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 山あいの小さな宿場町である生まれ故郷にいい思い出はあまり無い。和孝の母は当時の地元では珍しいシングルマザーで、昼は定食屋、夜はバーの洗い場でバイトをしていた。もちろん食事の支度など出来るわけもなく、和孝は幼い頃から母親が買って来たスーパーの惣菜を一人で食べることが常だった。多かったのは和孝が好きだった鶏の唐揚げとポテトサラダと、なぜか黒豆。甘く煮詰めた黒豆は子供の頃からどうにも苦手で、今でもコンビニ弁当に入っていると当時のことを思い出す。


「あ、カズくん!」

 小学校高学年の頃、和孝はよく帰り掛けに幼馴染みのヒロシに呼び止められた。

「悪いんだけど、今日当番代わってくれない?」

 当時、小学校では校庭の隅で鶏を飼っていた。ヒロシは『生きもの係』で、交代で鶏舎を掃除したり水を替えたりすることになっていた。

「ごめんね、今日は塾なんだ」

 ヒロシの言葉に、和孝は快く「いいよ」と答える。ヒロシは毎日学校帰りに駅前にある学習塾に通っている。当番の交替も今日が初めてではなかった。

「ヒロくん、私立の中学校に行くんだもんね。勉強、頑張ってね」

 当時、私立へ進学するのは本当に頭のいい子の一部だけで、自分の幼馴染みがその中に入っていることが和孝の密かな誇りだった。

「ありがとう、頑張るよ。じゃあね!」

 ヒロシがにっこり笑ってランドセルを上下に揺らしながら廊下を走り去って行く。その後ろ姿を見送った和孝は、自分もランドセルを取りに教室に戻った。その時、窓の外で誰かが「ヒロ!」と幼馴染みの名を呼ぶのが聞こえる。

「当番、代わって貰えたか?」

 その声に、ヒロシの声が「うん」と答える。

「カズに代わって貰った」

(僕のことだ)

 自分の名前が出たので窓の外を見ようとした和孝は、しかしその後の言葉に慌てて窓の下に隠れる。

「いいよなー、便利な奴がいて!」

 その言葉に含まれる蔑むような響きに、和孝の胸がドキリと震える。

「また『塾があるから』とでも言ったのか? とっくに辞めちゃったくせに!」

「うるさいなあ。何でもいいだろ!」

 その声にヒロシが煩そうに答えるのが聞こえ、二人の会話から、和孝は自分がずっと騙されていたことに気付いた。

「早く行こ! サッカーコート取られちゃうぜ!」

 先程の声が言い、パタパタと元気な足音がそれに続く。和孝は二人の話し声が遠ざかっていくのを聞きながら、いつまでも窓の下でじっと膝を抱えていた。


「おはようございます」

 目を開けると、極上の笑顔がそこにあった。

「あぁ……」

 和孝はムクリと起き上がると、久し振りに見た過去の夢に大きな溜息をついた。

(もう忘れたつもりでいたのに……)

 あんなのは子どものついた他愛も無い嘘とわかっていても、その時に感じた裏切られた気持ちと疎外感は今も黒い澱のようになって心の奥底に沈殿している。お陰で和孝は未だにどうしても人の言葉の裏を考えてしまうクセが抜けず、もちろん誰かと親しくなることも避けていた。

(そういえば……)

 こんなに長い時間、他人と一緒にいるのも初めてだ。和孝はそう考えて、枕元でニコニコと自分を見詰めている幽霊を見る。

「なんで朝からそんなに上機嫌なんだ?」

 不思議に思って尋ねると、幽霊は少し驚いたように目を丸くしてから再びにっこりと微笑んだ。

「だって、今日も瀬能さんと一緒にいられると思うと嬉しくて」

「俺と?」

 その屈託の無い笑顔に、和孝はまた動揺する。わざとらしく眉をしかめてポリポリと顎を掻くと、「物好きなだな」と言って苦く笑った。自分のような根暗い男と一緒にいても楽しいわけなどない。そう言うと、幽霊がブルブルと首を横に振って真剣な眼差しで和孝を見る。

「瀬能さんは暗くないです! 優しくてカッコ良くて素敵です!」

「はぁ……」

 溜息混じりに気の無い返事を返した和孝は、しかしすぐに思い出す。そういえば幽霊が会話出来るのは自分だけなのだ。だから幽霊は自分に見捨てられないように必死なのだろう。

