これからも
「……」
「へぇ、何とも面妖だね。腹ぁ、喰い破ったつもりだったんだけど」
リリィ・サランティスは、自らの命が“まだある”ことを確認した。
喰われたであろう左腹を手でさする。大丈夫、ある。ただし、引き裂かれたことにより噴き出たドロリとした赤い液体が、否が応にも残酷な現実を提示していた。致命傷かと思えたが、そこまで深くはない。だがこのまま戦いを長時間続行することは……不可能である。それぐらいの傷であった。
目の前で“氷拍の護”が砕かれた瞬間、咄嗟に水の分身を前に作り出したことが功を為した。もし何もせず敵の攻撃を直で受けていたのなら。今頃自分は森の海へ落ちていただろう。
傷の深さを見て、後どれくらいの時間を戦えるか思慮する。
おおよそ、十分程度だろうか。……短い。あまりにも短い。つい一分前に想定していた事態とは、かけ離れたものである。しかも残り十分で、彼女は目の前にいる魔物を倒す必要があった。完全にリリィの判断ミスであり、もっと言えば、“氷拍の護”が砕かれたのも忽然と消えた敵の行動に動揺した彼女に責がある。動揺が綻びを生じさせてしまったからだ。
自責の念に駆られつつ、敵の姿を目視する。
それは、悲しくも、神妙な美しさであった。
身体全体より金色の光が生まれ、表面は海水のような青く輝かしい透明感を持ち、髭は黄緑で、眼は黒。牙や爪は雄々しく、鱗の一片いっぺんに至るまで躍動感ある生命力を感じさせる。世界のどこかに現れでもしたら、時代によっては神の化身と言い伝えられていただろう。
──黄龍。
魔物の歴史上、“最初に生まれた魔物”とまで云われる……伝説の獣である。
「キヒ、大変だよね。私以外の敵とも戦わないといけないから、いろいろ考えないとってのはさー」
「……」
「まぁ、考えながら戦った結果がそれだよ。キヒヒ、もって十分ってところじゃないの?」
既に敵にはこちらの思惑も、残り戦闘可能時間も読まれている。
顔中から汗が噴き出る中、敵の言葉に同意せざるを得ない。──確かに、いろいろと背負うものができてしまったなぁ、と心中でリリィは思う。一年前の自分であれば、味方のことなんて考えもせず征服のことだけで頭がいっぱいだった。
あの頃に戻ったとしたら……戻れたとしたら。
「もうさ、周りのことなんて考えるの止めなよ」
黄龍の言葉がリリィを揺らす。
「純粋に闘争だけを考えれば、少なくとも油断や隙は生まれないよ? 私を倒すなら、尚更必要じゃないの?」
そうだろうか。
征服少女の心に疑問が生まれる。しかし、その疑問を否定できない自分がいて。
「別にそのまま戦ってもいいだろうけどさ、はっきり言ってやるよ。アンタは負けるぜ?」
負ける。
自分が、敵に。
「確実にね」
それは嫌だ。
絶対に嫌だ。
自分が負けるということは、どれほどの意味があるのか。仲間の士気に影響が出て、敵の士気にも関係してくるだろう。そして目の前のこいつは別の獲物を探し出し、自分と同じような目に合わせるだろう。そして最後の一人になるまでそれは続いて……アズール側の敗北が決定する。
リリィの胸中は徐々に底知れぬ闇に囚われてゆく。
何故、自分はこんなにも苦悩しているのか。もし奴の言う通り、何も考えずに本能のまま戦えば、きっと今の傷はなかったはずだ。皆のことを考え、皆のために戦うということは……自分を弱くしてしまうのではないだろうか。現に、純粋な闘争を楽しむ相手は、かなりの余裕がある。
勝たなければならない。
ならば、勝つための手段として、方向として、今だけでも昔の自分に戻るべきではないだろうか。
「駄目だよ」
無意識に出た自分の言葉。
けれど……。
何故? 何故、駄目なの?
