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 昼休み時の講義棟は閑散としていて空き部屋も多い。使っていない教室に入り、適当な席に座ってバッグからコンビニのビニール袋を取り出そうとした和孝は、何気なく隣を見た途端に思わず、うわッ、と声を上げた。

「ゆ、幽霊……」

 愕然として呟いた和孝の言葉に、いつの間に座ったのか隣の席で幽霊が、すみません、と小声で謝る。

「僕、気が付いたらあの廊下を歩いてて……以前のことは全く憶えてないんです」

「へ、へえ……」

 和孝は幽霊の身の上話にちょっと引きながら、ところでさ、と言って訊ねる。

「なんで付いて来るわけ? 俺たち知り合いでも何でもないよね?」

 和孝の言葉に、幽霊がいたたまれなそうに俯いて、すみません、と再び小声で謝る。

「いや、別に謝らなくてもいいけどさぁ……」

 和孝はひとつ大きな溜息をつくと、ビニール袋からパンとパック入りの牛乳を取り出した。

「で? 俺に何か用なわけ?」

 自分に付いて来た理由を尋ねると、途端に幽霊がパッと顔を上げて嬉しそうに笑う。

「嬉しかったんです! もう誰にも自分の姿は見えないんだと思ってたので、瀬能さんに会えたことが嬉しくて!」

 その心底嬉しそうな笑顔に、しかし和孝は眉を寄せてボリボリと顎を掻く。そんなことを言われても、うっかり見えてしまっただけで自分にはどうすることも出来ない。

「それで? これからどうするんだ?」

 あの廊下を歩いていたのだからどこかへ行くつもりだったのだろうと思って尋ねると、幽霊が再び俯いて小声になる。

「わかりません……毎日あの廊下を歩いていただけで、どこへ行こうとか考えたこともありませんでした」

「でも、そうすると自縛霊とかになっちまうんじゃないか?」

 薄暗い廊下でぼんやりと視線を彷徨わせながら歩いていた姿を思い出して問うと、途端に幽霊が不安そうに和孝を見上げた。

「それっていけないことなんですか?」

「さ、さあ……」

 実際、和孝には幽霊のことなどわからない。しかし、成仏するのが一番いいのだろうということだけはわかった。

「とにかくさ、幽霊なら早く成仏しろよ。その方がいいって」

 牛乳パックにストローを挿しながら言うと、幽霊が身を乗り出して尋ねる。「そ、それはどうやったらいいんですか?」

「え……」

 和孝は反射的に身を引いて幽霊から離れると、視線を上向けて考えた。

(ええと……)

 頭の中に浮かんだのはテレビ番組で観た霊媒師や陰陽師の姿で、彼らは一様に怪しい呪文を唱えながら依頼者に取り憑いた悪霊を除霊していた。苦悶の表情を浮かべて恐ろしい呻き声を上げながら悶え苦しんでいた依頼者たちの姿を思い出し、和孝はゾゾッと肌をそそけ立たせる。そして、目の前の綺麗な幽霊に窺うように視線を向けた。

