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滅びの女王を守るのは勇者でした ──悪と呼ばれた少女のため、少年は神を裏切る。  作者: 妙原奇天


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第6話 白の奔流と失われる手

 最初のきしみは、塔の影で起きた。地面の白が薄紙のようにめくれ、黒い筋が石畳を走る。細い線はまっすぐ伸び、交差点で分岐し、さらに細い裂け目を生む。冬の街路は、その上を覆っていた雪を一気に吸い込まれ、鳴き声のない悲鳴のように沈んだ。


「下がれ! 走らず、下がれ!」

 ガレンの声が広場の端で響いた。騎士たちが盾を水平に構え、人垣を安全な方角へ押し戻していく。吠える号令ではない。避難のための声だ。剣は鞘に入ったまま、手は人に向かって伸びる。泣いている子の肩を抱き、転んだ老人を起こし、荷車の綱を担いで押す。現実主義者の手は、状況に合わせて形を変える。


 裂け目は、街路を選ぶように川へ向かった。冬の川は薄氷で覆われている。黒い筋が氷に触れた瞬間、白が爆ぜた。泡が噴き、冷たい水が、熱のような勢いで空気に噛みつく。押しやられてきたものが、千年ぶりに呼吸を取り戻すみたいに。


「来る」

 イリスが短く言う。声に震えはあるのに、足は前を向いている。白い外套の前をつかみ、彼女は川岸へ駆けた。広場の鐘綱を離れることに、ユウトは一瞬の迷いも持たなかった。綱は別の手が引ける。今はここだ。イリスの力だけでは、受け止めきれない。


 冬の川は速い。氷の破片が回転し、岸に当たって割れ、また流される。水面には白い泡、その下には、薄い乳色の濁り。断罪のあとに雪を清くした“疲れ”が泡立って、逆流してきている。人々が次々と膝をついた。視線が揃う。顔が青い。目は開いているのに、目の前を見ていない。


「夢を見てる」

 イリスがつぶやく。「古い罪の夢。何度も女王を斬って、忘れて、それでも胸の底に残った影だけが、いま、ほどけて上がってきた」

 彼女の肩に、見えない重さがのしかかる。守りの膜を広げても、押し寄せる量が桁違いだ。受け皿の縁が鳴る。ユウトは迷わず外套を脱ぎ捨て、剣帯を握り直した。


「ユウト、待って、危ない」

「待ってる時間のほうが危ない」


 ユウトは岸から三歩ほど助走をつけ、氷の端を蹴って川へ飛び込んだ。冷たさが皮膚に刺さる前に、肺が縮む。水が耳を塞ぎ、視界は白い泡で満ちた。上も下もない。けれど、流れの向きは分かる。押し返す方向に胴をひねり、〈リコール〉の重みを肩に感じながら潜る。


 底は浅くない。けれど、川は冬でも生きている。石の組み方に、昔の人の手癖がある。合流の角度を変えるために打ち込まれた鉄金具、石の継ぎ目に差し込まれた楔。そのずっと下に、丸い金属の輪が見えた。輪の内側に、歯のような突起が六つ。輪の中央を、太い鎖が貫いている。


「封鍵」

 口には出さない。声は水に敗ける。だが、認識の言葉は脳内で形になる。封じる鍵。流れを別のところへ逃がすための古い装置。沈鐘と対になる仕掛けだ。今まで“押し込め”を続けるために使われてきた鍵。これを切って、流れを“渡す”導管を開く。


 ユウトは〈リコール〉を鞘から引き、息を思い切り吐いた。肺の空気を空にすると、身体はさらに沈む。刃が水の抵抗でぶれる。両手で柄を握り、輪の脇の鎖を斜めに狙う。真横からでは歯が邪魔をする。斜めに、歯と歯の間に刃先を滑らせる――


 金属が水の中で叫ぶような震えを返した。切れたのは鎖の手前の、古い固定具だ。鍵全体が少し浮いた。だが、歯がひっかかる。輪が踊る。跳ねた。瞬間、刃が弾かれ、ユウトの利き手の親指と人差し指の間を裂いた。冷たさの中で、熱い線が走る。赤が白に混ざって、すぐに薄くなる。痛みは遅れて、骨の奥へ入ってきた。


