第7話 祝祭の中央に“名”を置く
王都の中央広場は、今夜だけは本来の姿を取り戻していた。断罪の檻も、見物用の柵も外され、石畳に古い模様が剥き出しになっている。雪は薄く掃かれ、白い筋が渦のように重なって、広場の中心へ視線を集めた。そこに、祭壇職人たちが昼のうちに据えた低い台がある。台の真ん中には丸い窪み。その中へ置かれるのが、古い文献にしか残っていなかった“名を載せる皿”だと、マリアは何度も紙でなぞって覚えた。
風は冷たい。けれど、氷みたいな冷たさではない。どこかに火があり、湯気があり、歌の練習の声がある。祝祭の夜特有の空気だ。人の体温でできた薄い膜が街全体を覆い、星の光がそれをやわらかく透かす。最終儀の夜だというのに、怖い匂いが薄い。怖さと同じくらい、期待という色が混ざっている。
マリアは祭壇の脇で息を整え、白い手袋を外した。親指の付け根に擦り傷がある。今日の準備の途中で、重い石盤の角に手を打った。手は傷つく。名も傷つく。傷は残るが、そこへ印が押せる。彼女は聖典を胸に抱え、広場の縁に視線を走らせた。騎士たちが輪を組み、人々が立つ位置を調整している。屋台は灯を落とし、鍋の蓋は閉じられている。甘い匂いは薄い。今日は食べるより見る日だ。歌う日だ。
ガレンが来た。鎧は冬用の重装だが、マフラーはほどいている。喉が見える。いつでも命令を出せる形を保ちながら、刃先は地に向けたまま。彼は祭壇の段を一段だけ上がり、斜めからマリアを見た。
「最後の交渉に来た。秩序を壊す儀式は許可できん」
言葉は硬い。だが、硬さの下に、疲れの色がある。今日一日で、人を押し、起こし、運び、叱り、慰め、書類に印を押し、火符を捌き、やっとここまでこぎつけた顔だ。現実主義者の顔だ。
マリアは一歩だけ前に出た。「秩序って、なんでしょう」
「決まりだ。人間が生き延びるための決まりだ」
「なら、問い直します。秩序は、人が冬を越すための仕組みです。誰か一人が毎回死ぬことで成り立つ秩序と、みんなで少しずつ重い荷物を持ち合う秩序。どちらが、より秩序らしいと思いますか」
言い切ったあと、喉が乾いた。言葉は剣と似ている。振るえば自分に返ってくる反動がある。マリアはその反動を唇の内側で受け、血の味をすぐに飲み込んだ。
ガレンはすぐには答えなかった。視線が祭壇を、広場を、人々の顔を一巡する。屋台の女将、鐘守の老人、鍛冶屋の兄弟、旅の歌い手、泣き止んだばかりの子ども。顔はばらばらで、今夜だけは同じ方向を向いている。
「……俺は騎士だ。法を守る。だが、法が遅れることはある」
ガレンは剣を地面に突き立てた。石に金属が触れ、低く澄んだ音が広場に落ちる。「俺は式の警備に回る。結果に責任は持たん。だが邪魔もしない」
譲歩は短く、明快だった。彼なりに、最大限の距離を詰めたのだと分かる。マリアは深く頭を下げた。
「助かります」
「助けてはいない。邪魔をしないだけだ」
「それでも、誰かを救います」
ガレンは眉をひそめ、すぐにほどいた。彼は自分の定位置へ下がり、輪の外側から広場を見張る。その背中は、断罪の夜の背中ではなかった。祝祭の夜の背中だ。守る者の背中だ。
準備が整うまで、マリアは短く目を閉じた。自分の名を頭の中でゆっくりと発音する。マリア・ベル。幼い頃から呼ばれてきた音。聖女に選ばれてからは、少し違う響きで呼ばれることが増えた。称号が付き、礼が増え、音の端に硬さが乗った。名は形を変える。呼ぶ側の状況でも変わる。けれど、核は残る。ベル。鐘。彼女がこの世界で受け取った最初の役目。小さな鐘。誰かを呼ぶ、合図を送る、時間を区切る、鳴らす。
彼女は自分の名から、その一部を皿に渡す覚悟を固めていた。名を差し出せば、記録から自分が薄くなる。祭りの歌に名が出なくなる。歌の二番の、橋の欄干のところで、いつも自分の名前が出てくるのが少し誇らしかった。あの名が、別の言葉に置き換えられるかもしれない。寂しい。けれど、その寂しさを飲み込んで、彼女は台へ向き直った。
職人が木箱から皿を取り出した。薄い金属の円板。縁には古い文字が刻まれている。言葉ではなく、言葉の輪郭を模した線。中央は空白で、細い線が螺旋を描いて集まっている。皿が窪みに収まると、広場の空気が少し落ち着いた。名を載せる準備が済んだのだ、と誰もが直感で理解する。
