第2話 五つの鐘と千年の地図
地下水道の冷気は、地上の吹雪よりも澄んでいた。石壁を伝う水の音が、遠い鐘の余韻と混ざる。二打目が終わって、世界はひと息だけ間を置いている。ユウトは片手で灯を掲げ、もう片方の手でイリスの手首を支えながら、苔の生えた縁を踏み外さないよう進んだ。
「足元、滑るよ」
「あなたの腕、あたたかいわね」
「緊張で熱出てるだけだよ」
冗談のつもりで言ったが、声はかすれていた。さっきから神剣〈リコール〉が、耳の後ろで喉を鳴らす猫みたいに微振動している。巻き戻しの前触れではない。ただ、ここが“筋書きの外”だと剣が落ち着かないのだ、と直感で分かった。
古書院の隠し扉は、水面の向こうにあった。鉄格子の上に古い聖句が彫ってある。イリスが指先を当てると、氷の花が広がって鍵穴を満たし、静かに錠がほどけた。
「こんな仕掛け、誰が」
「ここを作ったのは、昔の私の味方たち。もう誰も残っていないけど」
扉が開くと、乾いた空気と紙の匂いが押し寄せた。地下だというのに、奥から柔らかな光。棚は天井まで届き、背表紙は革と布でつぎはぎされている。ルミナ王都古書院――伝説では、一度燃えた。何度も荒らされた。それでも残った本だけがここに降ろされて、息を潜めている。
物音ひとつしない、と思った矢先、しわがれた声が背後から降ってきた。
「遅かったのう。二打目が終わってしまった」
ユウトは反射的に剣を半身に構え、振り返って刃先を止めた。灯の輪のそと、古い外套の影。白髪の老人が、背の丸い杖をついて立っていた。瞼は薄く、眼光だけが生きている。
「ルオ学匠」
イリスが先に名を呼ぶ。老人はかすかに笑った。
「生きておられたか、陛下。いや、いまは“ただのイリス”であろう。勇者殿、剣をおさめよ。わしは敵ではない」
ユウトはゆっくりと刃を返した。「すみません。警戒が過ぎました」
「それが当然だ。世は警戒の足りぬものから死ぬ。さ、こちらへ」
老人は棚と棚の隙間を滑るように進み、さらに奥の部屋へ案内した。そこは書院の心臓部らしく、机が一つ、壁一面の地図が一枚。いや、一枚ではなかった。薄い羊皮紙が幾層にも重ねられ、角で糸綴じされている。透かして見ると、同じ大陸の輪郭が、すこしずつ違う形で重なっている。
「千年周期の地図……」
イリスが囁く。ルオはうなずいた。
「王都の外縁のライン、河の流れ、山の筋。千年ごとに、少し若返る。森が戻り、土が肥え、井戸の水脈が太る。だが同時に、人の記憶は痩せる」
「記憶が、痩せる?」
「伝承が薄くなり、断罪の残酷だけが曖昧になる。語り草は“ありがたい儀式”へ変わるのだよ」
ユウトは地図に顔を近づけた。羊皮紙の一番下、最も古い層の端に、細い文字が走っている。霜崩、灰雨、空涸、獣暁――そして、破滅代行。小さな鐘の絵が五つ、指で弾けそうなほど繊細に描かれている。
「五つの鐘は、それぞれ大災の名か」
「そう。断罪祭の五連鐘は、過去にこの世界をひずませた災厄に、音で名前をつけたものだ。ひとつ鳴るたび、女王の器に“劣化”が移る。五打目は破滅の代行――代わりに滅ぶ、という意味。歴代の勇者は、五打目が鳴る前に女王を斬るよう設計されてきた」
ルオは指で五つ目の鐘の絵をなぞる。その指がわずかに震えていた。
「なぜなら、斬らずに五打目を迎えると、劣化を抱えた器が壊れて、破滅が世界に拡散すると伝えられてきたからじゃ」
ユウトは無意識に〈リコール〉の柄を握り締めた。金属がわずかに鳴く。目の端でイリスが身じろぎする気配がした。彼女は地図から視線を外し、窓のない天井を見上げる。
「でも……」
ルオが古書から紙片を引き抜いた。「わしは逆の仮説を持っておる。断罪ののち、土地が若返るのは事実。だが、同時に人々から断罪の痛みの記憶が消える。記録だけが急に抜け落ちる。年表にぽっかり穴が開く。これは……」
「巻き戻しに似てる」
ユウトの口が先に動いた。ルオの眼が「おや」というふうに細くなる。
「勇者、知っておるのか」
「俺の剣――〈リコール〉は、致命的な失敗を犯したときにだけ、時間を少し巻き戻す。選び直しの機会をくれる。ただ、さっきの断罪の場では、鳴いただけで働かなかった。だから考えた。断罪が“正解”だったから巻き戻らないのか。それとも、“巻き戻せない種類の正しさ”だからなのか」
