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滅びの女王を守るのは勇者でした ──悪と呼ばれた少女のため、少年は神を裏切る。  作者: 妙原奇天


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第3話 聖都追補令と鏡像の騎行

 聖都の鐘は、朝より重たく鳴った。遠い空でくぐもった音がつづき、最後の一打だけがやけに高く響く。追補令が布告された合図だと、通りの誰もが知っていた。


 掲示板の前に人だかりができる。雪を踏み固めた石畳に、靴底の跡がいくつも重なっている。黒い外套の役人が、巻物を広げた。


「告。未完成勇者ユウト、女王イリスを誘拐し、断罪祭の執行を妨げたり。追補令を以て指名手配する。女王を匿う者には祝祭権の剥奪を科す」


 人垣から、息を呑む音が一斉にもれた。別の役人が布包みを開き、顔票を取り出す。粗いがよく似た筆描きの横顔が、木枠に貼られていった。街の入口、宿の柱、橋の欄干。雪に濡れない場所を選んで、手際よく。


「祝祭権の剥奪って……」

「祭に出られんってことだ。踊りも灯しも、屋台も祈りも、全部だ」

「それは、きつい」

「祝祭にいない奴は、いないのと同じだからな」


 声は小さい。誰も役人に聞かれたくない。誰も自分の名前が顔票の隣に書かれたくない。祝祭から外れることは、ここでは“存在しない”ことと同義だ。店は売ってくれない。宿は泊めてくれない。あいさつも、目も、もらえない。


「未完成勇者、ね」

 イリスが吐く息に手をかざしながらつぶやいた。フードの影に隠れた睫毛が、雪の白をわずかにはじいている。ここは聖都から離れた交易町の一角。掲示板の見える路地の奥、雪を積んだ荷車の陰だ。ユウトはフードを深くかぶり直し、視線だけで通りを見張った。


「“未完成”って言いやすい言葉だな。完成してたやつなんて見たことないけど」

「勇者の肩書に“未”が付くと、追いやすくなるもの」

「追いやすい相手を、神殿は好きだ」


 ユウトは半歩だけ前に出て、顔票の流れを見送る。貼られていく自分の絵。そこに描かれた目は、思っていたより強情そうだ。剥がしたい衝動が喉にせり上がるが、やめた。ここで目立てば、祝祭から外されるのは自分だけじゃない。


「行こう。山に入る。鐘楼村で一泊する」

「鐘楼村?」

「五つの鐘を管理してる村。山道の分岐にあって、旅人の伝言も集まる。追手の足音がどの辺まで来てるか、耳があるところで聞こう」


 イリスはこくりとうなずいた。フードの内側で、顔色はまだ青い。追補令の四文字が、心臓の裏側に冷たい爪を残していったのだろう。それでも彼女は歩く。世界の“疲れ”を肩に乗せ直して、軽い足取りを作る。


 雪は深くない。けれど、足跡は消えない。山の入口で、ユウトは一度だけ振り返った。掲示板の前の人垣は、もう散り始めている。それぞれの日常に戻るために。祝祭に遅れないように。


 その輪の外側で、ひとりの巫女が白い手袋を握りしめて立っていた。マリアだ。目が合いそうになって、互いに視線を逸らした。彼女は祈りの位置から動けない。祈りは鎖でできている。ユウトはわずかに頭を下げ、山の白の向こうへ消えた。


 山道は、雪よりも静かだった。風の音が木立を渡る。遠くで、鐘が一度だけ鳴いた。四打目と五打目の間の、薄い呼吸みたいな小さな音。鐘楼村は峠の鞍部にあって、夕暮れが早い。屋根は急な三角で、雪を落とすための角度をしている。村の真ん中に木の塔が一本、黒い線のように立っていた。