ユウトとイリスが祭壇の手前に現れた。ユウトの包帯は新しい。白い外套はイリスの肩にかかっている。約束は“予告カット”から本編の画になった。彼は片腕をイリスの背に回し、段差を一段ずつ確かめながら上がった。無理に急がない。急げば、どこかで滑る。滑ったら、誰かが起こす。そういう歩き方を、二人はこの数日で体に入れた。
「準備は」
マリアが問うと、ユウトは短く頷いた。
「綱は他の勇者に引いてもらってる。鐘は鳴り続けてる。ここはここで、やる」
「ありがとう」
祭壇の中央、皿の前。ユウトはイリスの手を取り、指の形を整える。冷たい指先。けれど、触れたところから温度がじわりと移る。イリスは息を整え、皿の縁にそっと触れた。皿は音を立てない。だが、触れた場所から、古い線が薄く光る。ふるえるほど小さな光だ。怖がらせないための光だ。
「名を奪わない」
ユウトは囁くように言った。「君の“イリス”を世界語に翻訳して、意味を書き換える。滅びから継ぎ手へ」
「世界語に、翻訳」
「世界は勝手に難しくなるから、こっちから分かりやすくする。君の名前が、君を守るように」
イリスは小さく笑った。「それ、好き」
マリアは聖典を閉じ、深く息を吸って吐いた。そして、祭壇の隅に置かれた小さな石板に、自分の名を書いた。マリア・ベルの最後の部分、ベル。そこからベルの文字を柳の枝で擦り取り、皿の中央へ移す。文字は光を帯び、金属の上にやわらかく浸み、位置を探すようにうすく回ったあと、静かに定まった。ベル。鐘。鳴らすという名。鳴らすことに責任を持つ名。
サイは少し遅れて壇に上がり、言葉もなく自分の剣を鞘ごと皿の手前に置いた。音はしない。彼は刃を抜かない誓いの型を取り、両手を胸の前に合わせてから、すっと下ろした。
「勇者の名は剣に宿る。刃を抜かないという約束を、名の側に置く」
短く、それだけ言って、子どもがものを返すような自然さで一歩下がる。誰も彼を咎めない。誰も彼に拍手しない。ただ、彼の正しさの角度を、全員が一度だけ目で確認した。
儀式は、歌で始まる。最初の一声はぎこちない。いつもなら断罪のコーラスが広場を満たすところだが、今日は違う。歌い手の合図で、歌は別の旋律へ滑りだした。断罪の歌詞の代わりに、名を呼ぶ言葉。命名の合唱。呼んで、手渡して、受け取る。呼び間違いを直す。二度目に呼ぶ時は、少しだけ違う呼び方をする。呼び方は、関係の数だけあるのだと思い出す。
空が白く震えた。雲が薄く剥がれ、星の輪郭が増える。広場の人々の息が、不意に揃う瞬間があった。吸う、吐く、その間の小さな留め。それが合図になる。ユウトは掌を皿に重ね、短い言葉を紡いだ。
「世界の疲れを一人に押しつけない。鐘は皆で鳴らし、勇者は手を添える」
声は高くない。だが、皿の金属が、それを拾って広場に返した。耳ではなく、胸で聞く音。言葉の形をした音。
イリスは皿の縁に手を置いたまま、目を閉じた。彼女の中に流れ込む痛みは、さっきより粒が小さい。誰かが半分持ってくれているからだ。名前が役目を決める世界で、役目のほうから名を更新していく試み。壁画の女王は補綴だった。今のイリスも、補綴だ。継ぎ手という語は、補綴の姿勢を正面から呼ぶための言葉だ。
そのときだった。賛同と疑念と期待と不安が渦を巻き、歌が新しい調子をつかみかけた瞬間、空気の下層からざらついた圧が上がってきた。逆流する水の音に似ている。だが、乾いている。目に見えない筋が鞭のように撓み、壇の端に立つサイの胸の上で黒い紋になって浮かんだ。
正史だ、とルオが小さく言った。正しい歴史。別相の、神殿式の、書庫の束ね紐みたいに固くまとめられた筋書きが、ここに反発を送ってくる。今夜の儀が成功すれば、帳面の綴じ方が変わる。ひとつの糸が別の糸に繋ぎ替えられる。その切り替えに、どこかの正しさが抵抗している。
黒い紋が胸元から鎖骨へ広がり、サイの輪郭が薄くなった。彼は自分の手の甲を見つめ、少し遅れて状況を言語化した。
「俺は……ここにいられないらしい」
声は笑っていないのに、笑っているように聞こえる。諦めではない。確認の声だ。自分に向けた、最後の職務報告。
