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「それがさ」
昼休み。江崎は和孝を見つけると、すぐに自分から寄って来て開口一番に言った。
「あれからすぐに部室行って探してみたんだけど、誰かが写真をみんな持ち逃げしたらしくてさ」
「持ち逃げ?」
江崎の言葉に和孝は驚いて尋ねる。
「ファンが多かったからね」
江崎はそう言うと、男も女も、と付け加えた。
「ああ……」
確かに幽霊は綺麗な顔をしているから男のファンもいたかもしれない。そう思って曖昧に頷くと、江崎が胸ポケットから一枚の紙を取り出して和孝に差し出す。
「自宅の住所だよ。略地図も書いといたから」
「えッ?」
江崎の言葉に、二人のやり取りを黙って聞いていた幽霊が驚いて声を上げる。
「あ、ありがとうございます!」
幽霊は慌てて礼を言うと、体をくの字に曲げて江崎に深々と頭を下げた。
(そんなことしたってこいつには見えないのに……)
それに、江崎は幽霊ではなく和孝の為に調べたのである。別に頼んでもいないのにそんなことをするなんて、やはり江崎には何か魂胆がありそうな気がする。そんなことを考えながら江崎の表情を観察していると、幽霊が顔を上げて必死の形相で和孝に言った。
「瀬能さん、お願いです! 僕の代わりにお友達にお礼を言ってください!」
「はあッ?」
和孝が幽霊の言葉に驚いて訊き返と、それをどう取ったのか江崎が慌てて「ごめん!」と謝る。
「余計なお世話だったか?」
突然謝られた和孝は、驚いて江崎の顔を見返す。江崎は困ったように苦く笑うと、俺の悪いクセなんだよなー、と言って頭を掻いた。
「お節介っていうか、いつも世話を焼き過ぎるっていうか……」
しきりに反省しまくる江崎に、和孝は慌てて「いや」と答える。
「助かったよ……ありがとう」
幽霊に代わって礼を言うと、今度は江崎が驚いたように和孝を見た。
「なんだ」
そしてそう言うと、おかしそうにクスリと笑って言う。
「暗い奴だって聞いてたけど普通じゃないか。なあ」
なあ、と自分に訊かれても返答に困る。
「まあ、暗い奴ってのは当たってると思うけど……」
少なくとも自分は明るい性格ではない。溜息混じりに言うと、和孝の言葉に江崎がハハハと楽しそうに笑ってから言った。
「次の授業、出るのか?」
いつもの問いに、和孝は返答に迷う。せっかく住所がわかったのだから、出来れば早く幽霊を連れて行ってあげたい。
「悪い、午後は……」
代返は出来ない、そう言おうとすると、江崎が「違うよ」と言ってニカッと笑った。
「その反対。俺が代返しといてやるよ」
「えッ?」
江崎の言葉に和孝は驚いて目を丸くする。
「気にすんなって。困った時はお互い様だろ?」
江崎は人好きのする笑顔でそう言うと、「あ、俺ん時もよろしくなー」と言いながらヒラヒラと手を振り去って行った。
「やっぱりいい方でしたね」
その後ろ姿を並んで見送りながら、幽霊が嬉しそうに言う。
「……そうだな」
和孝は少し考えてから頷くと、いい奴だな、と言って小さく笑った。そのいつにない柔らかな声音に、途端に幽霊が焦ったように和孝を見る。
「で、でも! 瀬能さんの『一番』は僕ですからねッ?」
「はあ?」
幽霊の突然の言葉に、和孝は何のことかと隣を見る。
「瀬能さんはお友達がいないって言ったでしょう? だから僕が一番です! どんなにイイ人でも、あの人は二番ですからねッ?」
顔を赤くして必死になって念を押す幽霊を、和孝は暫し呆然と見詰める。やがて目元を和らげると、変な奴、と言って笑った。
「こんなつまらない男と友達になってどうすんだよ」
