休息と納涼
山は人里から遠く離れ、幾重にも重なった稜線の奥で、深い息をひそめるように静まり返っていた。空へと伸びる杉や欅は、幹に幾筋もの皺を刻み、長い年月を耐えてきた証をそのまま纏っている。根元には柔らかな苔が絨毯のように広がり、転がる石さえも緑に覆われて、時の流れを忘れたかのように佇んでいた。
谷あいを縫うように、小川が澄んだ音を立てて流れている。水は透きとおり、陽光を受けてきらきらと揺れ、手を差し入れれば骨の芯まで冷えそうなほど涼しい。岩にあたる水音は絶え間なく、それが山の静寂をいっそう際立たせていた。
その川の上には、木組みの納涼床がしつらえられている。水面すれすれに張り出した板の間には、涼を求めて集まった人々が腰を下ろし、団扇を手に語らい、川風に頬を撫でられている。子どもたちは身を乗り出して水面をのぞき込み、大人たちは湯気の立つ茶や冷えた盃を傾けながら、束の間の安らぎに目を細める。
深山の緑と、絶えず流れる清流と、人のささやかな賑わい。静と動とが溶け合うその場所だけが、夏の熱を忘れさせる別天地のように、ひそやかに息づいていた。
「……やっと着いた。遠いし、あと少しがとおいよ」
「これが納涼床にゃん」
対照的なテンションの二人が車の扉から外へ脱出していく。
「ありがとうございました。明のお姉さん」
「いいんよ、イケメンの頼みとあっちゃ断れないわよ」
「ありがとう、ねぇさん」
「お前じゃないわ」
二人のやり取りになのか、イケメンといわれたことになのかはわからないが、琉希は苦笑する。
「ともかく、琉希くんに迷惑かけんじゃないわよ。じゃあね」
明の姉はそれだけ言うと、車を再び動かし、狭い道をゆっくりと対向車とすれ違いながら遠ざかって、遠ざかろうとする。
「いやー、もうすぐ着くからが長かったね」
「そうなんだよな。だから普段は絶対来ないんだけど、約束したからな」
「なにやってるにゃん。はやくいくにゃん」
「コタロウさ、コタロウの声に僕ら返事できないの忘れるよね」
今にも川に飛び込みそうなほどの川の際まで歩を進めて、駐車場から微塵も動いていない三人に大声で呼びかけているコタロウ。
「たぶんな。まぁつれてきたかいあるってもんだ」
「……そのせいで俺はグロッキーだけどね」
車酔いした和真が、しゃべる二人の背後にそっと忍び寄り恨めしそうにいう。
「だから、歩くかって?提案しただろ。渋滞にはまった時点で歩けない距離じゃなかったし」
「歩くのはいやだって、ちゃーが自分で選んだ結果だよ?」
「……やさしくないやつらだ」
そんな話をする三人の足元に、業を煮やしたコタロウが近づいてくきて、笑ってない瞳でいう。その圧に押されるがままに三人は納涼床へ向かうのであった。
「極楽にゃんー。夏のお外なのにすずしいにゃん。川のせせらぎも心地いいし、日差しもうっとしくないにゃん」
溶けそうなくらいぐでっと、床に寝ころびながらコタロウはいう。
「極楽だろ?俺が直接関わってる訳じゃないんだが自慢なんだここ」
納涼床を営業する料亭の女将を叔母にもつ、琉希が女将さんに頼み込んで実現した今回の小旅行。琉希は自慢げであった。確かに、自慢したくなるほどに素晴らしい場所であった。
「そんだけ自慢に思ってくれてるのはうれしいけど、いささか急すぎるよ。ばかちん」
ひと際高価そうな着物の人が女将であろうか。その女の人を先頭に何名かが膳をはこんでくる。朱塗りの器や竹で編まれた籠の上の載っているのは、ハモの落としに京懐石、それに名物湯豆腐であった。
川床に運ばれてきた鱧の落としは、白くほころぶ花のように皿の上で咲いていた。細やかに骨切りされた身は、湯にくぐらせることでふわりと反り、透けるような薄紅を帯びている。
続く京懐石の膳は、艶やかな八寸には青もみじがあしらわれ、炊き合わせは薄味の出汁をたたえ、器の中で静かに湯気を立てている。