 息がもたない。浮上しようとしたとき、もう片方の手が鍵の縁を掴んでいた。握る指の感覚が甘い。皮膚の内側が砂になって崩れるような、頼りない力。ユウトは奥歯を噛み、脚で底を蹴った。鍵の角度がさらにわずかに変わる。水の流れがふっと柔らかくなった。導かれた白が、別の筋を選ぶ。女王の方角へ。


 水面が割れた。冷たい空気が肺に刺さる。イリスが岸に身を乗り出していた。手が震えている。彼女はユウトの手首を取ると、ためらいなく両手で包んだ。血が薄い桃色の帯になって、水の上にほどける。


「ごめん、ごめん……!」

「なんで君が謝る」

「わたしが、受け止めるのが遅くて」

「泣くのはずるい」

 ユウトは笑った。歯の根は合っていないのに、笑えた。イリスの目尻に溜まった涙が、頬に落ちる前に白い蒸気になって消える。彼女が泣くと、流れはさらに彼女へ集まってくる。美談じゃない。そういう設計なのだ。世界の“疲れ”は、涙の温度に引かれる。


 岸では、ガレンが避難の列を整えていた。倒れ込む者の脇腹に手を差し入れ、重心を戻し、膝を立たせ、立たせたら次の者へ渡す。泣いている子は抱える、ではなく、手を引く。抱えると親がついて来られない。手を引けば、親の速度で全員が進める。彼は振り向きざま、氷に足を取られた男の肩に盾を当てて支え、同時に別の方向へ指示を飛ばした。


「低いところに留まるな。上へ。橋は渡るな。橋下が裂けている。鐘楼の陰へ集まれ!」


 マリアは祈りの紐を結び直しながら、サイと並んで裂け目の縫合を続けていた。サイの呼吸は乱れている。額に薄い汗。手首のスナップは落ちていないが、剣筋がわずかに重くなる。一本、二本。見えない糸が大地のほころびに渡される。縫い目は直線ではない。地層の機嫌に合わせて、少しずつ、曲げて、重ねて、戻す。


「俺は“正しさ”にしか寄りかかれない」

 サイがぽつりと言った。誰に向けたともなく、しかしマリアには届く声で。

「だが今は、お前がいないと、斬る位置が見えない」


 マリアは目を伏せ、息を整え、目を開けた。サイの剣をガイドするように、両手で空気の線を示す。彼の正しさは真っすぐだ。真っすぐだから、見えない曲がり角に弱い。見えない曲がり角には、別の目が要る。祈りは剣の角度を決めないが、角度に迷いが出た時、その迷いが「いま人間だ」と教えてくれる。


 川の白は、少しずつ落ち着いてきた。鍵のひとつが外れて、導管が開いたのだ。ユウトは片腕でイリスの肩に掴まりながら、もう片方の手で岸の縁を探った。指が滑る。握力が落ちている。皮膚と筋の間にへんな空洞ができて、そこへ力が漏れていく。イリスが体を屈め、足場になった。ユウトは彼女の背に片肘をかけ、重さを分け合う形で岸へ上がった。


「動ける?」

「動ける。たぶん」

 言いつつ、指は震えていた。〈リコール〉の重みが腕にかかる。鞘へ十分に収まりきらない感覚。唇を噛む。痛みは、そこにある。そこにあることは、別に悪いことじゃない。問題は、次に何を持つかだ。


 イリスがユウトの手を膝の上に載せ、慎重に包帯を巻き直した。布が赤く染みる。彼女は顔を近づけ、そっと包帯に口づけた。儀式でも誓いでもなく、ただの動作として。ユウトは目を瞬かせた。イリスは目をそらさずに言った。


「あなたの手は、鳴らすための手」

 心臓が一度だけ強く脈打つ。「斬るための手」ではない、という補足は、言葉にならなかった。言葉にしなくても、伝わった。


 広場のざわめきは、夕刻とともに小さくなっていった。裂け目は縮み、川の白は透明に近づき、人々の膝がゆっくりと伸びる。立ち上がった顔が見合わせ、隣の人の肩を軽く叩く。「大丈夫か」「大丈夫だ」と、返す声はまだ震えている。屋台の主が火を落とし、鍋の蓋を開けて湯気を逃がす。湯気に混じって、小声が広がる。