和孝の自嘲気味の言葉に、途端に幽霊が真剣な眼差しで身を乗り出す。
「瀬能さんはつまらなくなんかないです! 優しくて素敵な人です!」
幽霊のまっすぐな瞳と真剣な声音に、和孝は眉尻を下げて苦笑する。本当にこの幽霊の純粋さには敵わない。なぜ大人になってもこんなにも邪気の無い澄んだ瞳でいられるのか。
(敵わないなあ……)
情が移る前に別れようと思っていたのに、既に手遅れ感が否めない。和孝はくすぐったさを誤魔化すように「あー、はいはい」とぞんざいに返すと、幽霊にクルリと背を向けた。
「お世辞なんか言わなくても、ちゃんと家まで送り届けてやるよ」
嬉しさにどうしても口元が緩んでしまう。その顔を幽霊に見られないよう、背を向けたまま言うと、途端に幽霊が「やっぱり瀬能さんはイジわるです」と答えた。拗ねたような幽霊の言葉に、和孝はハハハと声を上げて笑う。そして、背を向けたまま「行くぞ」と後ろに声を掛けると、まずはバス停に向かうべく歩き出した。
佐伯静也の自宅最寄り駅は、大学の最寄り駅から三十分ほどの所だった。電車を降りてバスに乗り換えた和孝は、窓側の席に座る幽霊を見る。幽霊は物珍しそうな顔をして窓外の景色を眺めていた。
(そういえば……)
記憶喪失だった時の記憶は記憶が戻った時点で消えてしまうこともある、というような話を聞いたことがある。だとしたら、幽霊も記憶を取り戻した途端に自分のことを忘れてしまうのだろうか。和孝はそう考えて、幽霊の横顔をジッと見詰める。
(それ以前に……)
自分の家を見た途端、または家族と会った途端に幽霊が消えてしまったらどうするのか。別れを言う間も無くフッと一瞬で掻き消えてしまう瞬間を想像し、和孝は膝の上に乗せていた拳をギュッと握り締める。
「瀬能さん? どうしたんですか?」
すると、いつの間にか食い入るように見詰めていたのだろう和孝を振り返って、幽霊が心配そうに尋ねた。
「いや……」
和孝は幽霊の顔から視線を逸らすと、胸前で腕組みをして目を閉じる。胸中にあるザラザラとした焦燥感は置いて行かれる側の寂しさだ。しかし、それはどうしようもないことであるから我慢するしかない。
(我慢……)
そうか自分は寂しいのかと、和孝はその時になってようやく気付く。窓外に視線を向けると、景色は商店街から住宅街に変わっていた。
バスを降り、江崎が描いてくれた略地図片手に県道を歩く。佐伯静也の自宅はバス停から歩いて四、五分の所にある筈だった。少し歩くと『由緒正しき』という言葉がぴったりの旧家が建ち並ぶ閑静な住宅街に出る。どの家の周りにもグルリと生垣が生い茂り、梢の上から豪奢な屋敷や蔵が見えた。
「大丈夫か?」
この道を歩いている時に佐伯静也は交通事故に遭った筈である。心配して尋ねると、幽霊が顔を上げて嬉しそうに微笑む。
「はい。瀬能さんと一緒だから大丈夫です」
幽霊の元気そうな言葉に和孝はホッとして、そうか、と返す。
「何か変だったらすぐに言えよ」
消えそうだったら、と言いそうになり、和孝は慌てて言葉を変えた。
「はい」
幽霊はにっこり笑って頷くと、再び前方に視線を戻す。その横顔を見詰めながら、和孝はギュッと拳を握り締めた。
(ユウ……)
この笑顔が、この温かな存在が消えてしまうのかと考えるだけで胸の奥が締め付けられるように痛む。そして、その瞬間は文字通り一歩一歩近付いているのだった。
「ここだな」
高級住宅地の中でもひと際目立つ大きな邸宅の門前に立った和孝は、何度も略地図と表札の名前を確認してから呼び鈴を押す。しかし、どこかでチャイムの音はしているものの、家の中に人の動く気配は無かった。