「大丈夫だよ。おべっかなんか使わなくても追い出したりしないから」

 寝乱れた髪を手櫛で梳きながら言うと、その言葉に幽霊が酷く傷付いたような顔をした。

「僕、そんなこと思ってません!」

 言った途端に、見開いた大きな目がウルリと潤む。和孝は思わずギョッとすると、慌てて「悪い」と謝った。

「夢見が悪かったもんでさ……悪かったな」

 八つ当たりしたことを謝ると、幽霊も「いえ……」と言って手の甲で涙を拭う。

「僕もすみませんでした……大声を出したりして」

 和孝は幽霊が小さく微笑むのを見てホッとすると、わざと大きな溜息をついて見せる。

「それにしても、ホント泣き虫だよなあ、お前って」

 それでも本当に男なのか、と揶揄うと、幽霊がムゥとスネた顔をして和孝を睨む。

「瀬能さんはイジワルですね」

「あれ、さっきは優しいとか言ったくせに」

 和孝はヒョイと眉を上げてイジ悪く言うと、昨夜のビニール袋を引き寄せた。中から朝食のパンを取り出しながらニヤリと笑うと、途端に幽霊がパアッと嬉しそうな笑顔になる。

「瀬能さんは優しいです!」

 幽霊がニコニコと相好を崩しながら、ズリズリと和孝のすぐ傍までにじり寄って来る。その途端、フワリと花のような甘い匂いがして和孝は驚いて幽霊を見た。

「え……お前、コロンとか付けてるのか?」

「え?」

 和孝の言葉に、幽霊がキョトンとして何のことかと尋ねる。

「それは、幽霊でもコロンを付けるのかってことですか? それとも生前は付けていたかってことですか?」

「あ、そうか」

 もちろん幽霊には実体が無いのでコロンを付けることは出来ない。それに、生前付けていたとしても実体の無い幽霊から匂いがするわけもない。

「気のせいかな……」

 和孝はそう呟きながら、そっと幽霊の近くに顔を寄せる。すると、やはり花のような甘い香りがフワリとした。

「うん、やっぱり匂うな」

「僕の匂いですか?」

 和孝の言葉に、幽霊が驚いたように目をしばたたかせて尋ねる。

「そうみたいだ。へえ、幽霊にも臭いがあるって話は聞いたことあったけど……」

 しかし、いつかテレビで観た証言者の話では、もっと生臭い異臭だった筈である。少なくともこんな、いつまでも嗅いでいたいと思うようなイイ匂いではなかった筈だ。和孝は思わず目を閉じると、その甘い香りを再び深く吸い込んだ。

「なんか……恥ずかしいですね」

 少しして、幽霊の照れたような声音に和孝はハッとして目を開ける。気が付くと、すぐ間近に恥ずかしそうに目元を染めている幽霊の顔があった。

「わ……悪い」

 和孝は慌てて体を起こすと、持っていたパンの袋を急いで開ける。幽霊は嬉しそうに身を乗り出すと、和孝がパンを食べるのをニコニコと眺めていた。


 朝起きて、幽霊と一緒に大学に行って三度の飯を食べて風呂に入って寝る、そんな生活が数日続いた。戸惑ったのは最初だけで、その存在にはすぐに慣れた。

「おはよう、ユウ。今日は成仏出来そうか?」

 『ユウ』とは、名前が無いと不便なので和孝が付けた幽霊の呼び名である。幽霊の幽から付けただけの安直な名だが、「幽霊」と呼ぶよりは精神衛生上いい。

「すみません。まだみたいです~」

 幽霊がイイ奴なのはすぐにわかった。元々おっとりした性格らしく、食事に異常なまでの執着を見せる以外はいつもニコニコと笑っている。目が合うと、眩しそうに目を細めて嬉しそうに笑う。最初の頃はそれが不思議で「何が嬉しいんだ」と尋ねたら、「目が合ったから」と幽霊は答えた。和孝が自分のことを気にしてくれるのが嬉しいのだと。咄嗟に「もの好きだな」と軽く返したが、あれから和孝の胸中はモヤモヤしている。

(間違うな……)