「よく来たな、道の人」

 塔の脇で薪を割っていた老人が、斧を置いて手を振った。肩に雪が残っている。顔には皺が深い。「手は見せられるか」

 ユウトは手袋を外し、掌を見せる。剣だこの筋と、最近できた擦り傷。老人はイリスの指も見た。白く細い指先に、冷えの名残が青く浮いている。老人はうなずいた。


「荒事の匂いがする。うちに寄れ。火と、薄い酒ぐらいは出せる」

「助かります」

「助けるんじゃない。鐘守の義理だ」


 塔の下の小屋は、外見より広かった。壁に沿って古い鐘の舌が並んでいる。石の台座の上には、鉄でできた小さな鐘。鎖で天井から吊られた大きな鐘。鐘立ての脚に刻まれた古い符。火床には鍋がかかっていて、何かが湯気を立てていた。


「座れ。靴の雪を落としてからな」

 老人が木椀を三つ出し、鍋から白いものをよそった。粥だ。雪菜と乾燥肉の細切れが浮いている。湯気はやわらかく、塩の匂いが腹をほどく。


「いただきます」

「いただきます」

「礼はいらん。鐘を守るために腹が要るのは、昔からの決まりだ」


 粥は薄いが、温かい。イリスの頬にゆっくりと血色が戻る。老人は杖代わりの棒を手元に置き、こちらを見た。目は優しいが、芯は固い。


「追補令が出た。顔票も見た。お前が“未完成勇者”か」

「ええ、たぶん」

「未完成じゃない人間を見たことがない。そんなもの、死んでからの仕事だ」

「やっぱり、そう思います?」

「思う。だから鐘を守る。生きている間の音は、未完成だ」


 老人は塔の柱を軽く叩いた。柱は低く鳴り、屋根裏の梁がそれに応えた。


「五つの鐘にはな、“鳴らされる鐘”と“沈められる鐘”がある」

「沈められる?」

「沈鐘だ。鳴れば救い、沈めれば犠牲を局所に閉じ込める。昔から勇者は沈鐘を沈め、女王を斬ることで世界を延命してきた。村の言い方を借りれば、未来の痛みを今ここに封じるやり方だ。だが、それは救いを遅らせているとも言える」


 ユウトは粥の椀を持ったまま、息を止めた。沈鐘。名前だけ知っている気がした。古書院で見た羊皮紙の片隅に、薄い線で描かれていた小さな図。沈められた鐘は、地面の下で音もなく震え、その震えが土にしみ込んで、どこか遠くのひずみを一時的に止めるのだ、と。


「沈めるのをやめて、鳴らしたら?」

「鳴った響きは、遠くまで届く。そのぶん誰かの皿が割れる。壊れるものは増えるが、痛みも共有される。村はそれを“目覚まし”と呼ぶ。だが、目覚めたくない人間は多い。眠っているほうが楽だからな」

「正しさって、寝心地と相性が悪いんですよね」


 イリスが椀を両手で包み込みながら言った。老人は目尻を下げる。


「女王殿下、……いや、名前で呼んでよいか」

「イリスで」

「イリスと呼ぶ。お前さんの力は守りに向いている。攻めに使えば、世界の痛みは増える。そうだろう」

「はい」


 イリスは小さくうなずいた。「攻撃しようとすると、私の中の“掃除屋”が暴れて、痛みを引き受ける口が増えてしまう。だから、私は人を守る時しかまともに動けない」


「なら、守れ」

 老人は簡潔に言った。「守る者がいなければ、鳴らされた鐘の音はただの悲鳴になる」


 火床の薪がはぜた。外は早くも夜色に傾いている。村の道には人影がない。追補令が出た日の夜は、外に出るな、鐘守の家に近づくな、というのが山の掟だ。役人が来た時、余計な人間が巻き込まれないように。