「留守かな……」
和孝は小さく呟くと、隣の幽霊を見る。幽霊は目的の家に着いても特に消えることはなかった。
「どうだ、見覚えはあるか?」
そのことにホッとしながら尋ねると、幽霊が大きな邸宅を見上げながらウ~ンと言って首を捻る。
「すみません、わかりません」
「そうか」
幽霊の言葉に和孝は小さく息をつくと、再び大きな門を見上げた。肩透かしを食らったような感が二割と、ホッとしたような安堵感が八割。もし人違いだとわかれば幽霊を連れて帰ることが出来るのだと考え、その考えに和孝は内心で苦笑した。
(俺はユウを連れて帰りたいのか……)
だが、幽霊のことを思えば、早く家族に会わせて成仏させてやるのが一番いいに決まっている。自分のエゴの為に連れ帰るわけにはいかない。
「どこかで時間を潰そう。もう少ししたら帰って来るかもしれないし」
和孝はそう言うと、辺りを見回す。時間を潰すにしても、金持ちの家の前に若い男が長いこと突っ立っていては付近の住民に通報されてしまうかもしれない。とりあえず喫茶店があった駅前まで戻ろうと考え、和孝が踵を返したその時、一台のタクシーがやって来て二人のすぐ脇で止まった。
「あの……うちに何かご用でしょうか?」
中から品の良さそうな中年の女性が降りて来て、お辞儀をしながら和孝に尋ねる。
「すみません。佐伯先輩のお宅はここでしょうか」
和孝は自分もペコリと頭を下げると、歩み寄りながら尋ねた。
「ああ、静也の……」
夫人はにっこり微笑むと、どうぞ、と言って門へと向かう。そして鍵を開けて中に入ると、和孝にも入るよう促した。
「お邪魔します」
和孝は再びペコリと頭を下げると、幽霊をチラと見てから門をくぐる。幽霊は驚いたように目を見開いてその夫人を見詰めていたが、やはり消えてしまうことはなかった。
「突然お邪魔してすみません」
突然の来訪を詫びると、夫人が、いいえ、と言って首を小さく横に振る。
「今も時々、同じように息子に会いに来てくださる方がいるんですよ」
夫人はにっこり笑ってそう言うと、どうぞ、と言って和孝を奥の和室に案内した。
「良かったわ。この週末に納骨だったんですよ」
夫人の言葉に、和孝は思わずドキリとする。もし人違いだとしたら、自分は見ず知らずの他人の遺骨と対面することになるのだ。しかし、ここまで来たら確認せずに帰るわけにはいかなかった。
「さあ、どうぞ。息子に会ってやってください」
夫人が柔和な笑顔を和孝に向け、サラリと襖を引き開ける。途端にフワリと線香の匂いが漂い、広い仏間の突き当たりに大きな仏壇があるのが見えた。その仏壇に飾られている遺影を目にした和孝は、戸口で息を呑んで立ち止まる。
「ごゆっくりどうぞ。お茶でも淹れてきますね」
同じように仏壇に視線を向けた夫人はそう言うと、そっと目元を拭いながら廊下を引き返して行った。和孝はゆっくり仏間に入って行くと、仏壇の正面に立って遺影を見詰める。
(ユウ……)
そこに写っていたのは、確かに幽霊だった。何かの記念写真なのだろうか、どこか澄ました顔をして薄く微笑んでいる。いつもスネたり泣いたり笑ったり、子供のようにコロコロと表情の変わる幽霊しか知らない和孝にとっては、落ち着いた眼差しで静かに微笑んでいるその顔は全くの別人に見えた。
「これが……僕?」
隣に立った幽霊が、同じように遺影を見詰めて小声で呟く。そしてその横に置かれている白い袱紗で包まれた箱に視線を移すと、そっと指先で触れるような仕草をした。
「僕の体……もう無くなっちゃったんですね」
それは、もうすぐ墓に収められる予定の彼の遺骨だった。
「ユウ……」
