第4話 古代の地下礼拝堂と“沈鐘”の歌
雪の下には、息づく音がある。耳を雪面に押しつけると、遠くの川みたいに低く鳴っている。ルオが先にそれを聞き分け、白樺の根本で杖を二度、三度と叩いた。樹皮の陰がわずかに沈み、雪が人の足幅ほど滑り落ちる。あらわになったのは、岩肌の継ぎ目に隠れた鉄輪と、そこへ通された古びた綱だった。
「ここだ。礼拝堂の息が、雪を膨らませる」
老人は綱を引き上げ、露出した石板に指の節を当てた。凍みて鈍いはずの石が、呼吸のようにかすかに上下する。ルオが合図をし、ユウトとイリスは左右に回りこむ。三人で息を合わせ、石板を持ち上げると、白い蒸気が頬を撫でた。地下の空気は乾いていて、冷たいのに痛くない。古い書物の匂いと、雪解けの匂いが混ざっている。
「気をつけろ。階段は氷で縁が隠れている」
ルオが先に降りる。灯を下げ、足の裏で段を確かめながらゆっくりと。ユウトはイリスを振り返る。「手を」
イリスはうなずき、ユウトの手を握った。手袋越しでも伝わる脈が速い。追補令、顔票、サイの剣。今日だけで、受け止めたものは多い。イリスはそれでも口角を上げた。「階段は、降りるときほど怖いね」
「登るのは、景色が見えるから。降りるのは、想像が先に落ちる」
「詩人みたいなことを言う」
「未完成だから、格好つけたい年頃なんだ」
階段は十数段で終わり、すぐに広間へつながった。天井は低いが、狭さはない。壁一面に、淡い色で描かれた壁画が広がっている。雪の光が地上から斜めに差し、絵の膚を静かに撫でた。色は褪せているのに、不思議と温度がある。
「……これが」
イリスの声がやわらかく溶けた。壁の中央。そこに描かれているのはティアラを戴いた女で、胸と腹を透明な管が貫いている。管の中は乳白で、壁画の下部に描かれたひび割れた大地へと流れ落ちている。女の足元で、土が閉じていく。ひびが寄り、割れ目がふさがる。
「白い樹液。土地のひびを塞ぐために、自分の中に流し込んでいる」
ルオが囁くように言った。指先が震え、絵の線をなぞる。「滅びではない。補綴。欠けたところを仮に満たし、次に生えるまでの時間を稼ぐ仕事だ」
「それで、眠るのね」
イリスは壁の女の横顔を見上げた。目元は優しく、頬骨が少しだけ強い。口元は固く結ばれている。見知らぬ誰か。千年前の、誰か。けれどそこに自分の輪郭を薄く見つけ、彼女は目を伏せた。
「見ろ、隣だ」
ルオが示した先には、もうひとり描かれていた。鎧をまとった人物。勇者だ。けれど、その手にあるのは剣ではなかった。太い綱だ。天井の外へ伸びるその綱を、勇者は両手で握って引いている。顔は見えない。俯いて、歯を食いしばっているのだけが分かる。
「勇者の役目は……“沈鐘を上げること”」
ユウトの喉が、ごくりと鳴った。知らされた名前と、絵の意味が手の中で噛み合う感覚。沈鐘。鳴らされると救いが遠くまで広がり、沈められると犠牲を局所に閉じ込める鐘。歴代の勇者は沈めてきた。延命のために。けれどこの絵は、上げている。沈めるのではなく、上げる。重さがどれほどあるか、壁の中の勇者の肩が教えている。
床の奥から、低い歌が這い上がってきた。音とも言えないほどの振動。耳より先に骨が拾う、腹の裏側に触れる響き。イリスの視線が祭壇へ吸い寄せられる。祭壇といっても、氷の板を重ねただけの簡素な台だ。その下に、薄く透ける影。丸い、鈍い輪郭。
「沈鐘の……残響だ」
