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(あ……)
午前の講義が終わった後の昼休み。ワイワイと笑いさざめき合いながら学生食堂や購買に移動して行く人波に紛れて歩きながら、和孝は前方から歩いて来る少女に気付いて口をポカンと開けた。
(可愛いなぁ……)
大学の廊下は薄暗くて、しかも物凄く混んでいるので、うっかりすると見失いそうになる。その中を、和孝は出来るだけ相手に気付かれないように視線だけ動かしてその顔を見詰めた。
(同期かな……)
この大学に入学してひと月。雑多な手続きや授業に付いて行くのがやっとで、まだ同じ専攻の人間すら覚えていないが、こんな美少女はいなかった筈である。
(先輩……ってことはないよな)
まだ幼さを残したその顔は、ともすれば高校生にも見える。小さな白い卵型の顔に、肩より長めの少し茶色がかったサラサラの髪。柔らかく弧を描いた眉の下には長い睫毛で縁取られた黒目勝ちの目があり、細い鼻梁の下にある唇は若干色味は薄かったがとても柔らかそうだった。
(カレシとかいるのかな……)
どこからどこまで自分好みのその顔を、和孝は引き寄せられるようにジッと見詰める。すると、誰かを探すようにゆっくりと彷徨っていた少女の視線が、和孝の上でピタリと止まった。
(あっ……)
目が合った瞬間、和孝の心臓がドキリと大きく音をたてる。そのまま囚われたように視線を逸らせずにいると、少女が不意に人波から外れて和孝の方へと歩いて来た。
(あれ?)
その全身が人混みの中から抜け出た瞬間、和孝は微かな違和感を覚える。Tシャツの襟から覗く細い鎖骨にスレンダーな体。Gパンで包まれた細い腰と肉の無い太もも。そして、靴。足下に見えるまだ新しげなスニーカーは、どう見ても女の子のものにしては大きかった。
(まさか……男ッ?)
あまりと言えばあまりの衝撃に、和孝は愕然としてその場で凍り付く。どんどん近付いて来るその綺麗な顔を半ば呆然と見詰めていると、目の前に立った少女……いや、青年が躊躇うように小さく笑った。
「こ……こんにちは」
おずおずと窺うように声を掛けられた和孝は、返事も忘れてジッとその顔を見詰める。
(こ、声も可愛い……って言うか、誰だっけ?)
同じ専攻では見たことがないし、もちろん地元の知人でもない。だいたい、どこかで会ったことがあればこれほどの美人だ。たとえ男だとしても覚えている筈である。そこまで考えた和孝は、次の瞬間ハッと息を呑んで目を見開いた。
(もしかして……ナンパッ?)
一瞬浮かんだ突拍子もないその単語を、和孝はすぐに、いや、ないないない、と打ち消す。この世に生まれて十八年、残念ながら未だに一度もそんなオイシイ目には遭ったことが無い。
(それに、いくら可愛くても相手は男だしな)
男が男をナンパしてどうすると言うのか。少し冷静になった和孝は、すぐに別の理由を思い付いた。
(あ、そうか。何か訊きたいことがあるのかも)
そういえば自分は昔から人に道を訊かれることが多い。きっと声を掛け易い顔をしているのだろうと思いながら、自分の肩ほどの高さにある綺麗な顔を見下ろすと、その青年が再び躊躇うように、あの、と言って不安そうに和孝を見上げた。
「僕のこと……見えてますよね?」
「え?」
てっきり教室の場所か何かを聞かれるのだと思っていた和孝は、一瞬何を言われたのかわからなくて訊き返す。しかし、途端に青年は嬉しそうに微笑むと、良かったぁ、と言ってホッとしたように大きく息をついた。
「全然喋ってくれないから、もしかしたら目が合ったのも気のせいだったのかと思って心配しちゃいました」
その時になって和孝は、自分がひと言も返事をしていなかったことに気付く。
「す、すまない」
考え事をし出すと、途端に黙り込んでしまうのは自分の悪い癖だ。和孝は慌てて謝ると、それで、と言って遠慮がちに尋ねた。
「俺、どこかで会ったのかな。ごめん、全然覚えてなくて……」
申し訳ない気持ちで謝ると、慌てて青年が、いえ、と言って首を横に振る。
「実は僕も覚えてないんです。でも、あなたがジッと僕のことを見てたから……」
だから、自分のことを知っているのではないかと思って声を掛けたのだと言う。
「そ、そうか……」
まさか女の子と間違えて見ていたとも言えず、適当な言い訳を考えていると、不意に誰かがドンと背中にぶつかって来て、和孝はヨロけた。
「うおッ。こんなとこで突っ立ってんなよ。危ねえなあ!」
後ろからぶつかって来た男に迷惑そうに言われて、和孝は慌てて、すみません、と謝る。さすがにこの往来で立ち話は邪魔だろうと思い、廊下の隅へ移動しようとした和孝は、青年の肩に手を掛けようとして、思わず『え?』と目を見開いた。
(何だ……?)