その時になって初めて和孝は自分が心のどこかでは信じていなかったことに気付く。きっと人違いに違いない、幽霊と佐伯静也は別人だろうと……。
「ユウ……大丈夫か?」
きっと同じようにショックを受けているに違いないと思って隣を見た和孝は、ハッと胸を突かれて言葉を無くす。幽霊はジッと写真を見詰めながら静かに涙を流していた。
「ユウ……」
和孝は小さく震えるその肩を抱いてあげられないことを悔しく思う。すると、幽霊が不意に顔を上げて和孝ににっこりと微笑んだ。
「ありがとうございました」
「……っ」
「瀬能さんのお陰です。本当にありがとうございました」
幽霊は丁寧にお辞儀をすると、細い指先で涙を拭う。にっこり笑ったその途端、再び透き通った涙がポロリと零れた。
「ユウ……」
和孝は咄嗟にその頬に手を伸ばし掛け、ギュッと拳を握り締める。涙を拭ってあげることすら出来ない自分が歯痒かった。
「良かったな……」
和孝の言葉に幽霊が小声で「はい」と答える。しかし、その笑顔はすぐに儚く霞んだ。
「これで僕……成仏出来るんですね」
ジッと自分を見上げる幽霊を見詰め、和孝は「そうだな」と返す。
「じゃ、俺は帰るから……」
和孝はそう言って背を向けると、後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。
「あら、もうお帰りになられるんですか?」
廊下を玄関に向かって歩いていると、お茶を載せた盆を持った母親が現れて驚いたように和孝に尋ねる。
「はい、ありがとうございました」
和孝は丁寧に頭を下げて礼を言うと、突然訪れたことをもう一度詫びてから玄関を出た。
(これでいい……)
和孝は駅へと戻りながら、胸中で呟く。
(これでいいんだ……)
幽霊は自宅に戻り、『佐伯静也』に戻った。母親とも対面出来たし、夜になれば他の家族とも会えるだろう。これで安心して成仏出来るなと考えて、和孝は我知らず小さな溜息をこぼした。
(これでいいんだ……よな)
その後のことはあまりよく覚えていない。ふと気付くといつものコンビニエンスストアの前で、どうやら自分は無事にバスと電車を乗り継いで帰って来たらしい。和孝はフラリと中に入ると、いつもの惣菜コーナーの前に立った。
(あ……)
黒豆の入った弁当を見つけた和孝は、咄嗟に手を伸ばしてそれを掴む。
(ユウ……)
結局黒豆を食べてあげることは出来なかったなと考えて、和孝はギュッと眉を引き寄せた。途端にジワリと目の前がぼやけて、慌てて袖で目元を拭う。和孝は尻ポケットから財布を取り出すと、その弁当を持ってレジへと向かった。
「いただきます……」
数日しか一緒にいなかったというのに、久し振りの一人きりの部屋は静か過ぎて、和孝は誰にともなくボソリと言って弁当の蓋を開ける。静寂に耐えかねてテレビのスイッチを入れると、画面からドッと大勢の笑い声が飛び出した。お笑い番組か何かなのだろう、見たことのある若手芸人の早口なコントに、観客たちのアハハワハハという笑い声が重なる。その賑やかな画面をぼんやりと眺めながら、和孝は無言で飯を口に運ぶ。久し振りに一人で食べる食事は以前よりも味気なくて、何を食べても旨いとは思えない。ハァ、と何度目かの溜息をついた和孝は、ふと思い出すと、弁当の隅にある黒豆を箸で摘まんだ。
『次はこれも食べてくださいね』
和孝は幽霊の言葉を思い出し、眩しそうに自分を見上げた澄んだ瞳を思い出す。
「ユウ……」
今頃幽霊は母親の手料理を味わっているのだろうか。そんなことを思いながら黒豆を口に入れると、途端に砂糖と醤油で煮詰めた豆の味がフワリと口中に広がり、迂闊にも涙ぐみそうになった和孝は慌てて手の甲で目元を拭った。
