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滅びの女王を守るのは勇者でした ──悪と呼ばれた少女のため、少年は神を裏切る。  作者: 妙原奇天


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第5話 聖女の反逆と鏡像勇者の誓約

 断罪広場の雪は、わざと踏み荒らされたみたいに黒かった。人の靴が混ぜた泥と灰が、祭壇の白をくすませる。塔の鐘舌は固定され、神殿旗は風に張りついて揺れない。まだ五打目ではないのに、人は集まりきっていた。役人が叫ぶ。今日は前倒しだ、と。法にない早さが、寒さよりも先に肌を刺す。


 広場の端で、ユウトはフードを深くかぶった。肩にかかった白い外套は、自分のものだった。いまはイリスの肩にある。彼女の体温で少しだけ柔らかくなって、ひらりと揺れる。約束の“予告カット”みたいだ、とユウトは思う。あの夜、焚き火のそばで口にした未来の断片が、今日の画面に混ざっている。


「大丈夫?」

 イリスの声は小さい。唇が白く、目のふちが赤い。震えている。けれど、足は止まらない。自分で自分を進ませている歩幅だ。

「大丈夫。俺が鳴らす。君は受ける。マリアは順序を変える。三つそろえば、音になる」

「うん」


 壇上の階段に、白い影が一人あがる。聖女マリア。手袋はしていない。指先の赤みが遠目にも見えた。彼女は聖典を胸の高さまで持ち上げ、広場を見渡す。声は、最初から高くない。けれど、よく通る。


「聖都の民。五打目の儀は、本日、順序を改めます。本日の儀式は“沈鐘の先鳴らし”から始める」


 音のないざわめきが広場を転がった。人が互いの顔を見る。役人が慌てて紙をめくる。法にない、と青ざめた口が動く。壇の下で、ガレン聖騎士長が剣を半ばまで引き抜いた。鞘鳴りが冷たい金線を引く。サイは壇の影に立ち、命令を待つ姿勢で目を閉じている。瞼の裏にも迷いの線は一本もない。


「マリア!」

 ガレンの声は硬い。「それは法にない。秩序の外だ」

 マリアはうなずいた。「法にないからこそ、ここで宣言します。神託の行間は、人が読むためにあります」


 ユウトとイリスは人の躱間を割って進んだ。肩と肩の間の冷たさが、道を作る。野次は飛ばない。誰もが自分の立場を心の中で整えようと忙しい。祝祭の剥奪を恐れる目が、二人の横顔をすべる。存在しないものを見る目だ。それでもイリスは歩く。白い外套の襟を指でつまみ、呼吸の数を数えながら。


 壇上の端まで来ると、マリアがサイへ視線を移した。近くで見ると、彼女のまつげは霜で白むほど冷えているのに、目は温かい。


「サイ。あなたは勇者なら、誰のための勇者?」

「世界のため」

 間髪のない返答。風も雪も、刃の側に立つ声だ。マリアは頷く。

「世界は“この広場にいる一人ひとりの顔”でできている。わたしは、あなたの正しさを知ってる」

 彼女は歩み寄り、サイの剣に自分の手をそっと触れた。刃ではなく、鍔に。聖女の手が触れた瞬間、金属の冷たさに淡い息が立つ。

「お願い。たった一度でいい。あなたの正しさを、私に貸して。沈鐘を上げるまで、女王に刃を向けないで」


 サイは目を開けた。まっすぐにマリアを見る。短い沈黙。剣がわずかに動いた。彼は刃を垂直に返し、鍔を胸の前へまっすぐ掲げる。誓約の型だ。神殿式、最も簡潔で、最も重い。


「一時の保留だ。結果が出れば、俺は迷いなく斬る」

「ありがとう」


 ガレンが壇上へ一歩乗りかけ、足を止める。聖女が誓約を受け取った以上、わずかな余白が生じる。法の網目は細いが、ほどけないほど均一でもない。彼は剣を握り直し、鞘に戻さぬまま後退した。斬らない。だが、いつでも斬れる。


 ユウトは壇の中央で綱に歩み寄った。沈鐘の綱は、聖都の塔から地下へ通っている。礼拝堂で見た綱よりも新しいが、重さは同じだ。掌の包帯を外す。先ほどの傷がじん、と冷える。マリアが短くうなずいた。イリスが膝をつき、壇の石に手を置いた。守りの呼吸を、静かに広げる。


「始めます」

 ユウトは声に出して自分に合図をした。引く。繊維が皮膚に食い込む。肩が噛む。背が泣く。鐘が、上がる。沈められていた重さが、まとわりつく泥のように指に残る。歯を食いしばり、腹で受け、脚で押す。