言葉と同時に疑問が生まれる。そして解答を見いだせない。自問はできても自答はできない。即ちそれは、疑問する必要がないということではないか。疑問の余地がないということは、結論として……駄目ではない=昔の自分に戻るべき、ということにならないだろうか。
勝たなくてはならない。絶対に。
雑念と焦燥が入り混じる苦悩は、リリィ・サランティスを正常な状態から──“あの頃”に、引き戻そうとする。引きずり戻そうとする。
「……アハ」
「キヒ」
そうなのかなぁ、そうなのかなぁ。
カランカランと鐘が鳴るように、同じ言葉が何度も何度も脳内で再生されてゆく。あの頃に戻る価値が、今は何よりも重要なのではないだろうかと思わせる。世界の中心には自分がいると、征服の邪魔をするものは塵ひとつすら消し飛ばすと、有象無象をただただ服従させ征するあの時に。今だけ。イマ、ダケ。
「アハハ」
「キヒヒ」
言葉、脳裏、征服、戦争、疑問、解答、反語、否定、苦悩、肯定、現実、理想……。
敗北、堕落、否認、実相、放棄、理想、希望、必須、勝利、意味、自分、仲間…………。
ぐちゃぐちゃの中に自分が埋もれてゆく恐怖。助かりたい、抜け出したいともがく自分。それに対する目の前の答えは実に明白で簡素。されど一度それを選択すれば二度と抜け出せない悪魔の思想。残響する己の言葉。自分はどうしてここにいる。今の自分は何をすべきか。倒さないといけない、勝たないといけない。でも今のままじゃ無理だ、今の考えでは負けてしまう。
なら────。
あの、頃に、────。
「アハハハハハハハハハハハハハハハ!」
「キヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!」
もう止めだ。グダグダ考えるのはもう止めだ。
征服してやる。征服してやる!
赤髪の少女はそう結論づけた。今の状況を打開する策として、これしかもうないと考え抜いて、彼女なりの精一杯を苦慮して……選択した。
「征服してやるよ」
「そぉれを待ってたんだよぉおおおおおおお!」
──その時だった。
少女ら二人の横に、電子版が出現した。
* * *
数分前。
二人と二人の双国代表者が、森の中で激しく火花を散らしていた。全裸と姉妹である。
クロネア代表者のうち、一人は髪が重力を超越したかのような逆立ちで、焚き火のように右左へ揺れている。さらに化粧をしていて頬は紫、左耳には大量のピアスを付けている全裸だった。第五極長『舞人』フラワー・ヴィンテージである。
もう一人は毛が一切ない男だ。髪も眉も睫毛も髭も腋毛も胸毛も脛毛も、毛という毛が一切なかった。ただし顔は王子様のような麗しい顔立ちをしており、瞳は青、肉付きほどほどで背丈は高い、全裸と毛がないことを除けば実に美男子のそれであった。
イヴキュールがカードを三枚、フラワーに対し刃のように投げる。フラワーはそれを見てすぐに両手を後頭部へ回し、胸を大きく前へ突き出し雄たけびのポーズをとった。カードは彼の魔術により身体に刺さることはなく、ツルリ、と滑って逸れていく。
が、逸れた瞬間、三枚はフラワーの真下に落下。直後カードとカードが線を結び、地面に三角形の光が灯った。
「“ドリビア・ダスト──結界たる三角教示”」
まるで三角錐の中に閉じ込められたかのように、『舞人』を覆う三角の結界が生まれた。中級・陣形魔法“ドリビア・ダスト──結界たる三角教示”、相手を十三秒だけ内部に閉じ込める魔法である。ただ、時間制限が短いゆえに、相手を混乱させたり足止めに使うため用いられることが多い。
姉妹は全裸の一人を閉じ込めた直後に、もう一人の全裸に攻撃をしかける。妹はカードを十枚浮かせ、カードそのものに魔力の光を灯らせて相手を穿つ。姉は不気味な鎧を着た武者四名を沼より出現させ、猛毒の矢を構えて放たせる。
どちらの魔法も敵に命中し、当たった衝撃により砂埃が発生した。徐々に晴れていき相手の姿が見えてくる。それは実に、目を疑う光景であった。
「やっぱ、四剣となると並の魔術師じゃないんだね」
「当然であろう? 自らを神と称する以上、相応の魔術を持っているものさ。挨拶が遅れて申し訳ないね。第二極長『裸人』、ナクト・ヴェルートだ」
魔法は命中したけれど、ダメージを与えることはできなかった。