「やっぱりコレは苦手だなあ……」
和孝は小声で呟き、小さく笑う。そして気付く。この黒豆は自分にとっては『寂しさ』の記憶だったのだ。薄暗い電気の下で独りきりで食べた夕食の記憶。寂しくても寂しいと言えなかった幼い頃の自分の、そのトラウマの象徴がこの黒豆だったのだ。
「あー、もう二度と食えねえな……」
和孝は呟き、まだ半分ほど残っている弁当に蓋をする。すると、不意に隣から「ダメですよ」という聞き慣れた声が聞こえた。
「食べ物を粗末にしてはいけません。瀬能さんは食べられるのに食べないなんてズルイです」
「ユウ!」
和孝は驚き、信じられない面持ちで隣を見る。そこには実家にいる筈の幽霊が座っていた。
「どうしたんだ、お前……」
思わず何かあったのかと思って問うと、幽霊が拗ねたように唇を尖らせて上目遣いに和孝を見る。
「だって、あそこにいても誰も僕のこと見えないし、僕の声も聞こえないし」
だから帰って来ちゃいました、と言って幽霊がエヘヘと嬉しそうに笑う。
「『帰って来ちゃいました』ってお前……成仏出来なかったのか?」
慌てて尋ねると、幽霊は首を傾げて、ウ~ン、と難しい顔をした。
「それが全然なんですよね~」
「全然ってお前……俺がどんな思いでお前を置いて来たと……!」
和孝はうっかり本音を漏らしかけ、慌てて口をつぐむ。幽霊はその言葉に嬉しそうに目を細めると、眩しそうに和孝を見上げて笑った。
「はい。だから帰って来ちゃいました。いいんですよね? 成仏するまではここに居ても?」
幽霊の言葉に、和孝はあんぐりと口を開けて返す言葉に迷う。幽霊は何かが吹っ切れたように明るく笑うと、和孝にペコリと頭を下げた。
「そんなわけで、もう少しお世話になりますのでどうぞよろしくお願い致します」
幽霊がそう言って顔を上げ、再びエヘヘとおどけたように笑う。和孝は思わず溜息をつくと、仕方ないな、と言って目元を緩めた。
「成仏するまでだぞ」
いつものように風呂を済ませ、布団を敷いて横になる。電気を消すと、暗闇の中に幽霊の姿がボウッと白く浮かび上がった。
「なあ、ユウ……」
いつものように枕元に正座して自分を見下ろす幽霊を見上げ、和孝はそっと声を掛ける。
「はい、何ですか?」
幽霊は答えると、目を細めて微笑んだ。
「その……本当にいいのか? 家族の傍にいなくても?」
和孝はそう言うと、昼間見た母親の姿を思い出す。彼女は未だに悲しみから抜け出せずにいるようで、仏壇の遺影を見ただけでも涙ぐんでいた。
「でも、僕はもう死んじゃったわけですし」
幽霊は柔らかな眼差しで和孝を見詰めながらそう言うと、少しだけ寂しそうに微笑む。
「それに、僕が傍にいても彼女には見えませんし、声も聞こえませんしね」
「そうか……」
和孝は何と答えていいのかわからずに、短く相槌を打って目を閉じる。しかし、不意にあることに気付くと、慌てて目を開けて再び幽霊を見上げた。
「ユウ。お前、記憶が戻ってないのか?」
幽霊が母親のことを『彼女』と呼んでいることに気付いて訊ねると、幽霊が「はい」と答えて『それが何か?』という顔をする。
「だって、お前……」
和孝はてっきり、幽霊の身元がわかれば記憶も戻るだろうと思っていたのだ。そう言うと、幽霊が和孝を安心させるようにニッコリと微笑む。
「でも、彼女が自分の母親なのはすぐにわかりましたよ。彼女を見た瞬間、ここの辺りがホワッと温かくなりましたから」
胸の辺りを両手で押さえて嬉しそうに微笑む幽霊の言葉に、和孝は少しだけホッとして「そうか」と返した。
「それにしても、身元がわかっても記憶が戻らないなんてな」