スカッと空振りした自分の右手を見詰め、和孝は目の前にある綺麗な顔に視線を戻す。すると、和孝の視線の意味に気付いた青年が、あっ、と小さく言って困ったように眉尻を下げた。
「ごめんなさい。実は僕、実体が無くて……」
「……は?」
和孝は青年の言葉が理解出来ずに、その顔を見詰める。
「だからですね……その……たぶんなんですけど」
青年はそう前置きして躊躇うように視線を逸らすと、もう一度、たぶん、と付け加えてから意を決したように和孝を見上げた。
「僕は……幽霊……みたいなんです」
「ゆう……れい?」
きっと勇気を出して告白したのであろう青年の真剣な顔を、和孝はポカンとして見詰める。
「はい」
青年は和孝の言葉に頷くと、だから、と付け加えて申し訳なさそうに言った。
「たぶん、僕の姿は誰にも見えてなくて……つまり、今あなたは誰もいない空間に向かって独り言を言いながら立ってるわけで……ええと……そのぉ……」
「え……ええッ?」
ようやく青年の言いたいことに気付いた和孝は、ハッと顔を上げて辺りを見回す。すると、先程背中にぶつかって来た男が、不審げに眉をひそめながら和孝を見ていた。
「おい、瀬能。大丈夫か、お前?」
「あ……江崎?」
それは同じ専攻の江崎だった。新入生オリエンテーションの時に席が前後だったので知り合った、和孝が言葉を交わしたことのある数少ない同期の一人だ。
「悪い。独り言を言いながら考えるクセがあって……」
和孝は苦し紛れの嘘をつくと、じゃあ、と言ってそこを離れようとする。それを江崎が、あっ、と言って呼び止めた。
「午後の授業、出るのか?」
その言葉に和孝は胸の内でこっそり苦い溜息をつく。
「出るよ」
頷きながら答えると、江崎が、じゃあ、と言ってクリーム色の紙片を胸ポケットから取り出した。小さな長方形のそれは学食の日替わり定食の食券で、江崎は和孝に初めて代返を頼んだ時から、いつもこれを謝礼の代わりにくれる。
「いつも悪いな。これからバイトでさ」
『ごめんね。今日は塾なんだ』
江崎の言葉に、小学校時代のクラスメートの言葉が重なる。和孝は、別に、と答えると、その食券を受け取って背を向けた。
(そうさ、別にどうでもいい……)
代返の理由がバイトであろうと合コンであろうと自分には関係無い。江崎の代返を引き受けるのは報酬があるからで、友達とか友情とかいうものでは決して無い。和孝は再び歩き出すと、逃げるようにして人波から外れる。ふと思い出して振り返ると、先程まで心配そうに自分を見詰めていた幽霊は消えていた。