イリスがユウトを見る。彼女の瞳は、雪と夜を少しずつ混ぜたような色をしている。
「わたしは“滅び”じゃない。“緩衝”。幼いころ、眠る前の夢で、たくさんの人の疲れがわたしの胸に流れ込む感覚があった。目が覚めていると、世界のひずみ――戦争や飢饉や憎しみ――が痛みになって刺さる。それを“悪”と呼んでも、世界の皿はきれいにならない。本当は……掃除屋なのよ」
「掃除屋、ね」
ユウトは笑ってみせたが、喉の奥は乾いていた。掃除屋を断罪することで、家の中は一夜で片づいたように見える。だが本当は、ゴミ袋は別の部屋に隠されているだけだ。
ルオは杖の先で床をとん、と叩いた。「三打目が近い」
遠い地上から、低く重い鐘の響きが染みてくる。地図の五つの小鐘が、細い線でこの街の鐘楼に結ばれている。音は線を伝って、千年の層を重ねた羊皮紙を震わせた。
「時間がない。勇者殿、女王殿下。君たちが選ぶ道は、いまこの瞬間にも枝分かれし、やがて大きな河になる。わしはその地図を描いてきた。描くには、いつも“忘れられた断罪”の端を拾い集めるしかなかった。だから、君らに伝える。五打目を待っても、器は壊れない。壊れるのは、語り継がれるべき痛みのほうだ」
「証拠は?」
「地図だ。地図以外に、何かが残るほうが奇跡だ」
ユウトはイリスと視線を交わした。彼女は小さくうなずく。ゆっくりと、決意に体温が追いついてくる。
――そのとき、地下の向こう側で金属がこすれる音がした。生臭い風。ユウトは反射的に灯を消し、剣の背でイリスを背後へ押しやった。ルオが机の下から、古いクロスボウを引き抜く。
「追手?」
「鎧の音じゃない。……水棲の何かだ」
黒い水面が持ち上がり、細長い影が縁に絡みついた。目はなく、口だけが裂けている。断罪の夜に地上から流される“人の疲れ”に惹かれて、水路に出る魔性――〈疲喰い〉。本で名前だけ見たことがある。
「下がって」
ユウトは踏み込んだ。剣閃が狭い空間で嫌な風圧を生み、〈疲喰い〉の舌を断つ。生き物のくぐもった悲鳴。もう一体が柱の陰から躍りかかる。ユウトはわざと半歩遅らせて、噛みつきの勢いを利用し、柄で顎を跳ね上げた。石に頭蓋がぶつかる音。ルオの矢が、きっちりとこめかみを射抜く。
静寂。水面にひろがる薄い油膜が、灯の残光を揺らしている。イリスが胸に手を当てた。彼女の周囲の空気が微かに低温になっている。無意識の“冬の守り”だ。
「ごめんなさい。わたしのせいで」
「違う。来るものは来る。追い払えばいい」
ユウトは剣についた黒い粘着を布で拭い、鞘に戻した。〈リコール〉は、先ほどより静かだ。筋書きの外側で出会った偶然に、剣が少し安心したように思えた。
「三打目が鳴った。四打目までの間に、君らはこの街を離れねばならぬ」
ルオは机の引き出しから薄い革包みを取り出し、ユウトに手渡した。中には折りたたまれた紙片と、丸い金属板が三枚。
「これは?」
「千年地図の写しと、鐘の名を刻んだ古い印だ。霜崩、灰雨、空涸。これを持っておれば、いくつかの隠し扉が開く。獣暁と破滅代行は持っておらぬ。誰かに奪われたのか、もともとなかったのか」
「今まで、あなたはどうやってここを守ってきたの」
「忘れられた者は、目にも入らぬ。わしは忘れられる才があっての」
ルオは肩をすくめ、歯のない笑みを見せた。「それに、わしひとりが生き延びても、地図が燃えたら終いだ。だから、そなたらが持って行け」
ユウトは革包みを胸に挟んだ。背中でイリスが息を整える音がする。鐘の余韻が石に伝い、脚にまで重さが乗る。四打目は、近い。
「行こう。イリス」
「ええ。ルオ、ありがとう」
「礼は成功してからでよい。勇者殿、巫女殿にも真実を見せてやれ。あの子は、いつも正しいほうへ震える」
名前を出されて、ユウトは一瞬立ち止まった。「マリアを知ってるの?」
「わしの教え子じゃよ。あの子が祭壇で詔を読むとき、いつも、紙の縁を少しだけ曲げる。迷っている証拠じゃ」
ユウトは無意識に笑っていた。「じゃあ、迷いごと連れて逃げるよ」
◇
地上では、雪がやんでいた。鐘楼の周りだけ、空気がすりガラスみたいに歪んでいる。ガレン聖騎士長は白布を外し、腕の札をむき出しにした。細密な術式が青白く光る。