「断罪の代わりに、鐘を鳴らしたらしい」

「ほんとに女王は人を呪ってないのか」

「鐘の音で、さっきの夢が薄れた」


 ユウトは広場の端に腰を下ろし、包帯を握り直した。片手を失ったわけじゃない。指はある。曲がる。だが、握力が戻らない。柄を握ると、どこかで力が漏れる。手は武器だ。ずっとそう教わってきた。けれど、役割は一つじゃない。武器としての手が減衰しても、別の手に変わるなら、終わりではない。


「イリス」

「うん」

「俺、多分、もう前みたいに斬れない」

「うん」

「でも、鳴らせるなら、それでいい」

「うん」


 彼女はそれ以上、慰めの言葉を探さなかった。彼の嘘が混じらない肯定に、別の言葉は要らない。夕焼けは薄く、雪面だけがほんのり色を持つ。音のない夕刻。騎士たちの甲冑が、遠くでカチリと鳴る。ガレンが最後の指示を出し、遅れてきた人に水を渡している。


 やがて夜が降りた。四人は鐘楼の裏にある小さな部屋に集まった。石壁は厚く、外の風の音を半分だけ通す。机が一つ。椅子が四つ。ランプが二つ。地図と、古い紙が束ねられている。


「五打目を、どう変えるか」

 マリアが切り出した。手袋はしていない。指は赤いが、紙をめくる動きに迷いはない。サイは背筋を伸ばして座り、剣を椅子の背に立てかけた。ユウトは包帯を締め直し、イリスは彼の隣に座って湯を握っている。


 扉がノックされ、細い影が滑り込んだ。ルオだった。息は上がっていない。階段を上がってきたはずなのに、老人の呼吸はずっと前からここにいたように落ち着いている。彼は机の上に一枚の紙を置いた。羊皮紙に、薄い墨で文字が書いてある。字は揺れているが、意味は揺れていない。


「古文の断片だ。礼拝堂の壁の裏から出てきた」

 ルオは紙の端を指で押さえ、そこに刻まれた行をなぞった。

「最後の鐘は“名”を鳴らす」


 部屋の空気がわずかに動いた。言葉が重いのではない。言葉が軽いのに、落とす場所が見つかった感覚。マリアが眉を寄せた。「“名”」

「名は役目であり、役目は名に従う。この世界の古い決まりだ。女王の“名”を奪い、世界の“名”を保つ。それが従来の五打目。だから、彼女は滅びの女王と呼ばれ続けた。名が役目を固定し、固定された役目が名を強める循環だ」

 ルオの声は淡々としている。語り手が自分の感情を紙に落とさないように、丁寧に読んでいる。


「逆は、可能か」

 サイが短く問う。彼の問いはいつも刃物のようだ。実用に耐える重さと直線。


「可能だ。世界の“名付け”を更新すれば、女王は“滅び”から“継ぎ手”へと転じる。補綴の女王、継ぎ手の女王。名が役目を決めるなら、名を変えることで、五打目の音色を変えられる」

 ルオはもう一度紙を指で叩いた。「ここに、そうある。“名を取りあげることは、名を渡すことに等し。渡すを誤れば、破滅は名を得て歩く”。名は空白にならない。誰かに渡る。だから、女王から“滅び”を剥がすなら、世界に別の“名付け”を渡さねばならぬ」


 マリアは深く息を吸った。彼女の眼差しは、紙の文字ではなく、広場に立つ人々を見ている。名を更新するには、紙と祭壇と鐘だけでは足りない。世界の側の同意が要る。聖都の同意、という言い方は硬い。要るのは、顔の同意だ。顔票ではなく、顔の表情。


「どうやって、聖都の同意を取る」

 ユウトの声は低い。包帯の下で、手が疼く。疼きは焦りに換えない。疼くものは疼かせておく。痛みを道具にしない。道具にするのは別のものだ。


「手順は三つ」

 ルオが指を立てた。「ひとつ、鐘を鳴らし続けること。四までの運び方で、五の音色は変わる。ふたつ、“名”を記す新しい文を民の文書に埋め込むこと。神殿の書だけでは足りん。市井の帳面、行商の札、屋台の看板。女王の名の横に“継ぎ手”の文字を混ぜる。みっつ、儀の最終に“名を問う”場を設けること。問うだけだ。決めるのは神だが、問うのは人だ。問うこと自体が、名付けの一歩だ」