ルオが灯を持ち上げる。氷の層の下で、黒い鐘が眠っている。表面に刻まれた文字は半分以上すり減り、残っている線は、古い海の波の跡みたいに滑らかだった。鐘の舌は失われ、代わりに太い綱が一本、氷の狭間から引き出されている。綱は天井の穴へ通っていて、地上のどこかへ続いているようだ。
「上げるなら、今だ。五打目の前に一度だけ鳴らせ。地上の鐘楼が共鳴すれば、誰かの耳が目を覚ます」
ルオは灯を置き、綱に近づいた。「だが、覚悟しろ。上げるのは、斬るより骨が折れる。斬るのは一瞬だが、引くのは時間がかかる。腕も、肺も、心も、全部が絡む」
ユウトは頷いた。〈リコール〉を鞘に納め、手袋を外した。冷気が皮膚を刺し、爪の裏まで凍る感覚が走る。綱に手をかけた瞬間、掌がざらざらを飲み込んだ。繊維は硬く乾き、ところどころが痛い棘のように跳ね返る。
「待って」
イリスがそっとユウトの手を包んだ。彼女の手は冷たいはずなのに、触れられたところから、ゆっくりと血が戻ってくる。冷えた指の節がほどけ、握りの形が自然になる。
「私の役目は痛みを受けること。あなたは、“痛みの運び方”を選んで」
声は小さい。けれど、天井の氷に反響して、ユウトの耳に二度届く。彼は目を閉じ、息を吸って吐いた。
「上げる」
短く言った。ルオがうなずき、綱の反対側に回って重さを受ける姿勢を取る。イリスは祭壇の脇に膝をつき、掌を氷に当てた。冷たさが氷の下の鐘に届き、溝を澄ませる。音の道を掃除する。
ユウトは腰を落とし、腹で重さを受けた。引く。繊維が掌を焼く。肩が抜けそうになる。背骨の一本一本が音になり、綱へ伝わる。氷の下の鐘が、わずかに浮いた。沈められていた年月が抵抗する。雪原全体の重みが、綱の一本に集中する。
「はっ……!」
歯を食いしばる。息が白く漏れ、頬に再び冷たさが戻る。綱がさらに指の皮を持っていく。痛い。けれど、痛さの質が変わってくる。自分の皮膚の痛みが、どこか遠い場所の痺れと混ざる。誰かの底冷え、誰かのひび割れた手のひら、誰かの空の食器。イリスの手が氷越しに震え、彼女の中に流れ込む痛みが増えていくのが見えた。
「もう少し」
ルオの声が低い。老人の背は曲がっているのに、綱を引く腕は真っ直ぐだ。生きてきた年輪が、今この瞬間だけ一本の線に集まっている。ユウトは脚で踏ん張り、最後の一息を吐き切った。
鐘が、鳴った。
音は低く、厚い。金属が鳴る音というより、雪が凍り、氷が割れ、また繋がる音。広間の空気が一度だけ膨らみ、胸の中の空洞がやさしく圧された。天井の氷が青く光り、地上のどこか遠くの鐘楼が、ほんのわずか遅れて共鳴した。聖都の鐘だ。儀礼の合図ではない。眠っていた何かが、呼ばれて返事をしただけの一打。
マリアは祈りの間で、膝に置いた紙片の震えでそれを知った。音は聞こえない。石の壁が拾った微かな振動が、紙へ、指へ、心へ伝わる。彼女は目を開けず、紙の繊維のざらつきの間に文字を探した。神託はいつも文にならない。行間が先にきらめく。
五打のうち、四は人が選べ。
その言葉が、彼女の内側で輪郭を得た。破滅の代行。最後の一打だけは、神が打つ。他の四つは、人が運用できる。沈めるのか、鳴らすのか。遅らせるのか、渡すのか。儀式書の固い文ではなく、かつての書き手が残した余白の矢印が、彼女の視界に走る。マリアは唇を噛み、手のひらに小さく文字を書いた。誰にも見えないように、誰にも奪われないように。四は、人が選べ。