 どんなにイイ奴でも幽霊は幽霊だ。そこに友情はあり得ないし、もしあったとしても幽霊が成仏すれば終わりである。

(早く成仏させなくちゃ……)

 この愛らしい幽霊に愛着が湧いてしまう前に……自分を見詰める澄んだ瞳に囚われてしまう前に……。それには、まずは幽霊が成仏出来ない理由を探すしかなかった。

「まずは身元だな」

 身元がわかれば家族にも会えるし、友人から情報を得ることも出来るだろう。もしかしたら家族と対面したことで幽霊の記憶が戻るかもしれないし、自分の心残りも思い出すかもしれない。その心残りを和孝が解決してやれば、幽霊は無事あの世に行くことが出来る筈である。もし生まれ変わりというものが本当にあるのだとしたら、幽霊の為にもそれが一番いいのだと和孝は自分に嘯いた。

(そうだ、それが一番いいんだ……)

 和孝は胸の内で呟くと、ニコニコと自分を見詰めている幽霊に視線を向ける。

「ユウ。今日の講義は午後からだから、その前に図書館に行かないか」

「図書館……ですか?」

 和孝の言葉に、幽霊がキョトンとして目をしばたたく。和孝は頷くと言った。

「図書館には新聞のバックナンバーがあるからな。もしかしたらお前の訃報とかが載ってるかもしれないだろ」

「あっ、そうですね。名前や住所がわかれば家族にも会えますし、すぐに記憶を取り戻して成仏出来るかもしれませんよね」

 幽霊の嬉しそうな言葉に、和孝は胸を突かれて言葉を失う。

(そうだ……)

 暗い廊下を彷徨っていた幽霊は、もしかしたら帰る家を探していたのかもしれない。だとしたら、家に帰り着いた時点で幽霊は……。

「瀬能さん?」

 朝食のパンを見詰めたまま黙ってしまった和孝を、どうしたのかと幽霊が覗き込む。

「いや……」

 和孝はハッと顔を上げて幽霊を見ると、すぐに視線を逸らして残りのパンをモソモソと食べた。


 午前中の図書館は空いていた。目的の新聞を見つけた和孝は、それらしい記事を探しながら次々と日付けを遡る。そして辿り着いたのは、三月も終わり頃の地方版だった。

「これじゃないか?」

 見つけたのは小さな交通事故の記事。被害者は『佐伯静也』。夜の県道を弟と二人でバス停から自宅に向かって歩いている途中、飲酒運転の車に轢かれたらしい。弟は軽傷で済んだが本人は即死。同じ大学の一年とあるから、生きていれば今は二年で和孝より一つ上だ。

「さえき……しずや」

 幽霊がその名前を小声で呟く。

「お前の名前か?」

 尋ねると、幽霊は少し考えてから曖昧に首を傾げた。

「わかりません」

「そうか……」

 しかし、名前がわかればすぐに調べはつく。写真でもあれば幽霊と同一人物かどうかはすぐにわかるだろう。和孝はその名前をメモ用紙に書き移すと、新聞を元の場所に戻しに行く。再び席に戻ろうとすると、なぜか幽霊の隣に江崎がいた。

「何してるんだ」

 慌てて戻りながら堅い声音で訊ねると、テーブルの上を覗き込んでいた江崎が顔を上げて「よお」と笑う。

「お前こそ図書館なんて珍しいな。何調べてんだ?」

「別に」

 江崎の言葉に和孝は短く返すと、机の上に置いたままだったメモ用紙を取ろうとした。しかし、それより早く江崎の手が動いてその紙を押さえる。

「『佐伯静也』……佐伯先輩のこと調べてんのか?」

「知ってるのか?」

 和孝は驚いて聞き返す。

「有名な人だったからね」

 江崎はそう言うと、親指を立ててヒョイと外を示した。

「同じサークルにいたんだ。何なら写真もあるけど」

 部室に来るかと問われて和孝は迷う。江崎の意図がわからない。

「いや……」

 和孝はメモ用紙を拾い上げると、それを胸ポケットにしまいながら断った。

「そうか」

 江崎は口角を横に引いて笑うと、「残念」と言って肩をすくめる。

「せっかく借りが返せると思ったのにな。まあ、何かあったら言ってくれ。力になるよ」

 江崎の言葉に和孝は、ああ、と答えてその場を離れる。やはりこの男の意図が読めない。

(まさか、事故の関係者とか?)