そして名物の白い湯気をまとった湯豆腐。昆布を敷いた鍋の中で、絹のような豆腐がゆらりと揺れ、箸ひと突きでぐずれそうなほどの柔らかさを目で感じるほどであった。
「ごめんよ、麻沙美おばさん」
「お・か・み」
琉希にずいと顔を寄せ笑顔でいう。琉希はおびえた顔で慌てて女将と言い直す。
「まったく最初からそう言えばいいのさ。それで君たちが琉希の親友君たちだね」
借りてきた猫のようにコクコクとうなずく明と和真をみて、女将は破顔一笑した。
「そんなおびえなくてもいいさね、取って食ったりしないよ。あれみたいなあホンダラ以外はね」
アホンダラといわれた琉希は居心地悪そうに肩をすくめて見せる。ともかくと言葉を女将は一度区切り、
「うちの料理と川の涼しさ、どうぞ存分に堪能していっておくれやす。せっかくここまで来てくれはったんやさかい、遠慮なんていりまへんえ。川風にあたりながら、ゆっくりしていっておくれやすな。」
と、女将モードになり、終始圧倒されたままの明と和真に言い去っていくのであった。
「……女傑」
「つよい」
「いい人なんだけどな、圧が強くてかなわん。ま、いいやさっそく食おうぜ」
うまいんだぜここの料理といい手をつけはじめる。もちろんこっそり、湯豆腐をとりわけコタロウに渡すのも忘れない。
運ばれてきた料理のうまさと夏とは思えない涼しさに、気分を持ち直した和真が琉希に言う。
「……たびたび思うけど、琉希て見た目からは想像つかない属性つけてるよね」
鱧の落としの淡泊でありながら奥行きのある旨みが広がり、ほのかな甘みを堪能しているであろう明も同意する。
「確かに。成績上位だし、しれっといつの間にか生徒会に入ってるし。優等生なんだよね」
「ほんとにゃん?世末のヤンキーみたいな見たなのににゃん」
「なんだ世末って、場末みたいにいいやがって。おいそこ腹抱えて笑うな」
コタロウの言い草に腹を抱えて、大笑いする明と和真。笑い声に視線が集中したことを感じたのか。笑い声を殺すようにぷるぷる震えながら、明は言う。
「そうだよね。ヤンキーに見えるよね。見た目的には『いぇーい彼氏君見てるー』のやつだもんね」
「おいこら」
和真が、星座のまま床に顔を伏したままあげなくなった。
「それは分かんないにゃん。頭いいのは何となくわかってたにゃんけど、生徒会にゃんね」
「そうだ、意外か」
「生徒会が意外というよりかは、三人が学生なのが意外にゃん。」
想定外の返事だったのか、琉希だけでなく明や、笑いをこらえていた和真すらも驚いた顔でコタロウをみる。コタロウはコタロウでその反応は想定外だったのか驚いた表情を浮かべる。
「い、いやみんな髪色が……ん、にゃん」
三人に予想外のタイミングで見つめられたコタロウはタジタジになりながら、学生と思わなかった理由を答える。その理由に三人は合点がいったと頷く。
「確かに俺は金髪だし、ちゃーは緑だしまぁ、ありうるのは茶髪の明だけか」
「うちの学校は髪染めいいんだよ」
「……珍しくね」
やっぱり、めずらしいんだという反応をするコタロウ。それに補足するように琉希が付け足す。
「うち一応進学校だから余計珍しんだ。たまにこいつらみたいなのもいるけど」
「なんだこいつらみたいなのって。失礼だな」
「まぁ、進学校にいる人間にはみえないにゃんね」
コタロウは前足を川床から投げ出した態勢で笑いながら言う。
「……割と最近髪色解禁されたけどね」
「そうなんだよな。俺の尊敬するバケモン生徒会長が、バケモンだっていう二代前の生徒会長が変えたらしんだよな」
「……へぇ優秀な人にゃんね。会ってみたいにゃんね」
「夏休み終わったら来たらいいと思うよ」
そうやって川床での楽しい時間は過ぎていった。コタロウはもちろん、来た時にはグロッキーであった和真も満喫しきったようである。
帰りがけに、こんだけ良くしたんだから今年は手伝いに来い。うちの娘たちも喜ぶと手伝いの確約をさせられ頭を抱えていた琉希を除けば楽しいばかりの、良い思いばかりの小旅行であった。