 鳴った。


 低い。厚い。空気の埃が全部落ちて、透明になったみたいな音。広場の上の薄雲が、ほんのわずか薄くなる。人々の肩が、一瞬だけ同じ高さまで下がる。誰かのため息と誰かの咳が重なって、白い帯になって空へ上がる。


 イリスは膝の上で手を組み、深く息を吐いた。広場に溜まっていた“疲れ”が薄い糸になって彼女へ流れ込む。痛い。だが、さっき礼拝堂で学んだとおり、痛みは運び方で形を変える。刺す痛みは鈍い重みに、痺れは温度に、怒りは眠気に。単位が小さくなるたび、胸に入ってくる速度も落ちる。処理できる速さになる。


 マリアは聖典を抱えたまま、目を閉じた。頁が自動でめくれる。風ではない。鐘の余韻だ。文字と文字の間に、柱の影のようにひそんでいた線が現れ、やがて言葉になる。四は、人が選べ。彼女はそれを声に出さない。出すのは順序だけだ。


「もう一度」

 ユウトは自分に言い、綱を握り直した。掌の皮が裂ける。血がにじむ。冷気がじんと沁み、痛みを混ぜ物みたいに薄める。引く。鳴る。広場の空気がもう一度透明になる。人の額に刻まれていた皺が、少しだけ柔らかくほどける。子どもが泣くのをやめ、親の袖を握りしめる。屋台の主人が、火から鍋を少し離す。


「こんなやり方は長続きしない!」

 ガレンが叫んだ。声は怒りというより焦りだ。「勇者が死ねば、誰が鳴らす。法がなければ、誰が次の順番を決める」

 ユウトは笑った。息が白く散る。

「次の勇者が鳴らす。俺たちが“役目の意味”を残す。沈めるのが仕事じゃなくて、上げるのが仕事だって、今日の記録に書いておく。忘れられないように」


 群衆の中から、誰かが小さく「そうだ」と言った。続けて「本当にそうか」と別の誰かが返した。賛同も疑問も、同じだけの重さで広場を転がる。どちらにも鐘の余韻が触れ、角を丸める。


 三度目を鳴らした時だった。塔の根元、鐘楼の影から黒いものが滲んだ。地面の雪が吸い込まれる。影が裂け、空間がめくれる。穴ではない。線だ。線が空気を切り、どんどん口を開く。冷たい風が下から吹き上がる。千年分の“押し込め”が、裂け目の形で顔を出した。


「裂け目!」

 誰かが叫ぶ。人波が揺れ、子どもが転ぶ。母親が抱き起こす。役人が笛を吹き、音が風に唾みたいに飛んで消える。ガレンが剣を構え、騎士たちが円を作る。円は穴と同じ形を真似るが、足りない。穴の縁は、人の計算より速く広がる。


 サイが動いた。命令はない。だが、待つ理由もない。彼は一直線に裂け目へ走り、刃を水平に抜いた。音はしない。彼の剣は大きなものを斬らない。代わりに、見えない縫い目を拾っていく。裂け目の端と端、ほころびの根本。糸をかけるみたいに、剣先で空気をすくい、引き寄せ、重ねていく。


 縫われる。黒が薄くなる。縁の霜が白く増える。人の足音が戻る。息が戻る。騎士の盾が風を受け止められる重さに戻る。


 ユウトは四度目を鳴らした。鐘は苦しそうに、しかし確かに応えた。イリスが胸に手を押し当て、受け皿を広げる。痛みの単位が、さらに小さく砕ける。剣では斬れない種類の痛みだ。だが、受けられる。運べる。広場の“疲れ”が彼女へ流れ、彼女から地面へ、地面から塔へ、塔から鐘へ、鐘から空へ逆流する。循環が生まれる。


「サイ!」

 ユウトは叫んだ。サイは返事をしない。だが、彼の剣筋が一瞬だけユウトのほうへ向いた。視線が交わる。ユウトが握っている綱と、サイが縫っている裂け目の角度が一致する。二人の正しさが、同じ方向を向いた。


 黒い裂け目はなおも唸り、最後に大きく息を吐いてから萎んだ。雪がふわりと落ち、塔の影が元の形を取り戻す。人々の膝が緩み、同時に力が抜けて数人が座り込む。騎士の円が崩れ、また形を作り直す。ガレンは剣を降ろし、肩で息をした。斬っていないのに、斬った時の疲れだ。


 ユウトは綱から手を離せなかった。まだ鳴る。まだ鳴らさなければいけない。掌は裂け、包帯に新しい血が滲む。痛い。だが、イリスがそばにいる。マリアが正面にいる。サイが横にいる。ガレンが少し離れて、でも背を向けずにいる。広場にいる一人ひとりの顔が、雪明かりに浮かんでいる。世界の顔だ。世界のために、という言葉の輪郭が、ここでは具体的だ。