「今夜はここで休め。夜半の見回りが一度ある。うちの鐘は鳴らさない。鳴らせば合図になるからな」

「助かります」

「礼は要らん。未完成には休みが必要だ」


 粥を食べ終え、椀をすすぎ、火のそばに毛布を引いた。その時だ。外の雪面が、誰かの靴で静かに鳴った。音は一つ。等間隔。迷いのないテンポ。


 ユウトは立ち上がり、〈リコール〉の柄に手を置いた。剣はまだ鞘の中だが、金属の冷たさが掌に移った。イリスが息を呑んで、腰を上げる。老人は眉を寄せたが、声は落ち着いている。


「来たな」

「ここの人ですか」

「いや。村の人なら、もっと鳴る。雪は遠慮しない人間の靴に吸い込まれる」


 扉が軽く叩かれた。二度だけ。礼儀はあるが、遠慮はない。ユウトは扉の中央から半歩外れ、呼吸を整えた。老人が閂を外す。


 開いた隙間に、黒い外套。雪が肩に少し。顔立ちは、見慣れている。自分の顔だ。鏡で見慣れた輪郭。ただ、瞳が違う。揺れがない。水面に石を投げても波紋ができないみたいな凪いだ目。


「初めまして」

 彼は軽く会釈した。「僕はサイ。君が止まった場所から先をやる」


 イリスの肩がわずかに強ばる。老人は視線でユウトに合図をした。ここでやるのか、外か。ユウトは顎で外を示す。火を守るために。


 鐘楼の影は、風避けにちょうどよかった。四方の山が黒い背を寄せてくる。雪は細かく、降っていない。空は低く、まだ五打目は鳴っていない。


「正統剣術だよ」

 サイがすっと抜いた剣は、まるで儀礼の延長のように美しかった。手首の角度、肘の位置、肩の高さ。教本に載っている輪郭そのまま。雪に落ちる影さえ、左右の偏りがない。


「俺は、我流だ」

「知ってる。最初の一歩で、左足を半足ぶん滑らせる癖がある」

「……うん。知ってるなら、直させてくれ」

「直せるなら、僕はいない」


 サイは踏み込んだ。剣と剣が、乾いた音で噛み合う。〈リコール〉がかすかに鳴り、ユウトの握りを締め直させた。サイの刃は、迷いがない。伸びる時は伸び、止まるべき場所で止まる。剣ではなく、図面を見ている気がする。寸法どおりに組まれた建物は、揺れない。


「お前が女王を守る理由は、美談じゃない」

 間合いを測りながら、サイが言う。声は平坦で、音だけが雪面にきれいに吸い込まれていく。

「自分の剣を血で汚したくないだけだ」

 胸の奥で、何かがひやりと沈んだ。ユウトは受け流しに回る。サイの刃は、受けでも刺しでも勝てる場所にしか来ない。


「反論は?」

「ある」

「言って」

「俺は血が嫌いだ。でも、鼻をつまんで目を逸らすだけなら、たぶん今夜ここにいない」


 サイの眉がわずかに動いた。すぐに戻る。彼はまた踏み込む。受け、流し、足を入れ替え、肩をずらす。最初の一歩で左足が半足ぶん滑る。サイはそこをもう一度差し込んでくる。今度は刃でなく、言葉で。


「未完成勇者。未完成の優しさ。未完成の約束。未完成の選択」

「未完成にしては、よく喋るな」

「君が黙るから」


 イリスの指が、空気をひやりと撫でた。守りの気配が広がっている。彼女は手を伸ばせない。攻撃は世界の痛みになる。守りだけが、彼女の正しい動作だ。ユウトはわざと二歩下がり、足跡を重ねた。雪の硬さが変わる。同じ場所を踏めば、次の踏み込みでわずかに沈む。その沈みが、サイの角度に影響する。


「マリア」

 サイが唐突に名を呼んだ。背後、塔の影から巫女が現れる。白い手袋は脱いでいる。指は冷たさに赤く染まっている。彼女は口を開こうとして、開けない。喉が固く、音が引っかかる。


「命じろ。僕は遂行する」

「……今、ここで?」

「君の神託は『女王を討て、世界は続く』。そこに余白はない」


 マリアは紙片を握っていた。神殿から持ち出した古い写本の欠片。行間は狭く、文字は掠れている。そこに彼女だけが読めるかすかなにじみがあって、そのにじみが別の意味を指している気がして、でも確信がない。