「お前、この後も俺について来るつもりじゃ……ないよな?」

 和孝の言葉に、途端に幽霊が心細そうに瞳を揺らす。

「えっ、一緒にいちゃダメですかっ?」

「や、普通ダメだろう!」

 誰だって幽霊に付きまとわれるのはイヤである。そう言うと、幽霊は今にも泣き出しそうな顔になって俯いた。

「そうですよね……ご迷惑ですよね……」

 そしてそう言うと、膝の上で握り合わせていた手をギュッと硬く握り締める。

「すみませんでした……僕、瀬能さんに会えたことが嬉しくて……迷惑とか全然考えてなくて……」

「あ……いや……」

「ずっと独りきりで寂しかったから……誰かと話したり、目を合わせて貰えるのが凄く嬉しくて……」

「お、おい……」

 今にも泣き出しそうな幽霊の言葉に、和孝はいくぶん良心の呵責を覚えて声を掛ける。

「でも、ご迷惑ということであれば、これ以上傍にいるわけにはいきません。またあの廊下に戻って、誰か僕のことが見える人を探しますので……」

「だから、おいって言ってるだろッ?」

 和孝は幽霊の言葉を遮ると、大きな溜息を盛大についた。

「いていいよ。ただし、お前が成仏するまでだ。それまでは一緒にいていいから、だから早く成仏しろ」

 和孝の言葉に、驚いたように見開かれていた幽霊の目がウルリと潤む。

「ありがとうございます! 恩に着ます!」

 幽霊はガバッと和孝にお辞儀をすると、顔を上げて嬉しそうに笑った。その途端、大粒の涙がポロリと目蓋の縁から溢れて零れる。

「泣くことないだろッ……男のくせに」

 和孝は幽霊の突然の涙に調子を狂わされてそう言うと、その嬉しそうな笑顔から視線を逸らした。

(なんでこいつ、男なのにこんなに可愛いんだよ……)

 幽霊が女の子みたいな容姿をしているから、だから自分は泣き顔を見ただけでこんなにも狼狽えてしまうのだろう。和孝は胸中のモヤモヤをそう結論付けると、持っていたパンの袋をパリッと開ける。途端にカレーパンの香ばしい匂いがして、条件反射で腹の虫がグゥと鳴いた。

「そ、それは何ですか?」

 ガサガサと袋の中から中身を取り出す和孝を見て、手の甲で涙を拭っていた幽霊が興味深そうに身を乗り出す。

「何ってパンだよ。昼になるとすぐに売り切れちゃうから、先に買っといたんだ」

 和孝はそう言うと、さっそくパンにパクリと齧りついた。

「美味しそうですね……」

 それを見て、幽霊が今にもヨダレを垂らさんばかりにして身を乗り出す。

「まあな……食うか?」

 気圧された和孝がパンの袋を差し出して問うと、幽霊はゴクリと喉を鳴らしてから首を横に振った。

「ありがとうございます。でも、僕は食べられないんです」

「そうか」

 確かに幽霊が物を食べるなんて話は聞いたことが無い。

「それは残念だったな」

 和孝はそう言うと、再びパンに齧りつこうとする。しかし、隣で自分を見詰める幽霊が同じように可愛い口を小さく開けたのに気付くと、酷く居心地が悪くなってそのまま口を閉じた。

「……?」

 ジッと自分を見ている和孝に気付き、幽霊がどうしたのかと小首を傾げる。

「どうしたんですか? 食べないんですか?」

「いや……なんか食べづらいって言うか何て言うか……」

 和孝はゴニョゴニョと言葉を濁すと、パックの牛乳をゴクリと飲む。そして、食い入るように自分を見詰めている幽霊に背を向けると、急いで残りのパンを平らげた。


「独り暮らしなんですか?」

 一日の授業が終わると、幽霊は自宅アパートにも付いて来た。

「ああ。実家から遠いしな」

 鍵を開けて中に入ると、素敵なお部屋ですね、と言いながら幽霊もキョロキョロと辺りを見回しながら入って来る。和孝の部屋はワンルームと言えば聞こえはいいが、ただの1Kで、六畳の洋室に一畳のキッチンスペースと猫の額ほどの三畳和が付いているだけの簡素な部屋だ。売りはバスとトイレが別に付いていることと、北向きだが角部屋なので窓が二方向に付いていることくらいだが、確かに隣人の物音は少ないし、二階なので足音や物を落とす音に煩わされることも無い。ちょっと気を良くして、そうかな、と答えると、幽霊が、はい、と言ってにっこりと微笑んだ。

「誰も住んでいませんし、通り道も無いみたいです」

 それが自縛霊や浮遊霊のことを言っているのだと気付き、和孝はちょっと引きながら、そりゃどうも、と答える。何にしても、そういうのがいないとわかっただけ安心である。

(あ、でも一人連れて来ちゃったけどな……)