 五度目の前触れのように、空が少しだけ暗くなった。雲が動く。人の影が重なる。マリアが聖典を閉じた。声は静かで、遠くまで届く。


「四は、人が選べる。今、わたしたちは選んだ。沈めず、鳴らす。遅らせず、渡す。痛みを、ひとりの背中に押しつけない。女王に押しつけない。勇者ひとりに押しつけない。分ける。運ぶ。学ぶ。記す」


 ガレンが顔を上げた。「記す?」

「今日を、記録します。神殿の書庫にも、市井の文にも。女王の役目が“補綴”で、勇者の役目が“上げること”だと。そう書いておけば、次の冬に読む人がいる。次の勇者が、綱を見つけられる。法が追いつくまでの橋渡しに、紙を使う」

 マリアの言葉に、ルオの笑い声が混ざった気がした。ここにはいないはずの老人の声だ。たぶん鐘の余韻が、人の声を連れてきた。


 サイは剣を収め、ユウトのそばまで来た。距離は近いが、刃は出ていない。彼は綱の根元を一度見下ろし、ユウトの掌を見た。


「まだ鳴らすのか」

「鳴らす。たぶん、今日のぶんだけでも足りない」

「そうだな」

 サイは短く言い、壇の端に立って群衆を見た。彼の目に揺れはない。けれど、凪ぐ水面の下に流れができることがある。いまの彼はそうだった。命令がなくても、次にするべきことが見えている。


「誓約は、守る」

「助かる」

「結果が出たら、斬る」

「その時は、その時だ」


 ユウトは笑った。サイは笑わない。どちらでもいい。どちらも本物だ。鏡は割らなくていい。角度を合わせれば、同じものを映す。


 四度目の余韻が完全に消える前に、ユウトは五度目の綱を握った。五打目は神の担当だ。人が触れない領域。けれど、その前にできることはある。できるだけ鳴らして、できるだけ分けて、できるだけ記す。五打目の形は、前四打の運び方で変わる。そう信じられるくらいには、広場の空気が変わっていた。


 綱を引く。鳴る。空気が透ける。イリスが受ける。ガレンが見届ける。マリアが書く。サイが縫う。人々が立っている。祝祭の輪から外される恐怖で固まっていた膝が、少しだけ自由になる。屋台の甘いパンに粉砂糖を振る手が、ほんの少し戻る。鈴が、かすかに鳴る。


「長続きしない、と言ったな」

 ガレンがもう一度声を出した。先ほどより少しだけ柔らかい。「長続きするように、仕組みを作るのが、お前たちの次の仕事だ」

「やります」

 ユウトは短く返した。「でも今日の仕事は、まず鳴らすことだ」

「ならば、邪魔はしない」


 ガレンは剣を降ろし、広場を睨んでいた顔の角度をわずかに変えた。斬る角度ではなく、守る角度。騎士に合図を送り、円は今度は人垣を守る形に組み替わる。誰かが倒れれば起こし、寒ければ外套を貸す。法の役目は、こういう時に強い。


 ユウトが六度目を鳴らす頃、空は少しだけ明るくなっていた。雪はやまず、しかし軽い。風は冷たく、しかし薄い。広場の中心にいたはずの“断罪”は、少し端にずれて、そこに“運搬”の台が置かれる。重いものを運ぶための台車。押す人、引く人、支える人、声をかける人。役目が増え、分けられていく。


 マリアは聖典の最終頁をめくった。空白だ。そこに書く。震えないように、でも震えたまま。震えは生の証拠だから。彼女は書いた。今日の順序と、鳴らした回数と、裂け目と、その縫い目と、誓約と、笑いと、泣き声と。四は、人が選べる。選んだ。選び続ける、と。


 サイは最後にもう一度だけ裂け目の跡を斬り、剣を納めた。ユウトの横顔を見て、何も言わずに壇を降りる。命令はまだ降りていない。だが、彼の足取りはもう広場の外へ向いている。次の綱を探しに行く足取りだ。誰に言われずとも、やることができた。鏡の中に、わずかに新しい線が生まれている。


 ユウトは掌をもう見なかった。痛みが役割になり、役割が道具になって、道具が音になっている。イリスが受け続ける。彼女の肩の白い外套が風をはらみ、約束の形を作る。いつか、甘いパンの粉砂糖で白くなるはずの場所だ。今日は血で赤くなりかけて、それでも白い。


 鐘は鳴った。鳴り続けた。五打目の直前、雪が一瞬止み、空が深く吸い込むみたいに沈黙した。静けさの中で、広場にいた全員の心臓が、同じテンポでひとつ打った。誰かのために、ではなく、皆の中にいる自分のために。鳴り終えた余韻が、次の朝の仕事を示す地図になって、ゆっくりと胸に広がった。

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