和孝はそう言うと、モソモソと布団を掛け直しながら幽霊に言う。
「てっきり帰る家がわからなくて成仏出来ないんだと思ってたんだけど、他にも理由があるのかな。例えば『心残り』とかさ」
「心残り……」
和孝の言葉に、幽霊が何か考える風に小さく呟く。
「ああ。ユウはあの廊下をずっと彷徨ってたって言ってたろ? てっきり俺は何かを探してるんだと思ってたんだけど……」
だから和孝は幽霊の身元を調べようと思ったのだ。しかし、自宅を見ても家族を見ても何も思い出さなかったところを見ると、もしかしたらまだパズルのピースが足りないのかもしれない。すると、同じように何かを考えていたらしい幽霊が、そういえば、と言って和孝を見た。
「彼女が仏壇に向かって変なことを言ってたんです」
「変なこと?」
『彼女』とはもちろん幽霊の母親のことである。幽霊の言葉に和孝は眉を寄せてその内容を問う。
「はい。『連れて行かないで』って……僕の写真に向かって手を合わせながら『お願いだから連れて行かないで』って言ってたんです」
「『連れて行かないで』?」
和孝は幽霊の言葉を口中で繰り返し、どういう意味だろうかと考える。しかし、すぐにハッと目を見開くと、「そうか!」と言って再び幽霊を見た。
「弟だ! お前には弟がいた筈だ、ユウ!」
「弟?」
幽霊が意味を問うように和孝を見返す。和孝は確信を籠めて頷くと、母親がタクシーから降りて来た時のことを話した。
「あの時彼女は両手に大きな紙袋を提げていた。あの袋の中にはもしかしたら着替えやタオルなどの洗濯物が入っていたのかもしれない。お前の弟はまだ入院してるんじゃないのか、ユウ?」
新聞には弟はケガをしたとしか書かれていなかった。事故から一ヶ月以上経つのにまだ入院しているのだとしたら、弟はかなりの重傷だったということになる。しかも、母親が仏壇に手を合わせて『連れて行くな』と言うからには、その容態がかなり悪くなっている可能性もあった。
「それが最後のワンピースかもしれないな……」
思案しながら呟くと、幽霊も「そうですね」と言って頷く。
「それが僕の『心残り』なのかもしれません」
その言葉に、和孝はハッとして幽霊の顔を見返す。幽霊は静かに和孝を見下ろすと、目を細めて小さく笑んだ。
「実は僕は、別にこのまま成仏しなくてもいいかなって思ってたんです……」
「え?」
和孝は初めて聞いた幽霊の本音に、驚いてその顔を見返す。幽霊は「ごめんなさい」と小さく謝ると、目を伏せたまま少しだけ頬を染めた。
「だって、瀬能さんと一緒にいると楽しくて……出来ればずっと一緒にいたいなあ、なんて……」
「ユウ……」
それは和孝とて同じだった。最初は幽霊という存在に戸惑ったものの、『ユウ』という人間はとてもイイ奴で、すぐに一緒にいることが苦ではなくなった。むしろ、最近ではその存在が傍にあることを当たり前のように感じていたくらいで、幽霊のいない独りきりの部屋に戻った時の寒々とした空虚感を思い出した和孝は布団の下でギュッとパジャマの胸元を掴んだ。すると、幽霊が同じ場所を押さえて「でも」と言って言葉を継ぐ。
「弟が入院しているかもしれないと聞いた時、ここがドキンとしたんです」
和孝は、目を伏せて胸の辺りを押さえている幽霊の顔を真剣な眼差しで見詰める。
「もし僕に出来るのなら、僕は弟を助けてあげたい。そして、彼女に笑顔を取り戻してあげたい。それが僕に出来る最後の親孝行だと思うから……」
「ユウ……」
もし弟を助けたら、最後の心残りが無くなった幽霊は今度こそ成仏してしまうかもしれない。和孝はそう考えて言葉を躊躇う。
(俺は……それでもいいのか?)