「……明朝まで待って」

 やっと出た声は、ひどく小さかった。

「神託の行間に、別の読みがあるかもしれない。今夜だけでいい」


 サイはユウトから目を逸らさずに、短くうなずいた。「了解。明朝、ここに戻る」


 彼は剣を収め、踵を返した。足音はやはり等間隔で、軽い。雪は踏み跡を受け入れ、すぐに形を忘れる。マリアはその背に一歩だけ手を伸ばしかけて、下ろした。ユウトと視線がぶつかる。彼女は目を閉じ、祈りの仕草を短くして、塔の影に消えた。


 鐘守の老人が、外套の裾で口元を隠しながら呟く。「あいつは鏡だ。お前の良さも悪さも、歪みも全部映す。鏡には勝てん。だが、鏡を割る必要はない。角度を変えれば、映るものは変わる」


 火は弱くなっていた。薪を足し、巣に戻る獣のように二人は火の近くへ座った。外の空はさらに低く、星は出ていない。五打目の前の、薄い眠りの時間。


「さっきの、効いた?」

 イリスが火の赤に照らされた頬で、恐る恐る聞く。

「効いたよ。図星にも手加減がないやつは、だいたい正しい」

「正しいだけの言葉は、痛い」

「うん。痛い」


 互いに笑って、すぐに笑いをやめた。笑いの使い方を、二人とも学び直している最中だ。笑いは軽くするための道具だけど、軽さは時に足を滑らせる。


「ユウト」

「ん」

「わたし、祝祭に戻りたい」


 火のはぜる音が一度止まって、また続いた。イリスは火を見ている。瞳の奥で、遠い灯籠の色がゆらいでいる。


「屋台で甘いパンを食べたい。粉砂糖がこぼれて、手がべたべたになって、それをハンカチで拭くのを忘れて、そのまま鈴を鳴らすの。歌が聞こえて、寒かったら、あなたの外套を借りたい。わたし、寒がりだから」


 ユウトは返事を急がなかった。言葉の温度を確かめるように、火の温度を掌で測る。イリスが“戻りたい”と言ったのは初めてだ。これまで彼女は“耐えたい”とか“終わらせたい”とか、そういう動詞を選んできた。戻る場所があったことを、今、ようやく自分の口で確かめた。


「全部やろう」

「全部?」

「甘いパンを二つ買って、片方は落として、半分こにして、粉砂糖でむせて、歌を一番からじゃなくて二番から歌い出して、知らない子どもに笑われて、寒かったら俺の外套を貸す。返してもらえなくても、いい」


 イリスは唇の端をぎゅっと噛んで、すぐに緩めた。火の赤が、目尻の涙を照らした。涙はこぼれない。内側で、透明な形のまま温まって、溶けていく。


「約束、してくれる?」

「約束する」

「破ったら?」

「未完成の名にかけて、完成するまで何度でもやり直す」

「やり直しは、剣の役割じゃないの?」

「さっきから、鳴らないからな。今回は自分で鳴らす」


 イリスは笑って、今度は笑いを続けた。焚き火の灯が揺れ、壁の鐘の影が揺れた。沈鐘は静かに眠っている。鳴らされる鐘は、次の朝を待っている。


 外で、雪の上を風が走った。遠い谷の向こうで、どこかの犬が一声だけ吠えた。鐘守の老人が、奥の部屋で寝返りを打つ音がした。深夜の音は少ない。少ないぶん、一つひとつが意味を持つ。


「ユウト」

「ん」

「あなたの左足、最初の一歩で半歩滑るの、本当だったね」

「やっぱ、見えてた?」

「うん。直さなくていい。あなたの歩き方、好きだから」

「俺も、君の歩幅、好きだよ。たぶん俺と同じくらいで、ちょっとだけ速い」

「少しだけ急いでるから」


 火はさらに低くなって、炭が赤い点になった。毛布を肩に引き寄せ、背を壁に預ける。イリスは目を閉じる前にもう一度だけ火を見た。火は約束の形をしていた。形は不安定だが、温度は一定だ。