カードの突っ込んだ後は丸くぽっかりと穴が開き、矢が放たれて命中した後もまた小さな穴がある。身体が飴のようにグネグネと動き、穴は埋まり、すぐに元通りとなって……無傷の全裸となった。
「英鳳魔術“翠粘”。我が身体は飴細工のような変幻自在さと睡蓮のような美しい艶かしさを併せ持っているのだよ。ご理解いただけたかな?」
「泥人間ってことでしょ。まぁ、面白い魔術だとは思うけど」
軽く息を吐き、鋭い視線を彼女は向けて。
「あたしの魔法を舐めないでもらいたいね」
目を瞑り、イヴキュールが両の手を勢いよく合わせた。
パンッ、と弾ける音が空気を響かせ……合図となる。
ナクト・ヴェルートとフラワー・ヴィンテージの二人を挟むように、左右にカードが一枚ずつ、縦向きに浮かび上がった。元々地面に隠しておいたカードだ。そして、さらに二人の後方で……何十枚ものカードが道を作るようにずらりと浮かび上がった。
そのカードは、さながら栄えた都市の夜道を『街灯』が照らすかのように、均等に奥の方まで続いていく。点々と、しかし均一に、そこに一つの大きな道があるかのように、奥の奥までどこまでも延々と並んでいた……。道は二人の左右にあるカードから始まっていた。逆にいえば、全裸の前にいる姉妹は始まりの場所にはいなかった。
それが何を意味するか。
直ぐに知ることになる。
「“ドリビア・ダスト──結界たる三角教示”」
いつの間にか二人の周囲に隠されていたカード三枚が陣形魔法を発動させ、十三秒間動きを封じる。
突然の魔法連撃に驚くクロネアの二人を見ずに、アシュラン家の次女はカードを両手に八枚持って空へ投げた。八枚のカードはふわりと空を舞い、彼女の前へ八角形を模すように止まる。顔から汗が流れ、唇を噛みながらも集中するイヴキュール。
八枚は時計回りにグルリと回り始まる。
回転は最初ゆっくりであったが、すぐに速度が増していく。グングンと速くなり、眼では追えぬ回転数。回転速度は風を起こし、異様な光景となっていた。全裸の二人はその風を結界の中から静かに見つめる。苦しみの表情を浮かべながら、少女が言う。
「北、それは嵐を呼び。東、それは波を呼び。南、それは塵を呼び。西、それは道を呼ぶ」
金属が衝突したようなキィィィィィンという高音が辺りに響き渡る。
八枚のカードが八方へ飛翔し、向きを、全裸の二人へ。
「示せ、歩を進める我らの道を。打ち消せ、眼前に立つ邪の敵を。さぁ参ろう」
そして八枚のカードが少女の前に集まり、一つとなる。
一つになったカードを右手で大きく前へ突き出して、その先に……敵の二人を見据える。
崩れた直後の“結界たる三角教示”から何かをしようと動く敵を前に、イヴキュールは静かに告げた。
「灰燼なる道を汝に。“花鳥風月”」
イヴキュール・アシュランの右手から一撃が放たれた。
その一撃はもはや『破壊』である。カードが浮かぶことで生じていた道にある全ての木、葉、草など、ありとあらゆる物体を消し飛ばす魔法の放出。目も眩むような光の後、超高圧力の衝撃が道の始まりから終わりまで、何の障害も弊害もなく突き進む。当たったものは空を舞い、または消し飛び、または無になり、壮絶な破壊音を木霊させ、破滅の限りを尽くしていった……。
十秒ほど、経過しただろうか。
“花鳥風月”が通った道には、何もなくなっていた。
草の葉一枚たりとも、雑草一本たりともなくなっていた。
あるのは焦土と化した道と、魔法を発動させて汗だくの顔を拭いながら、荒い呼吸を繰り返す少女の姿。はぁ、はぁと疲れ切った顔をして、道の先をイヴキュール・アシュランは見つめていた。
「さすがに……疲れる、かな」
はぁぁ、ともう一度深く息を吐いた。
だが、少女の顔からは嬉しさの感情が見て取れる。相手がどれほどの難敵だろうと、この魔法を発動させて無事な者はいないだろう。自分が持つ魔法の中でも、自力で発動できる最上位の特級魔法だ。勝利を確信し、後は電子版が出現するのを──待つのみである。
「素晴らしい一撃だ」
だが、それは起こらなかった。
「しかし、我には効かんよ」
焦土と化した道の地面から、ぬちゃりとした液体のような、粘りのある何かが起き上がる。
イヴキュールの息が止まった。まさか、と思うしかない衝撃だった。この魔法を受けて動けるなどと、想定していない。だからこそ全力を込めて打ち出したのだ。それをまさか、防ぐどころか……!
