文現心
泣き言を言うつもりはない。言い訳をするつもりもない。
「全力でやる。そして勝つしかない」
昼。外のベンチに座りながら昼食をとる。
午前の試験が終わり、最後の試験二科目に向けて英気を養う。一つは都市や町といった人口集合体の動きと機能性を学ぶ『人集組学』。そして最後が、マリー先生が担当している前世でいう国語、『文現心』。この二つを終えれば、貴族科の一年試験は終了となる。
現状。
午前の試験で七つ、回答できない問題があった。ケアレスミスはないと思っているが、恐らくある。昨日の試験にも当然ミスはあるだろう。だから、このまま残りの二つを終えたとしても、総合失点数で、僕は彼女に……。
「相も変わらず、十五分で終わらせていたしな」
昼明かりの眩しさが、やけに強い。……現実、このままでは確実に負ける。かといって、残りの二科目で逆転できるかといえば、それも無理なことだろう。
そして……僕の負けを覆す方法は、今のところない。いや、今のところではない。こればかりは、どう足掻こうとも巻き返しができるものではなかった。──ならどうする? 諦める?
「っざっけんな……!」
諦めてなるものか。諦めてたまるか。
このままいけば彼女はあのままだ。過去に何があったかは定かじゃないけど、夢を諦めた者として強い執念が彼女にあった。笑いながら狂いながら絶対に揺るがない想いがあった。
なら僕は、それに打ち勝たねばならない。自分のためにも、彼女のためにも。あそこまで夢に対し憎悪のある女性はいない。助けなければ、彼女は救われない。
一年試験は今日で終わりだ。再び画麗姫と接触できるのは来年の試験になる。それだけは断固として阻止する。とにもかくにも、目の前にやるべきことがあるのにグダグダと悩むのは愚の骨頂。
愚か、だ。
次の試験は『人集組学』。僕の最も得意とする科目。チェンネルにいたから都市といった大多数の人間が動くことによって発生する流れや構造を学ぶものは、僕にとってとても魅力的なものだった。だから、最初から好きというのもあって積極的に取り組んできた。
まずは次の科目で満点を目指せ。
不安や悩みは後に考えろ。そうだろ、それが今僕のすべきことだ。壁があるのなら、階段やら瓦礫やらを積み上げて自分で登る準備を整えろ。いつか壁が消えると右往左往していただけの自分は、とっくの昔に卒業済みだ。
逃げるな。諦めるな。それだけは、今の僕から最も縁遠いものに違いないはずだ。だから、いけ──!
「不安があるなら、それごと巻き込んで、進んでやるよ」
※ ※ ※
「はい、それでは人集組学の試験を終わります。手を置いて下さい」
ラスト二つのうち、一つが終わった。手ごたえは……ある。ミスもない。おそらく、満点だと思う。今は信じて切り替えよう。
横を見れば、右の廊下を見たまま動こうとしない女性がいる。この科目も一緒、つまり今のところ全科目を十五分で終わらせている。難しい問題も、時間がかかる問題も、普通の問題も、等しく彼女の前では名前を書くと同義。なんら悩む必要はない、シンプルな問い。……今、彼女はどんな表情をしているのだろう。どんなことを考えているのだろう。
「諦めることは、決して悪いことじゃないわ」
ッ!?