「勇者代替計画、起動。別相召喚、承認」
神官たちが円環の内側で合唱し、祭壇の結晶が低くうなった。床石の継ぎ目から光が立ち上がり、雪面に幾何学の影が落ちる。風が逆巻き、鐘の音が一瞬だけ遠ざかる。
マリアは祈りの姿勢のまま、指の関節が白くなるほど手を握りしめた。唇は動いていない。声は心の内側にだけ向けている。――ユウト、聞こえる? 真実を見つけて。もし間違っていたら、私が止める。
光の中から、ひとりの少年が現れた。黒い外套、簡素な剣。顔立ちがユウトに似ている。だが、その眼は迷わない。揺れのない水面のようだ。彼は式次第に目もくれず、まっすぐにガレンを見る。
「呼んだのは、お前か」
「影の勇者、サイよ。お前に命ずる。女王イリスを斬れ。反逆者ユウトは同時に拘束、あるいは排除だ」
「了解」
サイは簡潔に答え、足元の雪を払った。その仕草に、一切の感情が見えなかった。
マリアの喉がかすかに鳴った。ユウトが最も嫌う“正しすぎる自分”。彼の正しさは、いつも他人を救うためにねじれる。サイの正しさは、真っ直ぐで、容赦がない。
「マリア」
ガレンが視線だけで呼ぶ。彼の目は硬い石だ。マリアはうなずき、祈りの紐を結び直した。
「……神よ、道を下さい」
本物の道は、いつも砂で覆われている。踏む人間の足が、道を道にする。マリアはそう教わった。教えたのはルオ。あの老人の声が、雪の中でまだ温かい。
「サイ、四打目が鳴る前に追いつけ」
サイはわずかに顎を引き、背を向けた。雪は踏み跡を残さない。彼の歩いたところだけ、音がしない。
◇
古書院を出たユウトたちは、裏通りを縫って北門へ向かった。人影はない。街灯は消え、氷の柱だけが月光を飲んで立っている。四打目の前の静けさだ。空気が薄い。息が白く長い。
「ここを抜けたら、外周林。そこに古い監視塔があるの。冬の見張りが使っていた道具が残っているはず」
「道具?」
「氷原で風向きを読む竿とか、凍土用のスパイクとか。あと、北へ抜ける地割れの地図」
「さすが掃除屋さん。片づけのプロは、道具も揃ってる」
イリスが笑いそうになって、やめた。「笑ってる場合じゃないのに、笑わせるの、やめて」
「ごめん。緊張すると、どうしても」
「わたしも同じ」
その瞬間、四打目が鳴った。腹の底から蹴り上げるような低音。氷壁が細かく震え、雪の粉が宙へふわりと舞い上がる。世界が、もう一段階、軽くなる。軽くなるぶんだけ、どこかが重くなっている。
路地の角を曲がったところで、ユウトは足を止めた。空気が変わった。音が減りすぎている。自分たちの呼吸の音だけが、やけに大きい。
「誰か、いる」
「わかるの?」
「剣が、静かすぎる」
次の瞬間、雪煙の中から一本の矢が飛んできた。ユウトは反射でイリスを抱き寄せ、石段の影へ転がる。矢は石に突き刺さり、砂粒のような光を散らして消えた――訓練用の警告矢だ。殺す気がない。止める気だけがある。
「ユウト」
「わかってる」
路地の向こう、雪の白に溶け込むように、ひとりの影が立った。黒い外套。ユウトと似た背格好。歩幅まで似ている。違うのは、目だ。光を反射しない、深い井戸の底みたいな瞳。
「初めまして。僕はサイ。君が止まった場所から先をやる」
ユウトはイリスを背に置いて立ち上がり、剣を抜いた。金属の音が、寒気で余計に鋭く響く。
「悪い。そこ、俺の仕事なんだ」
「では、仕事を返してもらう」
サイが踏み込んだ。足音がまるで落ちない。踏んでいるのは雪なのに、沈まない。剣と剣が当たる。〈リコール〉が微かに音を立てる。サイの刃は、迷いがない。無駄がない。決めた手順だけを再生しているようだ。
「強い」
「君もね」
短い会話。刃の間を風が通る。ユウトは正面から受けない。半歩ずらし、角度だけで逸らす。サイは角度ごと断ち切って追ってくる。理屈を一枚減らした分だけ、速い。
「イリス、下がって。合図したら走る」
「あなたは?」
「俺は、止められない」
サイの刃が肩口をかすめた。痛みは浅い。血が外套にじむ。〈リコール〉が鳴った。巻き戻しの囁き。ユウトは、首を横に振った。
「だめだ。ここで戻したら、君に勝てない。俺は“斬らない”を選び続けなきゃいけない」