 こういうのは何と言うのだろうか、やっぱり『取り憑かれた』と言うのだろうかと考え、和孝はこっそり幽霊を見る。

(こうして見ると、本当に生きてるように見えるんだよなあ……)

 普通に足で歩いている幽霊はどこから見ても普通の人間で、実際に触れようとした手がすり抜けてしまっても、未だに何となく信じられなかった。

(まあ、無害みたいだから大丈夫だろ)

 和孝はそう結論付けると、部屋の真ん中に置かれているコタツの上のゴミを片付ける。そこに先程買って来たコンビニエンスストアの袋から中身を取り出して置くと、途端に幽霊が『わあ!』と言って大喜びでコタツに飛びつくようにして座った。

「ご飯ですねッ?」

 目をキラキラさせながら嬉しそうに問う幽霊を見て、和孝はあることを思い出す。そして、そうだ、と言って立ち上がると、台所から茶碗を持って来て、弁当の飯を半分移した。それに真上から箸を挿して幽霊の前に置くと、これは何ですか、と幽霊が尋ねる。

「影膳だよ」

 和孝は答えると、自分の田舎では家族が死ぬとこうして何日か一緒に飯を用意するのだと説明する。食えそうかと問うと、幽霊はウ~ンと唸ってそれをジッと見詰めていたが、少しして小さく首を横に振ると、すみません、と申し訳無さそうに謝った。

「せっかくご親切にして頂いたのに、無理みたいです」

「そうか」

 残念そうな幽霊の言葉に、和孝もちょっとがっかりして溜息をつく。すると幽霊が、でも、と言って、フワリと口元を綻ばせた。

「この辺りがフワッと温かくなったような気がします。ありがとうございます」

 幽霊が胸の辺りをそっと押さえて嬉しそうに礼を言う。和孝はその柔らかな笑顔に再び狼狽えると、ゴホンと咳払いしてから箸で唐揚げを摘まんだ。

「美味しいですか?」

 その唐揚げを無造作に口に入れると、その様子をジッと見詰めていた幽霊がゴクリと喉を鳴らしながら尋ねる。

「コンビニ弁当の唐揚げなんか旨いわけないだろ」

 揚げたてならともかく、再加熱した唐揚げなど美味しいわけはない。そう言うと、急に幽霊が真剣な眼差しになって和孝に言った。

「瀬能さん。せっかくの食事なんですから、もっと味わって食べてください。絶対に美味しい筈ですから」

「そんなこと言ったって……」

 こんなに間近でガン見されては食べるに食べられないではないか。そう悪態をつこうとすると、幽霊が、パン、と言って和孝を見上げた。

「昼にパンを食べた時、瀬能さんは『美味しい』って思いましたよね」

「え?」

 幽霊の突然の言葉に、和孝は『どうだったかな』とその時のことを思い出そうとする。

「思いました」

 幽霊はきっぱりとした口調でそう言うと、再び身を乗り出して和孝を見詰めた。

「その時、僕にも少しだけ味がわかったような気がしたんです。わかったって言うか、『美味しい』っていう気持ちが伝わって来たっていうか……」

「はぁ……」

 和孝は箸を咥えたまま答えると、考え考え言葉を継ぐ。

「つまり、俺が『美味しい』って思うと、お前も『美味しい』って感じるってことか?」

「はい」

 幽霊は和孝の言葉に大きく頷くと、期待の眼差しで弁当を見下ろした。

「わかった、わかった」

 和孝は溜息をつきながら箸を握り直すと、白飯をひと口掬って口に入れる。途端にほのかな湯気と懐かしい香りがして、口中に飯の甘さがフワリと広がった。

「あ……」

 和孝は暫く忘れていたその味に思わず感動すると、凄ェ、と言って弁当を見下ろす。

「忘れてたな……飯の味なんか」

 いつの間にか食事は空腹を満たす為の行為でしかなくなっていた。独りきりの部屋でテレビや雑誌を見ながらモソモソと食べる弁当は実に味気ないもので、それがどんな味なのかすら考えなくなっていたのだ。和孝の驚き混じりの言葉に、幽霊が嬉しそうににっこりと微笑む。

