。味方とも思えない。双方どちらでもない無色の男。色がない初老。朝霧のような掴めぬ存在である彼は、両手を組みその上に顎を乗せ、じっと僕を見据えて静かに口を開いた。
僕に大きな試練があると。
心あたりは、たった一つしかなかった。
空は青く、穏やかな日差しが店内を照らす。時折子供の笑い声や大人の歩く音も聞こえて。数歩いけば届く距離なのに、まるで別世界と隔てられた気分にすらなる。日差しに雲がかかったのか、ゆっくりと日の光が弱まっていった。横では、砂の巡る廻廊が行き交っている。
ただ、明らかな変化もあった。天井まで届いていた螺旋階段が、ほぼ半分までになっていたのだ。
「いい姉妹だ。本当に」
紳士帽子を取りながら、自称占い師は深く頷く。
「既に彼女らは自分が暗示にかかっていると気づいている」
「えっ」
「この“廻廊の砂上”は相手を幻惑の泉に誘うのに加えて、相手が魔法の呪縛から脱出しているかどうかを発動した魔法師にわかるようある細工が施されている」
「砂の階段ですか」
「正解だ。相手が深く暗示にかかっていれば、砂の螺旋階段は天高く昇っている。しかし、徐々に解かれているのなら、呼応して階段は低くなっていく。既に階段の半分は消失した。恐るべき速度だ」
「僕から見ても、上級の魔法師ですからね」
「何を言っているんだい。全て蒼くんのためだよ?」
不意な占い師の言動に、一瞬思考が停止した。
僕のため? 何故。
「彼女らは、自分が暗示にかけられたとわかった時。まず何を思うかな」
「相手の魔法師が敵である、かと」
「そうだねぇ。しかし、蒼くんの姉妹なら次にこう思っているはずさ。蒼くんが危ないと」
「……?」
「彼女二人はアズールが初めてなのだろう? そんな自分らをそこら辺にいるだろう爺が狙うわけがない。ならば、次点で狙いは蒼くんだと悟るだろう」
「……」
「先ほどこちらの姉妹は上級の魔法師だと言ったね。きっと彼女らも自分の腕前はわかっているだろう。そんな自分らが捕らわれたのだ。私の力量も瞬時に理解したはずだ」
髭を一度触り、満足げな表情をして眼鏡を下ろす。
「こうしている間にも、現実では蒼くんがどうなっているのか気が気でないだろう。しかし助けるには方法は一つしかない。単純さ、この魔法を解くしかないのだ」
「……」
「夢うつつの世界に旅立ってもらう予定だったのに凄いねぇ、ワハハハハハ……。さて、話している間も砂上は消えるばかりだ。本題に入ろうか」
眼鏡を台ではなく床に置いた。何の意味があるか一切わからないが、考えている暇はない。今は、目の前の老人に集中する他ない。
「蒼くんは近々、大きな舞台へ旅立つね?」
「はい」
「おや、素直に返事をしていいのかい」
「えぇ、僕も怖いぐらい不思議なのですが、自然と返してしまうんです」
「そうか。本来ならそれについてゆっくりと私の見解を言いたいが時間が時間だ。端折らせてもらう。大きな舞台に行くといったけれど、一つ懸念があるのだね?」
「はい、舞台は僕が自由に選んでいいのですが、そこで何をすればいいのかまったくわからないのです」
「実に率直な感想だ」
「……事実、ですので」
「では、やはり私がするべきはその部分だろうね」
まるで自分が何をするために来たのか最初からわかっていたような素振りだった。
紳士帽子をくるんと回し、台に置く。瞬間、帽子は虹色に薄く光った。ただただ驚くばかりの僕を前に、占い師のお爺さんは人差し指で帽子の上を時計回りになぞった。虹色だった帽子は応えるように半回転し、仰向けとなる。流れるように初老は帽子の中に手を入れて、数秒まさぐった後。
あるものを取り出した。そして、とても満足そうに……笑った。
「ワハハ! いや、これは傑作だ! ワハハハハハ!」
「あの、これは」
「私がやれるのはここまでだ」
「え、と」
「いやはや、まさかこんなものだったとは。占い師の名が泣くよ。ワッハッハッハ!」
取り出したのを僕の前にすっと出す。
差し出されたのは、一冊の本。