ユウトは咄嗟に片腕で彼の肩を掴んだ。包帯の手ではなく、残っている力のほうの手で。体温はある。けれど、芯は薄い。氷じゃない。霧の中心に触れている感触だ。
「お前の正しさはここに残る。姿が消えても“型”は残る。俺たちが見る。俺たちが使う」
「型、か」
サイは薄く笑った。ほんの少し、目じりが動いた。「なら、せめて最後の一撃は――お前が」
「うん。任せろ」
サイは息を吸い、吐いた。黒い紋は寂しそうに見えない。彼自身の形だ。彼は踵を半分だけ浮かせ、まるで立礼の途中で時間が切り替わったみたいな姿勢のまま、輪郭を薄くし、色を減らし、音を落としていく。最後に残ったのは、剣だけだった。鞘に入ったままの、彼の名。彼の正しさの角度。
広場の視線が、一瞬だけ剣に集まる。誰も触れない。触れていい順番が、明確にそこにある。ユウトは祭壇から半歩下がり、片腕で剣を抱え上げた。重さは変わらない。けれど、持ち方は変わる。斬るための重さではない。置くための重さだ。
マリアが皿の端に手を置いたまま、声を低くした。「正史が戻そうとしたのは、順序です。順序が変わることを、筋書きは一番嫌います。だから、こちらの順序をはっきり示す必要がある」
「順序」
ユウトは剣を見、イリスの手を見、皿を見、広場を見渡した。歌が静かに続いている。誰も黙らない。黙ると、戻される。黙らない。歌う。呼ぶ。返す。
「順序はこうだ。まず、名を置く。次に、鐘を鳴らす。最後に、継ぎ手の名を呼ぶ」
ユウトは剣を鞘ごと皿の前に置いた。刃を抜かない。抜かない誓いが、名の側にあるという事実が、皿の線を少し明るくした。ベルの文字が、その明るさに重なって揺れる。彼は掌を皿に重ね、改めて言った。
「“イリス”の名を奪わない。“滅びの女王”の呼び名から、継ぎ手の女王へ翻訳する。翻訳は奪うことじゃない。橋を架けることだ」
イリスが目を開いた。泣いていない。泣かないと決めているのではなく、泣く暇がない。泣くことも仕事だが、今は別の仕事がある。彼女は皿の縁をなぞり、声を出した。
「イリス。ひとつの文字は、白い百合の名でもあるけれど、ここの古い言葉では“継ぐ手”の形にも似ているらしい。誰かが落としたものを拾って、次に渡す手の形。私の名は、私が守る。私の名は、私だけのものじゃない。みんなの呼び方で、少しずつ増えていく」
皿の中心で、薄い光が花のように開いて、すぐに線に戻った。ベルの文字がその上に重なり、二つの語が喧嘩をせずに隣り合う。名は混ざらない。混ざらないけれど、寄り添う。寄り添っている間に、第三の呼び方が生まれる。
歌が高くなり、子どもの声が混じった。泣き止んだ子が、今度は歌う番になったのだ。粉砂糖の袋を口で縛っていた屋台の主人が、鈴を一度だけ鳴らす。広場の端から端へ、鈴の音が薄く走る。鐘の下準備みたいな音だ。鐘守の老人が、それを合図に小さくうなずく。
ユウトは右手の包帯を握り直し、左手で綱の残りを引く動作を真似た。癖は出ない。半歩滑る足は、今夜は滑らない。滑らないということが大事ではなく、滑りそうなときに肩を貸してくれる人が横にいるという事実が大事なのだ。イリスが半歩、彼より先に指を皿から離した。ユウトがそれに続く。空気が一度だけ、深く吸い込むみたいに沈む。
名が置かれた。名は奪われなかった。翻訳は橋を架けた。橋を渡るのは、明日の朝からだ。今夜は橋の上に灯を置く。灯の形は、太い柱ではなく、小さな灯籠の列だ。列は曲がる。曲がるから、遠くまで続く。
ガレンが輪の外側から叫ぶでもなく、しかしはっきりとした声で言った。「人は、明日も食べなければいけない。名を置いたなら、明日の朝に読む紙を残せ。鐘の鳴らし方を、子どもでもわかるように書け」
マリアは頷いた。「書きます」
「書くなら、台所の言葉で書け。神殿の言葉は、鍋の前で読むと湯気で消える」
「分かりました」
ユウトは笑い、イリスも笑った。笑いは長く続かない。すぐに歌に戻る。歌は仕事だ。仕事は歌だ。足元の雪はもう冷たくない。冷たいのは風のほうで、それは背中を押すために吹いている。