地下では、鐘の余韻が細くほどけ、綱が少し軽くなっていた。ユウトはゆっくりと手を離した。掌は赤く、皮が薄くめくれている。イリスが掌を包み、傷に息を吹きかける。冷たさが痛みをまろくする。〈リコール〉は鞘の中で黙っていた。巻き戻しの囁きはない。今は、選び直すより運び方を選ぶ局面だ。
そのとき、階段の上の気配が変わった。冷たい空気が、さらに硬くなる。雪の匂いに鉄の匂いが混じる。ルオが灯を半分だけ落とし、柱の影に身をずらした。
「――そこまでだ」
階段口に立つ影。白銀の鎧が地下の薄明りを拾い、鈍く光った。ガレン聖騎士長だった。背後には二人の騎士。剣は抜かれている。だが、先端は僅かに下がっていた。威嚇ではなく、制止の角度。
「やはり、ここへ来たか」
ガレンの声は前夜より低い。怒気より、疲労が混じる。聖都の鐘楼が一度鳴ったことを、彼も知っているのだろう。彼は階段を二段降り、足を留めた。礼拝堂と呼ぶには簡素すぎる空間をぐるりと見渡し、壁画に目を止める。
ひとつ、ふたつ。瞬きの間が、わずかに長くなった。
「……古い絵だ」
「古いけど、嘘がない」
ユウトは立ち上がり、イリスの前に立つ。〈リコール〉には触れない。ここで剣を抜けば、話の余地が消える。ガレンは眉をわずかに寄せた。
「お前は、自分のやっていることの重さを、分かっているのか」
「分かってるつもりです」
「女王を斬るたびに、飢饉は一度おさまる。人は冬を越す。残酷でも選択は必要だ。斬らなければ、五打目の前に器が破れ、痛みは拡散する。わたしはそれを何度も見てきた。延命が悪だとしても、延命のおかげで生きた子どもがいる」
ガレンは一歩だけ近づき、祭壇と壁画を横目に収めた。騎士としての視線は、敵ではなく情報を測っている。礼拝堂の構造、逃げ道、天井の強度、足下の氷の厚み。
「だから、法はある。法は人を守るためにある。法は法だ」
「知ってる」
ユウトは頷いた。「でも、法はいつも“選ばなかったほう”の痛みを、どこかへ寄せる。女王が受けてきた痛みは、法の計算に入ってるのか」
ガレンの目がわずかに揺れ、すぐに凪いだ。彼は言葉を選ぶ。答えを持っていないのではない。答えが多すぎるのだ。正しい答えはひとつではない。正しさは、季節と同じくらい流れる。
「……お前はまだ若い。若さは、全体よりも、目の前の一人の呼吸のほうが重く聞こえる。わたしも昔はそうだった。だから、お前が女王を庇う理由も、否定はしない」
「否定しないのに、剣は抜いてる」
「法は法だ」
繰り返した。自分に言い聞かせるように。ユウトはそれ以上、論を重ねなかった。壁画を指し示す。「見てくれ、ガレン。勇者は、剣じゃなくて綱を握ってる。沈められてきた鐘を、上げてる。勇者の仕事が斬ることじゃなく、“選ばなかった痛み”を自分が引き受けて鳴らすことだとしたら、どうする」
ガレンは口を開き、閉じた。鎧の継ぎ目がきしむ音だけが響く。彼は背後の騎士に視線を流し、短く手を上げて制止の合図をした。斬らない。今は、斬らない。だが、剣は収めない。
「……お前の言うことは、まっすぐだ。だが、まっすぐな道は、冬の間は凍る。凍った道は、よく滑る」
「滑っても、歩く。転んだら、起こしてくれ」
「法は、起こし方を決めるものでもある」
ガレンは踵を返し、階段の上を振り返った。「退け。ここは礼拝の地だ。血を落とすな」
騎士たちが剣を引き、狭い階段を静かに上がっていく。ガレンは最後にもう一度だけ壁画を見た。女王の横顔、勇者の背中。すぐに視線を外し、上へ消えた。