大きな文字で「魔法の入門」と書かれた、只の本だった。
「あげる」
「い、いりません」
「そう言うな。これが私の占い結果だ。いや本当、笑うしかないよ。本来ならもっと役に立つものが出てくると思ったのにね。いやはや、つまりはこういうことだ。今の蒼くんに、私からのものは別段いらないということさ」
「いらない……?」
「あぁ。まぁそんなとこ」
ろ、と続くはずだったのだろう。けれど、初老の言葉が最後まで続くことはなかった。
左より、鬼の形相をしたイヴが老人の頭部目がけて跳び膝蹴りを見舞ったのだ。
「イヴ!?」
「兄貴に何をしやがった爺ぃ!」
「待て、イヴ、落ち着け! 僕は大丈夫だ!」
「ほほぉ、こりゃまた見事な蹴りだ」
感嘆の声をあげる占い師は、ほほ笑みながらイヴの蹴りを片手で止めていた。手には帽子を持っていて、イヴの膝がちょうど頭を入れる部分にめり込んでいる。ただ、魔法だろうか、彼女の威力を完全に消しているようだ。
「それでは私はこれで、蒼くん」
「逃げられるとお思いで?」
ぐにゃりと、視界が曲がって落ちて揺らいで凹んで押されて窪んで引っ張られた。
意味がわからなかった。
とにかく、断じて立っていられないほどの世界が視界で展開されて……!
「“五洸・万華鏡”」
何とか左だと思われる場所に目を向ければ、ユミ姉が顔を傾け、針金のような茶色の髪を全身より逆立たせ、目はギョロリと老人がいたであろう場所に注がれている。まずい、二人ともマジだ。
「ユミ姉、イヴ! 止め」
「失礼」
言葉を置いて、彼の気配が消えた……気がした。
一瞬の出来事だった。
すぐさまユミ姉は魔法を解除し、初老のいたであろう場所に三人の目がいく。誰もいない。自称占い師の老人はこつ然と消えていた。ただ、いたと思われる床より光るものがあって。
イヴが椅子を蹴り飛ばし光の正体を確認する。
陣。
床に掘られた、陣であった。
「眼鏡をさっき落としたのは床を掘って陣形魔法を発動させるためだったのか……」
「逃がすかぁ!」
イヴは左ポケットよりケースを取り出し中身を宙に撒いた。ありとあらゆる陣の描かれたカードが投げ出され、かと思うと全て瞬時に止まり、四枚のカードが床に掘られて徐々に光を失っていく陣の東西南北に直立で刺さった。
僕がもう止めろと叫ぶよりも早く、利き手の左手を荒々しく中央に叩きつけ。
「“行く末なぞれ楼炎道”」
紫の炎が陣の中心に灯り、橙色の炎が近くで小さく灯る。
そして、橙の小さな火は凄まじい速度で南東に移動していった。
「姉ちゃん! 南東に移動中。かなり速い」
「それだけわかれば充分……追うわよ」
「もち。よくわかんないけど敵で間違いなし。細かいことは後から聞く」
「えぇ、売られた喧嘩は喜んで買いましょう」
「「逃がさない」」
「“愛しき髏頸”」
アシュラン姉妹の足に、三重の紐が巻きついて、横にドクロが出現する。
姉妹の顔が、怒りから驚きへと豹変していく。何度も自分の足と僕を見て、口を開けて、それでも理解できないと言わんとする表情。
互いに顔を見合わせて、二人でよくわからないアイコンタクトを交わし、結果やっぱりわからないという結論に達したのか……、双方そろって口にした。
「「何で?」」
何で、邪魔をするの。
何で、初老を逃がすの。
そして、何で、お前が──
「「魔法を使えるの!?」」
二人が留学して、はや二年が経過して。ここ二年はまったく会っていなかった。いろいろあった、濃い二年。二人は僕のことをよく知っているけれど、この二年はまったく知らない。僕がどうやってアズールに来て、試験を受けて、何を経験したか、二人は知らない。
アシュラン家の男は代々魔法がほとんど使えないことしか知らない。自分の知っている、シルディッド・アシュランじゃない。
「貴族科の校舎近くに、美味しい喫茶店があるんだ。そこで全部、話すよ」
二人には、どのみち話すつもりだった。だからそれが早まっただけのことさ。
左手に輝く本を携えて、優しく笑い外を見る。
雲がはれ、どこまでも続く壮大な天の海が広がっていた。