もちろんそこに自分の選択肢など無いことはわかっている。幽霊の弟が助かるなら、そしてそのことで幽霊自身も成仏することが出来るのなら、それが一番いいことなのだから。
「わかった……」
和孝は頷くと、小さく溜息をついてから言った。
「俺も一緒に行くよ。ここまで付き合ったんだ。最後まで付き合うさ」
明日の授業は午前中だけだから、その後ならいくらでも動ける。そう言うと、無言で和孝の顔を見詰めていた幽霊が嬉しそうに微笑む。そして「あの……」と小声で言うと、遠慮がちに尋ねた。
「お願いがあるんですけど……いいですか?」
「何だ?」
さっそく何か手伝うことがあるのかと思って問うと、幽霊が「あの……」と再び言って口篭る。どうしたのかと思って見詰めると、幽霊も真剣な眼差しで見詰め返した。
「瀬能さんのこと……名前で呼んでもいいですか?」
「は?」
幽霊の突然の言葉に、和孝は思わず訊き返す。
「ずっと呼びたいなぁって思ってたんですけど、なかなか言えなくて……」
「俺の名前をか?」
驚いて訊ねると、幽霊は真剣な眼差しでコクリと頷いた。
「いいですか?」
再び遠慮がちに尋ねられて、和孝は目元を和らげる。
「そんなこと、聞かなくても好きに呼んでいいのに」
苦笑しながら言うと、和孝の言葉に幽霊がホッとしたように小さく笑みをこぼした。そして、ジッと和孝を見詰めてから形の良い唇をそっと開く。
「和孝さん……」
囁くようなその声の甘さに、和孝はドキリとして内心で慌てる。
「なんかくすぐったいな」
思わず苦笑して言うと、しかし、なぜか幽霊は眉を寄せて苦しそうに笑った。
「僕は業が深いから、だから成仏出来ないのかもしれない……」
「何?」
和孝は幽霊の言葉の意味が理解出来ずに、何のことかと問い返す。
「いえ……」
幽霊は首を横に振って小さく笑うと、再び何か考えるように沈黙してから言った。
「もし僕が生まれ変わったら……」
囁くようなその言葉に、和孝は視線を上げて「え?」と問う。
「もし本当に生まれ変わりというものがあって、僕がまたこの世に生まれて来ることが出来たら……」
幽霊はそう言って言葉を切ると、和孝をジッと見詰めてから再び唇を開いた。
「その時は僕に手を触らせて頂けませんか、和孝さん」
「手を?」
幽霊の言葉に和孝は思わず訊き返す。幽霊は「はい」と答えると、にっこり微笑んだ。
「ずっと触ってみたいと思ってたんですけど、幽霊の僕には触れることが出来ないから……」
そしてそう言うと、少しだけ屈み込んで和孝の顔を真上から見下ろす。
「僕の我侭をきいてくださいますか、和孝さん。必ず会いに行きますから……」
幽霊の髪がサラリとこぼれて、再び花の香りがフワリと漂う。和孝は甘いその香りに目を閉じると、わかった、と小さく呟いた。
「その代わり、絶対に会いに来いよ」
そういえば仏壇の周りにたくさんの花束や花籠が置かれていたのを思い出す。白や黄色の菊の花に混じって、色鮮やかな花もたくさんあった。きっと、息子を失って悲しみに暮れている母親を心配し、見舞いに来た友人たちが置いて行ったものだろう。
(そうか……)
幽霊から漂う甘い香りは彼の仏壇に供えられている花の匂いなのかもしれない。そんなことをぼんやりと思いながら、和孝はいつの間にか眠りに落ちた。