静寂が戻る。氷がわずかに鳴る。遠い地上で、何かが小さく弾ける音がした。ルオが眉をひそめた。
「今のは……火符だな」
「火符?」
「暗号の火。空に一瞬だけ形を描く。騎士同士の合図だ。外で誰かが受け取った」
地上では、薄い雲の向こうに赤い線が一瞬だけ走って消えた。受け取ったのは、黒い外套の影。サイだった。彼は火の残り香を指先で挟むようにして嗅ぎ、無表情のまま瞼を閉じた。火は短い言葉を運ぶ。
明朝、五打目の儀。
サイは目を開け、雪の斜面をひとつ滑った。足音はやはり等間隔だ。彼にとって朝も夜も同じ速さで来る。
聖都の祈りの室で、マリアは窓の外を見ないまま、赤の気配を感じ取っていた。火符の線は、祈りの位置にいる者の皮膚に微かな熱を置いていく。彼女は両手を重ね、膝の上の紙片に指を置く。そこには、さっき書いた小さな文字がある。四は、人が選べ。
彼女は目を閉じ、深く息を吸った。聖女の座は、高い。寒くない。風が当たらない。そこに座っていると、正しさがよく見える。だが、座っているかぎり、手は動かない。手を動かすには、降りなければならない。
マリアは白い手袋を脱いだ。素手の冷たさが、指先をはっきりさせる。彼女は小さく祈りの印を結び、机の上の神託の板に手を置いた。並んだ文字が、少し違って見える。行間が、広がっている。
「……順序を、変える」
彼女は呟いた。声は室の石に吸い込まれ、戻ってこない。「破滅の代行の前に、鳴らす。沈めていた四つを、人が上げる。そうすれば、最後の一打は、別の音に変わるかもしれない」
聖女の座を捨てる覚悟は、一度では決まらない。小さな決心を何度も重ねて、座面が冷たく感じなくなった頃にようやく立てる。マリアは立ち上がった。膝が震える。震えをごまかさない。震えは、まだ自分が人である証拠だ。
地下では、ルオが綱を結び直し、氷の割れ目に布を詰めていた。ユウトは掌を包帯で巻きながら、壁画から目を離せずにいた。イリスは祭壇の前で、深く息を整えている。鐘を一度鳴らしただけで、彼女の中に流れ込んだ痛みの配列が変わっている。鋭い刺が、少し鈍い重みに変わった。掃除屋の仕事が一段落した時の、静かな疲労に似ている。
「上げられたね」
イリスが言った。ユウトは頷いた。
「一度だけ。でも、届いた」
「届いた。だから、誰かが気づいた。誰かが、順序をいじる」
「順序をいじる人間が、いちばん怒られるんだけどな」
「怒られたら、甘いパンを買って慰める」
「粉砂糖、二倍で」
ふっと笑ったところで、ルオが杖で床を二度叩いた。「上がれ。ここに長居はできぬ。上で告げ口する耳が増えた」
「あなたは」
「わしは残る。地図と鐘を見張るのが役だ。歳を取った者が地下に居つくのは、悪くない。階段の上り下りも、もう慣れた」
からかうように言って、ルオは灯をユウトに押し付けた。「行け。未完成は、立っていないと固まる」
地上に出ると、雪は薄く舞っていた。雲は低く、日差しは紙みたいに薄い。遠く、聖都の輪郭が霞んで見える。鐘楼は静かだ。さっきの共鳴が嘘のように、黙っている。
「どうする」
ユウトが問う。イリスは北を見た。風の縫い目の向こうに、まだ見ぬ地割れが重なっている。
「鳴らす。ここだけじゃなくて、別の沈鐘も。四つのうち、上げられるだけ上げる。五打目の前に、音を増やす」
「サイが来る」
「来る。彼は“順序”が好きだから」
「マリアは」
「行間にいる。だから、まだ間に合う」