「終わりかな?」
守りきるとは。それは粘りのある液体から一人の全裸となっていく。身体のあちこちが負傷しているものの、深手はなく、動くのには問題ないようであった。身体を飴細工のように変化させることは可能でも、それによりあらゆる攻撃を捌けることではないということだった。
しかし。
相手への勝機が見出させたとしても、あの魔法はそう易々と連発できるものではない。確かな焦りが生まれる。ただ、まだ自分が疲労しただけであり、こちらには癒呪魔法の使い手である姉がいるのだ。姉と次にどう動くか確認するため、全裸から視線を外させずに、アシュラン家の妹は告げる。
「姉ちゃん、詠唱は終わった?」
後ろで、何かが倒れる音がした。
「……」
イヴキュールの声に、応える人はおらず。
数秒経過して、眼前の全裸が不敵に笑う姿を見て、いや、そんなはずがないと脳内で反響させながら……恐る恐る、振り返る。本当は振り返りたくなかった。嫌だった。不安が大ボリュームで警告を発しているのだ。止めろ、と同じ言葉を呆けた老人のように幾度も吐き続ける。それが何を意味しているのかぐらい、わからない彼女ではない。
一人の女性が倒れていた。
姉が倒れていた。
ユミリアーナ・アシュランが、地に伏していた。
しかも……それだけでは終わらず、口を手で覆いたくなるような光景が、イヴキュールの前で起こる。
「アシュラン姉妹の情報は我々でも入手していてね。そのため、長期戦は得策ではないと戦う前から判断していた」
茫然と姉を見つめる姿を見ながら、全裸が淡々と告げる。
彼の容貌は実に異様であるが、もう一つだけ、先とは違う点があった。
──右手が、ないのである。
「これは神として悪手という他ない。批難や罵声は謹んでお受けしよう。だがね、我が子らよ。……これは戦争なのだよ。戦争なのだ。我らは勝たなくてはならない。そのためなら、我は自らの術として出せる全ての攻撃を、誇りを捨てて、ぶつけるしかない」
電子版が出現する。
「その強さ、正に質実剛健。であるならば、我が魔術の真骨頂もまた、お見せさせていただいた」
イヴキュールは目を逸らすことなどできなかった。
ユミリアーナの“口内”から……ドロリとした、粘りのある──
「我の身体は、単独分離が可能なのだ」
ナクト・ヴェルートの“右手”が、這い出てくる光景を。
そして荒々しく大地を蹴る音が遠くから聞こえてくる。彼の魔術でも捌ききることはできなかったのだろう。身体中が傷だらけだが、その眼には強い意志を宿した『舞人』の姿。“花鳥風月”で飛ばされたものの、己の魔術を最大限発動させてて難を逃れ、戦場へ復帰してきた……敵の姿であった。
ボロボロの身体なれど、代表者の一人である己の役目を果たすかのごとく。
空を高々と舞い。
アズール代表に、襲いかかる……!