 眠りは浅く、短い。夜は長いが、朝は必ず来る。朝が来れば、サイは戻る。マリアは行間を読む。ガレンは命令を重ねる。鐘はどこかで鳴る。鳴る鐘と沈む鐘。救いと遅延。選択と反復。未完成のまま、朝へ運ばれていく。


 風が戸を叩いた。戸は答えない。答えのないもののほうが、長持ちする。ユウトは薄く目を開け、〈リコール〉の柄に指を沿わせた。金属の冷たさは、逆に眠気を連れてきた。剣は黙っている。巻き戻しの囁きはない。今夜は、このまま進めと言っている。


 朝の前。最も寒い時間。鐘楼の三階あたりで、誰かの影が動いた。鐘守の老人だった。彼は塔の中段の窓を開け、空気を入れ替え、外の白を一度吸い込んでから吐き出した。唇の動きで、古い唄の一節が読めた。鳴らすな、沈めるな、見届けよ。鐘守の伝え言だ。


 東の空が、墨から薄鼠に変わる。色が変わる時、世界はいつも少しだけ静かになる。ユウトは肩を回し、外套の襟を立てた。イリスは毛布を畳み、火床の灰を整えた。二人は顔を見合わせ、うなずいた。約束は、朝の支度と同じだ。声に出すより先に、手を動かす。


 扉の外に一歩出ると、空気の固さが夜よりも少しだけ柔らかい。雪の表面が薄く締まり、足が沈みにくい。遠くの峠道の先に、黒い点がひとつ。等間隔の歩幅が近づいてくる。サイだ。マリアは見えない。彼女は別の道を選んだのか、あるいはまだ行間にいるのか。


 鐘守の老人が、塔の上から短く手を上げた。合図はない。見守りだけだ。鳴らさず、沈めず、見届ける。


 ユウトは深く息を吸い、吐いた。剣を抜いた。剣は朝の光を拾う。イリスが半歩下がり、守りの息を整える。サイは止まらず歩み、約束どおりの距離まで来て止まった。目は凪いでいる。声は低い。


「明朝だ」

「ああ」

「行間は、あった?」

 山の向こうから、小さく鐘の音がした。目をつむらなければ聞き逃すほどの小さな音。イリスが微かに微笑む。ユウトは頷いた。


「あるさ。行間はいつだって、未完成のために残ってる」

「そうか」


 サイは剣に手をかけた。ユウトも構え直した。イリスは掌を合わせた。朝の光が、三人の影を延ばす。影は鐘楼の足元で重なり、また分かれていく。


 祝祭の町で誰かが甘いパンに粉砂糖を振っている。その粉が風に乗って、ここまでは来ない。だから、取りに行く。約束は遠くない。遠くないから、今は戦う。戦うというより、選び続ける。鳴らさず、沈めず、見届けられないものを、いちど自分の手で掴みに行く。


 鏡像の騎行は、朝の氷を割らない。凪いだ目と、震える目。凪いだ剣と、震える剣。どちらが正しいかは、鐘が決めない。決めるのは、祝祭に戻ると約束した二人と、その約束を見ている人たちだ。


 ユウトは一歩出た。左足は、半歩も滑らなかった。イリスが一瞬だけ息を止めて、すぐに吐いた。サイの目が、ほんのわずかに細くなる。鐘の舌が、まだ触れられていないのに、音の予感だけが空に広がる。


 朝だ。未完成の朝が、均等に冷たく、均等に優しい。ここから先は、誰かの顔票に描けない表情だ。ここから先は、祝祭の歌詞にまだない言葉だ。


 その歌詞を、二人で取りに行く。今は、ただそれだけで十分だった。

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