ユウトは掌の包帯を握り直し、〈リコール〉の重みを改めて確かめた。剣は選び直しの道具だ。だが今は、それより前の選び方が必要だ。運び方を選び、音を選び、順序を選ぶ。未完成の勇者には、選ぶべきものが多い。その多さが、いまは怖くない。
「行こう」
「うん」
二人は雪を分け、白樺の林を抜けた。背後で、地中の鐘が最後の薄い呼吸を見せた。氷の層が少しだけ鳴り、水が細く動く。地上のどこかで、誰かが顔を上げる。誰かが紙に線を引く。誰かが剣を収め、誰かが剣を抜く。
五打目は、まだ遠い。だが、遠いと決めつけるのは危険だ。近づけることも、遠ざけることも、人ができる。四は、人が選べ。マリアの指の腹に残る小さな文字が、彼女の足裏に重さを配り直す。祭壇から離れ、階段を降り、外へ出る。祈りは、形を変える。
峠の向こう、薄く煙が昇っていた。小さな村の煙だ。鍋の湯気かもしれない。合図の狼煙かもしれない。そこに沈鐘があるかどうかは分からない。だが、行ってみなければ分からないことは、行けば分かる。未完成は、足で確かめる。
雪が、耳の高さで鳴いた。木の枝から落ちたひとかたまりが、ユウトの肩に当たり、粉になって散る。イリスが笑う。ユウトも笑う。笑いは軽い。軽さは、歩幅を合わせる。
遠くで、犬が吠えた。吠え声は、朝の音だ。昼の音にも、夜の音にもなる。鐘の音も同じだ。鳴らし方で、意味が変わる。沈め方で、責任が変わる。選び方で、世界の固さが変わる。
ユウトは歩きながら、掌の痛みを確かめた。もう鈍い。痛みは、終わらない。しかし、運び方は選べる。誰かひとりに押し付けず、分け合う方法はある。たぶんある。地上に戻した鐘の歌が、その「たぶん」を「きっと」へ押してくれる。そう思えるくらいには、音が胸に残っていた。
その胸の音に合わせて、二人は歩いた。雪は、まだ白い。足跡は、すぐに浅くなる。浅くなるから、踏み直す。踏み直せるうちは、まだ未完成でいられる。未完成の朝は長い。長いぶんだけ、できることが増える。
五打目が来る前に、やることは決まっている。鳴らす。上げる。見せる。順序を、変える。誰かのためにではなく、皆のために。皆の中にいる自分のために。
風が追いかけてきて、裾を引いた。イリスが外套の前を握り、ユウトが襟を立てる。二人の影は重なり、離れ、また重なった。重なるたびに、鐘の余韻が少し強くなる。礼拝堂の白が遠ざかる。聖都の黒が近づく。間にある灰色の雪原を、二人はまっすぐ進んだ。
そのころ、聖都の塔の上では、ひとりの少女が手すりを越えた。白い手袋は、もうつけていない。風が髪を持ち上げ、頬を切る。マリアは目を細め、鐘楼の内部を見下ろした。舌の固定具。綱の通り道。儀式の足場。彼女はひとつひとつの位置を記憶の紙に写し取り、深く息を吸った。
「――順序を、変える」
彼女はもう一度言い、祭壇の扉を押した。重い扉は、意外なほど静かに開いた。聖女の座は、背後で白く沈黙している。座る者を待っている。だが、今は誰も座らない。座っている時間は、鐘の余白へ譲られる。
余白は、鳴らすためにある。沈めてきた年月の分だけ、音は太い。太い音は、遠くまで届く。届いた先で、誰かが甘いパンの粉砂糖を指先で払う。屋台の鈴が鳴る。祝祭の輪の中に、いなかった誰かの影が、ゆっくりと戻ってくる。
その日が来ると信じるなら、今日を進めるしかない。ユウトは北を見て、イリスは東を見た。見ている方向は違うのに、歩幅は同じだった。雪はそれを、静かに歓迎していた。