 確か、事故の加害者は三十代の会社員と書かれていた。

(親族……または知り合いとか)

 和孝はあれこれ考えながら、チラと後ろを振り返る。江崎は先程と同じ場所に立って、和孝が図書館を出るまでずっと見ていた。


「あいつ、胡散臭くないか?」

 図書館を出て講義棟の方へと歩きながら、さっそく和孝は幽霊に言った。

「そうでしょうか。いい方に見えましたけど」

 幽霊がほんわかした声音で答え、和孝は呑気なその言葉に呆れて「はあ?」と返す。

「お前、人を見る目ゼロだな。見るからに怪しかったじゃないか。何考えてるかわからないって言うかさ」

「そうでしょうか」

 和孝の言葉に、しかし幽霊はそう答えると、両手で胸の辺りを押さえて微笑んだ。

「でも、あの方が傍に来た時、この辺りがほんのりと温かくなりました。きっといい方だと思いますよ」

 幽霊の嬉しそうな言葉に、和孝は思わずムッとして顔をしかめる。そして、わざと不機嫌な声で「ふーん」と言うと、プイと顔を背けた。

「じゃあ、あいつに頼めばいいだろ。佐伯静也のこと知ってるみたいだし」

 わざと素っ気なく言うと、途端に幽霊が困ったように眉尻を下げる。

「でも、彼には僕の姿が見えませんし、声も……」

 言いながら、幽霊の大きな瞳が早くもウルウルと潤んでくる。

「泣き虫」

 和孝は眉をキツく寄せて悪態をつくと、再びプイと顔を背けた。その通りだ。幽霊は和孝しか自分のことを見ることが出来ないから一緒にいるだけで、好きだから傍にいるわけではない。わかっているのに、自分だけに向けられる信頼しきった瞳に、眩しそうな笑顔に、ついつい誤解しそうになる。

(なのに妬きもちとか……バカみたいだ)

 和孝はグッと口を引き結ぶと、足早に歩いていた足をピタリと止めた。

「わかったよ……頼んでやるよ」

 そしてそう言うと、クルリと回れ右して図書館に引き返す。しかし、まだ少ししか経っていないというのに、もう江崎の姿はどこにも無かった。

「確か佐伯静也と同じサークルって言ってたよな。どこのサークルだ?」

 大学には自分の教室というものが無いので、サークルに入っている者は授業が無い時は部室にたむろしていることも多い。何かそれらしいことを江崎が言っていなかったかと記憶の中を検索していると、その様子を心配そうに見ていた幽霊が「誰かお友達に聞いてみては……」とオズオズと言った。幽霊の言葉に、和孝は口の端を横に引いて苦く笑う。

「あいにく、ダチと呼べるような人間は一人もいなくてね」

 放課後の教室、窓の下に隠れたあの日から和孝は友達を作ることをやめた。誰とも打ち解けようとしない和孝は、中学でも高校でも浮いた存在だった。故郷から遠く離れたこの大学を選んだのは、過去の暗い自分と決別したかったからだ。しかし、未だに和孝は同じ場所で足踏みをしている。皮肉を籠めて言うと、幽霊の瞳が悲しそうに陰った。

「そんな顔するな。別にそんなもの、生きていく上では何ら必要も無い」

 そうだ。友達なんかいなくても困らない。誰も信じるな。誰にも心を許すな。そうすれば傷付かないし、裏切られて悲しむこともない。泣き虫で心優しい幽霊だっていずれは自分から離れていくのだ。和孝は自分をジッと見詰めている幽霊を見返すと、悪かったな、と謝った。

「午後の授業の前には会えると思うから、その時に頼んでやるよ」

 きっと今日も江崎は自分に代返を頼みに来るだろう。そうしたら写真を見せてくれと頼んで、もし幽霊が佐伯静也本人ならば住所を聞いて自宅に連れて行って家族と会わせて……。

「そうすれば……」

 記憶喪失の幽霊は、すぐに記憶を取り戻して成仏するだろう。和孝は元の生活に戻り、この悶々とした想いにもケリがつく。

(サヨナラだ……)

 和孝は胸の内で呟くと、幽霊に背を向けて図書館を出る。幽霊は何を考えているのかその後を無言でトボトボと付いて来た。


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