「我が子よ、棄権しなさい。この戦況──もはや覆すことは不可能だ」
アズール側、残り八。
* * *
「ユミが……?」
電子版に消された名前を見て、リリィの身体が静止する。電子版が出現しなければ、今頃彼女はアニーの下へ突撃し己の何もかもを解放していただろう。
「やばいねぇ、キヒヒ。そっちの有力候補が一人倒されちゃったよぉ? こりゃ尚更のこと、私との戦いを全力全開でやらないとマズいねぇ」
「……」
「?」
アニーがリリィの戦意を再び再燃させようと焚き付けるも、本人は動かない。
あれほど狂いそうな心情であったのが、今は落ち着いていた。リリィ自身でさえ不思議なぐらい、ストンと何かが落ちたように……冷静になっている。
『貴方が、リリィ・サランティスさんね』
『リリィでいいよー』
『じゃあ、リリィちゃんね』
思い出すは、初めてユミリアーナと会った時。シルドの姉妹ということで二人と会った時、第一印象は『強い』だった。二人は貴族であるのに、どうしたらそんな魔力の纏い方をできるのか聞きたくなるほどの印象を受けた。最初はイヴキュールから積極的に話しかけてきて、すぐに意気投合。家族が生きていたら、こんな感じなのかなぁと思えた。
そしてイヴキュールがモモにイタズラをしに飛んで行ったのを見て、自分も行こうかなと思っていると、そっと横に座る綺麗な女性がいた。
『シルドから聞いているわ。一年前、あの子がお世話になったそうね』
『んー、どちらかというと私がお世話になったんだけどね。アハハ』
『あら、そうなの? シルドが言っていたのとは違うのね』
『え? シルドは私のこと、何て言ってたの?』
リリィからしてみれば、今から国を征服しようとしていた矢先に突如として現れた貴族のカモだった。しかもジン・フォン・ティック・アズールと面識があるとかで、これを利用しない手はないと心底喜んだもので。しかし連れて行かれたのは魔力界場。さらに告げられる宣戦布告。
散々ボコボコにして、血だらけにして、ギリギリの状態まで追い込んで……見事に返された特級・陣形魔法。
敗北。
そして──
“これからの三年間、『探す』学校生活も、わるくないんじゃないかな”
あの言葉に、リリィ・サランティスは助けられた。
救ってもらえた。
最初は自分を負かした彼に興味が湧いたけど、ちょっと好みのタイプとは違うし、モモ・シャルロッティアという超弩級のお嬢様が降臨したことで、シルドを支えるのは彼女に任せることにした。ただ、あの時、彼が自分に言った言葉は、心のどこかで『危険人物を何とか鎖で縛らなければと思って出てきた言葉だろうな』と思ってしまっていた。
自分は化け物だ。
わかっている。異常だ。危険だ。だからシルドがそう言ったのも何となく理解していた。同時に悲しくもあったけど、仕方ないと思った。だからこそユミリアーナの話と自分の話が食い違っていることに少しの疑問が生じた。彼は私のことを、心の壁がない家族に、何と言ったのだろう?
『王都に来て初めて出来た、女の子の友達って言ってたけど? 男の友達はジン王子だけど、リリィちゃんは女の子で最初の友達だって。しかもアズールで今のところ一番強くて、可愛くて、そして……』
そして。
『この一年で僕を支えてくれた、掛け替えのない存在だって』
思わず赤面してしまった。
後で絶対殴ろうと思った。恥ずかしいことをよくも臆面なくそこまで話せるものだ、と。頭おかしいのではないか。あぁ蒼髪だからね、仕方ないとリリィは思う。
シルディッド・アシュランは、姉にリリィとの戦いのことを一切話していなかったのだ。
彼女が征服の名の下に王都を滅ぼそうとしていたなんて、一言も言っていなかった。あの子は危ないとか、化け物とか、怖いとか、そんなことは一切言わず、感謝や面白さ、有難さや不思議さなどリリィが周りに受け入れられるよう積極的に優しさのある言葉を……言っていた。
『違うの?』
『え?』
『あの子、まさか嘘を言っているのかしら。お仕置きしないと』
『いや! えとね、うん、合ってるんだけど、ちょっと、その、あれなんだ』
『あれ?』
『私は、シルドがいう女の子じゃ……ないと思うよ』
『それは違うでしょう』
きっぱりと言われた。会って数分の間柄なれど、リリィが自分で言ったことを見事に却下された。
咄嗟に彼の姉へ顔を向けると、ニッコリと笑いながら彼女はリリィの頭に手を置く。そして優しく、愛おしく、家族に接するように、そっと撫でてくれた。
『あの子は嘘は言うけれど、他人を陥れるための嘘は絶対に言わない子よ。しかも女の子に対して嘘なんて言ったものなら、私とイヴとお母様に粛清されることが身に染みてわかっているだろうし』
『でも』
『黙らっしゃい』
『……』