「美味しい……これが瀬能さんの食べているものの味なんですね」

「旨いか? 本当に?」

 驚いて尋ねると、幽霊は嬉しそうににっこり笑って頷いた。

「今度はコレを食べてください」

 幽霊がそう言って指差したのは、弁当の隅に少しだけ盛られていた黒豆だった。

「これは子どもの頃から苦手なんだよなぁ……」

 醤油と砂糖で煮詰めた黒豆は子どもの頃に散々食べさせられた一品で、和孝は思わず顔をしかめる。

「これは勘弁してくれ」

 そう言って弁当の中を見回すと、メインのおかずを箸で摘まんだ。

「こっちでいいだろ。鮭だぞ、鮭」

 そう言って鮭の塩焼きを口に入れると、脂ののった鮭の旨みが口中にじんわりと広がる。

「お、旨い」

 鮭の塩焼きは冷めても美味しい。和孝が鮭の味を堪能しながら言うと、幽霊もうっとりと目を閉じて、はい、と答えて頷いた。しかし、すぐにパッと目を開けると、先程の黒豆を再び残念そうに見る。

「でも、次はこれも食べてくださいね。瀬能さんは食べられるのに食べないなんてズルいです」

「わかった、わかった」

 責めるような幽霊の言葉に、和孝は肩をすくめて口先だけで答える。もしかしたら黒豆が幽霊の生前の好物だったのかもしれないと思ったのは、弁当のパックをゴミ箱に捨ててしまった後だった。


「おい、幽霊……」

 コタツを部屋の隅に寄せ、押入れから布団を出して横になる。和孝は電気を消すと、顔をしかめて幽霊に言った。

「それは何の真似だ」

「え、何のって……」

 いかにも迷惑そうなその言葉に、枕元に正座して和孝の顔を見下ろしていた幽霊が戸惑うように答える。

「でも、ここが幽霊の定位置ですので……」

「だから、何で俺の顔を見てるんだって聞いてるんだよ」

「見たいからです」

 にっこりと微笑む幽霊に、和孝は大きな溜息をつく。そして、シッシッと右手を振って、犬猫を追い払うような仕草をした。

「とにかくそこにいるのは勘弁してくれ。明るくて眠れやしない」

 明るい場所では普通の人間にしか見えなかった幽霊は、電気を消すと途端にぼんやりと光り出した。光量はたいしたことないのだが、暗闇の中ではかなり眩しく、目を閉じても目蓋を通してぼんやりと入って来る。

「そんなこと言われましても……」

 幽霊は困ったようにそう言うと、立ち上がって布団の足下に移動する。そしておもむろに膝を突くと、ズリズリと掛け布団の上を和孝の太ももの辺りまで這い上がって来た。

「うわあ!」

 重さは無いが、その異様な光景に和孝は思わず叫んで飛び起きる。

「怖いからやめろ!」

 いくら可愛い顔をしていても相手は幽霊である。和孝は本気で肌を粟立たせると、自分の枕元を指差した。

「いいからここに座れッ。まだ頭の方がマシだ!」

「はぁ……」

 幽霊は和孝の言葉に頷くと、再び枕元に戻って正座する。

「ここなら怖くないですか?」

 そっと気遣うように尋ねられた和孝は、思わずムッとして赤くなると、顔をしかめて、怖くない、と答えた。

「幽霊なんか怖いもんか……」

 本当に怖いのは生きている人間である。和孝はその言葉を呑み込み、再び布団を掛け直して目を閉じる。

「瀬能さん?」

 静かになった和孝に、幽霊がそっと声を掛ける。

「あの……ここであなたを見ていてもいいですか?」

 遠慮がちに尋ねられた和孝は、一瞬何かを言い返そうとしてから、諦めの溜息をついた。

「好きにしろ」

 どこか遠くで犬の吠える声がする。それにジッと耳を澄ましていると、幽霊が嬉しそうに小さく、はい、と答えるのが聞こえた。


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