「時間がない」

 サイが言った。まっすぐで、正しい。「明朝、五打目の儀が下る。お前たちの鐘は今日のぶんで精一杯だった。明朝までに、どれだけ詰められる」


「やるしかない」

 ユウトは包帯の上から拳を握ってみせる。力は抜ける。握れていない。それでも、見せる形はいる。イリスが湯を差し出した。湯気が鼻に入り、冷えた脳に温かさがさす。


「鐘は鳴らす。鳴らせるぶん、鳴らす。紙は、私が書く」

 マリアが言った。机の上の帳面を集め、白紙の束を引き寄せる。「聖典に書くぶんは私の仕事。市井の文は、今夜のあいだに書けるだけ書く。屋台の主たちのところへ行って、看板の端に“継ぎ手”の印を入れてもらう。小さくていい。小さい文字は、強い」


「俺は……」

 サイが一拍置く。「裂け目を見回る。縫うべきところが残っていないか。五打目のために街の皮膚を整える。斬る位置が見えるように」

「ありがとう」

 マリアの礼は短い。サイはうなずきもしない。ただ、立ち上がって剣を背に取った。無駄がない。椅子は静かに戻され、扉は音を立てなかった。


 ルオがユウトの手元に視線を落とした。「痛むか」

「痛む」

「痛みを否定するな。否定すると、痛みは別の名で戻ってくる」

「わかった」


 イリスがユウトの肩に額を預けた。少しだけ。預けすぎない。重さは分け合うが、片方に寄せすぎない。二人は短く目を合わせ、うなずいた。言葉はいらない。これから必要なのは、動作の統一だ。歩幅、呼吸、視線。


「最後に」

 ルオが紙束からさらに一枚、薄い紙を取り出した。そこには幼い文字で、しかし懸命に書かれた文がある。誰の手かは明らかだった。マリアの字だ。今日の広場の順序、鳴らした回数、裂け目のこと、誓約のこと、そして小さく「四は人が選べ」とある。


「記す、は始まっている」

 ルオは笑った。「名付けは、もう動きだしておる」


 部屋に、外から鈴の音が届いた。ほんのかすかな音。屋台のどこかで、誰かが片づけを終えて、試しに一回だけ鳴らしてみたのだろう。粉砂糖の袋の口を縛りながら、明日の仕込みを考えている。鐘の音と似ていて、ちょっと違う。けれど、どちらも明日のための音だ。


 ユウトは立ち上がり、包帯の端を結び直した。握力は戻らない。けれど、綱は握れる。柄を握らずとも、綱は握れる。鳴らすための手。彼の手は、もう役目を選び始めている。


「行こう」

「うん」


 夜の街へ出ると、雪は細かく、風は浅い。鐘楼の影は長く、塔の上には薄い月が乗っている。四人はそれぞれの方向へ歩き出した。ユウトとイリスは塔の裏手の坂を下り、マリアは神殿の書庫へ、サイは裂け目の残滓を探しに。ルオは一人、部屋の灯を落とし、机に顔を近づけた。古文の断片の行間に、まだ読めない文字が浮かんだ気がしたが、今は追わない。名は焦ると逃げる。追うのは、明日の朝でいい。


 川は、もう白くない。表面に薄氷が戻り、流れは音を小さくした。封鍵の影は、半分だけ角度を変えたまま、底で眠っている。誰かが下りて、鎖の残りを外す必要がある。誰かが下りるだろう。未完成の街には、未完成の手が足りている。鳴らす手、縫う手、書く手、支える手。どの手も、今夜は冷たく、しかし使える。


 明朝、五打目が来る。神の打つ音は、人の四打に続く。続き方は、選び方で変わる。世界の名は、明日の朝、少しだけ別の発音になるかもしれない。もし変わらなくても、今日書かれた小さな文字は消えない。粉砂糖みたいに、どこかの端に残って、次の朝に甘さを思い出させる。


 ユウトは包帯の上から空を握った。握れないものを握る練習だ。風は笑わない。笑っているのは、自分だ。イリスが横で同じ高さの空気を握り、二人の手の虚空が、ほんの少しだけ重なった。鈴がまた一度、遠くで鳴った。鐘ではない。けれど、確かに音だった。

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