『もしあの子が言ったことに対して思うことがあるのなら、それはリリィちゃんにとっては恥ずかしいことなのでしょう。でも残念ながらあの子にとっては嘘偽りのない真実なのよ。だってあの子自身が直接リリィちゃんと触れ合って、感じて、思ったことを……そのまま言っているだけだから。シルドは賢ぶってるけど、本当はそんなに賢い子じゃないわ。知的ぶってるけどあの子に探偵役なんて無理ね。だって』
クスクスと笑いながら、自慢するように、でも身内には容赦ないように、はっきりと。
ユミリアーナ・アシュランは言う。
『ただの素直で本好きな落ち込み癖のあるお馬鹿の……他人に感謝ばかりしている、司書希望の男なんだから。そんな子が、貴方に、リリィちゃんに感謝しないわけがないじゃない。あの子は夢を叶えると誓ってから、自分の心に嘘だけはつかないと、決めているのよ』
『……』
『だからねリリィちゃん。もし貴方がシルドに何かしらの想いがあるのなら。そう、想いの内容は置いといて、シルドに何かしたいという気持ちがあるのなら、姉から一つだけお願いするわ。あの子が夢に対して苦しんでいる時。ちょっとだけ、少しだけでいいから、助けてほしいの。見返りはないかもしれないけれど、リリィちゃんには得なんて何一つないかもしれないけれど』
でも、でもね。
『シルドは、貴方にしてもらったことは──絶対に忘れない。だから、リリィ・サランティスさん。ウチのどうしようもない馬鹿な弟を……“これから”も、よろしくお願いしますね』
目の前に大きな口があった。牙が上と下にある、リリィを噛み千切ろうとする龍の口。
赤髪の少女は夢を見ていた。夢といっても、自分が少し前に経験した大したことはない、一人の女性との会話だ。
シルドは今頃、何をしているだろうか。決まっている、夢に向かって走っている。思えば自分との一年前のあれこれは、夢と何にも関係ない出来事だった。でもあの青年は本気で必死だった。全力だった。
「うん」
日付が変わり、皆が戦争に出ていこうと動いている時、シルドは寂しそうに皆を見つめていた。自分がこれから戦争に出れず、夢のためだけに進もうと、身勝手な行動をしているのではないか、と心の片隅でどうしても思ってしまっているのだろう。
そんな彼にジンが天空・飛び膝蹴りをかまして、床に突っ伏すシルドを爆笑していた。「おい見ろよミュウ、シルドが泣いてるぞー!」と言いながら。そんなアズール王子に対しシルドがむきになって殴り合いをしているのを皆で笑いながら止めたものだ。いつもの光景だった。
その時、ユミリアーナは一人、楽しそうに弟を見つめていた。何を思っているのか、リリィにはわからなかったけれど、不思議と感じるものがあった。よかったね、と言っている気がしたのだ。弟に向けて、涙が出そうな顔で、姉はほほ笑んでいた。
「うん、うん」
龍の口は、征服少女の前で止まった。
氷の盾ではない。
水の糸が、後ろから龍を繋ぎ留め、動きを封じたのだ。
「ッ!?」
たかが水の糸だけで、自分の攻撃を消されたなどと、ありえぬことだ。アニーの心に何か、表現できぬ小さな恐怖が生まれ始めた瞬間……目の前の少女は消えていた。視界の先に、ずっと先に、彼女は移動していた。いつの間にか水の糸も消えていて、思わず言葉を失う。そして同時にこうも思った。
何があった、と。
「そうだね、うん」
納得するように、頭を縦に振るリリィ。
「私は誰だ」
自問し。
「リリィ・サランテイィス」
自答する。同じようについ先ほどの、答えられなかった問いを言う。
「勝たなければならない。ならば、勝つための手段として、今だけでも昔の自分に戻るべきではないだろうか。ううん、駄目だよ。それは駄目。だって」
そして今度は自答する。はっきりと、自分の意思で。
「それは過去に縛られるだけだから。私は未来を進みたい。だって私は、自分の、皆の、未来を切り開く存在になりたいから。皆が今を苦しんで、未来へ歩くことに躊躇っているのなら、私は手を取って進みたい」
だから。
「私は勝つよ。“魔法科・歴代二位”、リリィ・サランティス。私は、アニー・キトス・ウーヌ。貴方を私たちアズールの未来のため……倒すことを、ここに誓う」
その昔、一人の少女がいた。
自分が化け物だと知っている、赤髪の少女がいた。
少女は故郷を滅ぼされ、自らも心を滅ぼされ、すがるように征服を開始した。征服は自らの心の隙を埋めてくれるけど、残ったのは孤独だけだった。
今、一人の少女は孤独ではない。
とある司書を目指す青年に孤独から解放された。
じゃあ今は何があるのだろう。
彼女の心には、何があるのだろう。きっとそれは────
「もう、負ける気はしないよ」
彼女自身が、これから作っていくものだ。
未来へ進むため、己の道末を指し示した彼女に……もはや、惑わせるものはない。