サイの手首にわずかな余白が発生した瞬間、ユウトは雪を蹴り上げて視界を遮り、サイの足首に氷のかけらを投げた。微妙な重心の崩れ。ほんの呼吸一つぶん。その隙にイリスの腕を引き、反対側の路地へ飛び込む。
「追うよ」
サイが淡々と言い、雪を払った。足音はやはりしない。ガレンが遠くの影から全体を見ている。マリアは祈りの列の最後尾で、目を閉じ、涙をこぼした。雪に落ちた涙は、すぐに気配だけになって消える。
◇
古い監視塔は、外周林の白樺の向こうに、暗い指のように突き出ていた。扉は凍りついている。ユウトが肩で押し、イリスが手のひらで冷気を導く。氷が内側からほどけ、鈍い音をたてて開いた。
中は空っぽではなかった。壁に鉄の竿、床にスパイク付きの靴、巻かれた紐、割れた望遠筒。棚の上には、油紙に包まれた巻物が二本。イリスが一本を開いた。細い線の集まりが現れる。氷原の地割れ図。ところどころに点が打ってあり、横に古い符丁。イリスは読み、うなずき、指で道をなぞった。
「ここ。北北西に二刻歩いたところに“風の縫い目”がある。そこから東へ折れて、凍った川を渡る。夜のうちに川を抜ければ、追跡は薄くなる」
「行ける?」
「行く。行けるから、行く」
二人はスパイクを装着し、竿を背負った。ユウトは窓際で一瞬だけ外を見た。雪は、もう降っていない。音もない。鐘の四打目の余韻がまだ空に張り付いて、世界の鼓動のテンポをゆっくりにしている。
イリスが窓に手をついた。薄い氷が花の模様を描き、すぐに溶けて消える。彼女は口を開いた。
「ねえ、ユウト」
「なに」
「私を守れば、あなたは世界の敵になるよ」
ユウトは肩をすくめて、笑った。笑いは自分を軽くするためのものじゃない。重いものをちゃんと持つためのフォームだ。
「世界は、毎回誰かを敵にして正しさを保ってる。順番でたまたま君だったなら、今回だけは順番を崩す」
「順番を崩す?」
「うん。掃除屋に休憩を出すみたいに。誰かがサボらなきゃ、世界は働きすぎて壊れる」
イリスは黙って彼を見た。窓の外、遠い鐘楼が小さく光っている。五打目の前の短い静寂。女王の頬に、ほんの少し血色が戻っているのにユウトは気づいた。
「雪、降ってないわね」
「たぶん、俺たちが外に出した。掃除の袋を隠す場所がないと、部屋は散らからない」
答えになっていないようで、答えになっている。イリスは小さく笑い、すぐに真顔に戻った。
「ありがとう」
「礼は成功してからでいいって、誰かが言ってた」
「だれ?」
「忘れられた才のある人」
二人は監視塔を出た。風の縫い目へ向かって歩く。スパイクが凍土を噛み、竿が風の方向を教えてくれる。〈リコール〉は沈黙したまま背にある。巻き戻しの囁きは、いまは要らない。選び直すより、選び続ける番だ。
背後で、五打目の前触れのように、空が一度だけ暗くなった。遠い街では、サイが足を止め、空を見上げた。マリアは祈りの紙を折り、懐にしまった。ガレンは片眉をひそめ、どこかへ伝令を飛ばした。ルオは古書院の灯をひとつ消し、地図の上に手を置いた。
「さあ、どちらが“正しい”か、見ものじゃ」
老人は誰にともなく言い、もう一度灯をともした。灯は羊皮紙の層を透かし、千年分の若返りと欠落を同時に照らした。
雪は降らない。かわりに、空気が軽くなる。軽い空気は、言い訳を置いていけと言っている。
ユウトは前だけを見た。イリスは彼の横顔を見た。世界の“疲れ”は、歩くたびに靴の裏で少し砕けて、線になって地面に伸びていく。誰かがその線を見つければ、追ってくるだろう。サイが来る。正しさの化身が来る。
それでも、いまは夜で、風は味方で、二人の呼吸はそろっている。ほんの短い、しかし確かな“理由”が、逃避行に与えられていた。
「行こう」
「うん」
風の縫い目は、思っていたよりも温かかった。氷原の一部が細く解け、空気が入れ替わる場所。そこに足を踏み入れたとき、五打目の鐘が、遠い遠いどこかで、まだ鳴っていないことを二人は同時に理解した。
余白は、まだある。選び直すための余白じゃない。選び続けて、別の景色に辿り着くための余白。
ユウトは竿を肩に、イリスはスパイクを深く踏み、北北西へ――千年地図の白い余白へ、歩みを伸ばした。雪は降らず、ただ星だけが、彼らが通ったあとの空に点々と埋まっていった。