「むしろ、生きる上での香辛料というべきかしら」
「……随分と、きな臭い言い回しだね」
「どう抗おうとも、人生という単体では所詮、ナマモノに変わりはない。単一的な味。だから刺激や味を変える趣向として、香辛料が必要なのよ」
「諦めることで、自分の人生に刺激を与えろってことかい?」
「違うわ。方向を修正するのよ。ナマモノだけで充分と錯覚している愚か者を、正しい道に戻すために」
「ならそれは間違ってるね」
「何がかしら?」
「キミの言うことを正しくしたいのなら、香辛料よりも『ナマモノという素材をより活かす方法』を模索するべきだ。ナマモノの限界を勝手に決めて、味を誤魔化すだけの方法は……自ら放棄するのと同じことだよ」
クルリと、顔をこちらに向けた。目が合う。
「活かせない人間が何を言っているの?」
「活かすことを諦めた人間にはわからないだろうさ」
僕と彼女の声の大きさは、とても静かで周りの人には決して聞こえないものだったであろう。
だが、僕には桃髪の女性の声が心の奥底にまで響くほど、深く重く、悲しいものだった。
「それでは、一年試験最後の試験を開始します。準備はよろしいですか?」
僕は……彼女に。
「では、始めてください」
本当に勝てるのだろうか。
試験時間は変わらず一時間。
科目は前世でいう国語、文現心。マリー先生はどの先生よりも正確丁寧をモットーにしていて、テストでもそれは変わらない。問われる問題も基礎・標準・発展と割り振りを順当にしている。定期的にマリー先生がやる小テストを受けた僕の感想だ。大問は全部で四つ。それぞれ一問目から順に基礎、標準と上がっていき最後の数問を発展にする。
わかりやすい、丁寧な問題。
実際、人柄の良さも相まって、彼女を嫌っている学生はいないと思う。だから、勉強した成果を試験の結果として反映させられる試験だ。
それは、等しく隣の女性にも適用される。
問題を解きながら思う。発展は当然難しいけれど、彼女にとっては相も変わらずだ。このままいけば他の科目と何ら変わらない。そして結果も変わらない。総合点数も他と一緒。……満点。
「クソッ」
活路が見出せない。見出せる方法が見つからない。
大問の二まで解き終わって、大問三へ。大問三は比較的長めの論文を出題し、その後解いていく系統の問題だ。順調に解いていくが、徐々に不安が大きくなっていく。自分が順調ということは、隣の夢を諦めた人も同じはず。どうしてもそう思ってしまう。どうしてもそれがよぎってしまう。
……大問三が終わった。
……終わってしまった。時間は試験が始まって四十分が過ぎた。残りは大問四。それで終わり。打つ手がないままここまできてしまった。結局はもう僕に残されたものは、足掻く他はないのだろうか。いや、だろうかと疑問しても無意味だ。ないのだから。
手が震えた。小刻みに震えてきた。どうすれば、どうすればいいんだ。
結局、僕は口だけだったってことか。あんなに大見得きって、いざ現実はこんなもんだ。ちくしょう。目の前に彼女が現れて、昨晩、彼女の真意に気付いた時。絶対に助けたいと思った。このままでは、彼女は自分で仕立てた檻に閉じこもったままだと。
わかってる。
自己犠牲による救いをしたかったのもある。
この半年、いろいろあったけどおおよそ上手くいってきた。図書館の件を除けば大体のことが軌道に乗った感じだった。だから、これも心のどこかで何とかなるんじゃないか……って。そう思っていた。けど──! 助けたい。彼女を、このままにしたくない!
「ッ──!」
顔を上げ、唇を歯で噛む。
じんわりと血の味がする。
時間は残り十五分。
大問は残り一つ。
あぁ、ああ。やはり、どう思っても。
こればかりは、もう。
……。………………?
あれ。……あれ?
何だ、何かがおかしい。今顔を上げた時、何かおかしな。そう、違和感があった。何かおかしかった。問題用紙か。いや、特に問題用紙に変なミスはない。大問四を除いて全て回答しているし、解答欄の書き違いでもない。なら、何だ。どこだ。僕自身じゃ──ないのか。
視界? 視界のどこかが変だった。
右横? 右横の────何が。
「…………」
スッと右を見た。それは別段カンニングをするための動きではなく、辺りを少しだけ見回す程度のもの。だから僕の動きをクラスの皆が不信視することはなかった。ただ、右横を見ただけだったのだから。
それだけだ。
そして止まった。ほんの数秒だけど、僕にとっては……世界が止まった。
画麗姫が、まだ問題を解いていた。
試験時間、残り十一分のことだった。