儀式は高まり、やがて静かになった。最後の声の余韻が、皿の上で小さな波になって消える。広場のどこかで、誰かが息を止めていたのを思い出して、まとめて吐く。吐く音が、薄い笑いに変わる。子どもの手が親の袖を引く。親がうなずく。屋台の主人が鍋の蓋を少しだけ開ける。湯気が白い。粉砂糖の袋がひとつ破れて、小さな雪が袋の外に降った。
サイの剣は、まだ皿の前にある。名の側に置かれた、刃を抜かない誓い。ユウトはそれを改めて両手で持ち、鞘の上から額を軽く当てた。祈りではない。ありがとうと言う代わりの動作だ。彼は剣を祭壇の台座の陰に移した。そこなら誰かがうっかり蹴飛ばすこともないし、目に入る。目に入れば、思い出す。思い出せば、型は残る。
マリアは聖典の最後の頁を開き、空白の上の余白に小さく書いた。「本日の儀は、祝祭の中央に“名”を置くことから始め、鳴らし、呼び、翻訳し、置いた。女王の名は奪われず、世界の名付けは更新された。四は人が選べ、五は神が打つ。だが、四をどう選ぶかで、五の響きは変わる」。書いた文字は、神殿の言葉ではない。台所で湯を沸かしながら読める言葉だ。ガレンが横から覗き込み、口の端でうなずいた。
風が少し強くなった。雲の切れ目から、薄い月が顔を出す。鐘楼は沈黙したまま、広場を見下ろしている。鳴らすべき鐘は、今は皿の上に集まっている。人の胸にも、手にも、屋台の鈴にも、騎士の盾にも、祈りの紐にも。広場が一つの楽器になって、今夜だけの曲を弾いたのだと思えば、寒さは重くない。
ユウトはイリスと肩を並べ、広場の端に立った。人々が少しずつ散っていく。足音は軽く、しかし急がない。ここで走らなければならない理由は、今はない。明日になれば、またいくつも出てくるだろう。出てきたときに走る。今は歩く。
「名、置けたね」
「うん」
「泣かないんだ?」
「泣かないよ。泣くのは……」
「ずるいから?」
「ずるいから」
二人は笑った。笑って、すぐに笑いをやめた。笑いは使いすぎると薄くなる。薄くならないうちに引き出しに戻す。引き出しは、明日の朝また開ければいい。
広場の隅で、鐘守の老人が掌を皿の方向にかざし、短く何かを唱えた。古い言葉だが、意味は分かる。「見張る」。彼は見張る。名がずれないように、皿が冷えすぎないように、歌の調子が下がりすぎないように。そういう見張り方が、この国には似合っている。
ガレンが最後の巡回を終え、祭壇の前で足を止めた。剣はすでに鞘に収まっている。彼は誰にも聞こえない声で言った。「秩序は、こういうふうにも保てるのかもしれん」。自分で驚いている声だった。驚きを無理に隠さないのが、彼の良いところだ。
マリアは人の流れが落ち着くのを待ち、聖典を抱え直した。彼女の名は、今夜から少し薄くなる。歌の二番で、自分の名前のところに別の語が挟まる。寂しい。けれど、その寂しさは、誰かが覚えてくれていることで温度を保つ。台所の言葉で書けば、台所の人が覚える。覚える人がいれば、名は消えない。薄くなるだけだ。薄くなった場所には、他の文字が重ねられる。
夜は深くなり、風はさらに浅くなった。明日の朝、五打目の鐘が打たれる。神の担当だ。けれど、今夜置いた名が、明日の音の色に混じる。混ざることを、誰も止められない。正史が反発しても、型は残る。残った型は、人が使う。
ユウトは包帯の上から空を握った。サイの剣が、祭壇の陰で静かに眠っている。あの刃は抜かれない。抜かれないまま、名の側にある。抜かないという選択が、誰かを救う夜がある。斬る夜も、きっとある。だが今夜は違う。
「行こう、イリス」
「うん。明日の朝までに、書けるだけ書こう」
「俺は鳴らせるだけ鳴らす。手は鳴らすための手だから」
「私も受ける。受ける手は、継ぐ手だから」
二人は広場をあとにした。背中に歌の余韻を背負い、前に冷たい夜気を受け、足元に薄い雪を踏む。鈴がどこかで一度鳴った。屋台の片付けの音だろう。粉砂糖の袋の口を結ぶ音かもしれない。どちらでもいい。どちらでも、明日の朝に続く。
王都の中央に置かれた“名”は、風に吹かれ、月に照らされ、眠っているようで眠っていない。見張る目があり、歌う口があり、書く手があり、鳴らす腕がある。未完成のままの“名”が、未完成のまま世界に馴染んでいく。その途中を、彼らは歩いている。歩けている。歩き方を、やっと見つけたのだ。




