特別読切①『奥田先生の結婚』
「奥田先生、外来お願いします」
障子越しに声がかかる。
式盤の数値をひと通り確認してから、朋恵は白衣の裾をそっと整えた。
奥田朋恵、31歳。
白鷺総合病院で働く、小児科医だ。
昨年、30歳を迎えたのをきっかけに、親に急かされるまま結婚相談所に入会した。いわゆる“婚活女”だ。
小児科医としての仕事は、楽しい。子どもが元気になっていく姿を見るのも、消えかけていた命が息を吹き返すのも、これ以上ないほどのやりがいがある。
——でも、私は正直、結婚に気が進まない。
同じ医師と付き合っていたこともある。
けれど、家に帰っても仕事の話ばかりで、まるで白衣を脱げないまま、プライベートを過ごしているような気分だった。
私は、公私を分けていたい。
せめて家にいるときくらい、“素”の自分でいたいのだ。
でも、結婚すれば、家庭に入ることになる。
育った家ですら、ろくに出せていない“素”の自分なんて、いったいどこで出せるんだろう。
そして、子どもが産まれれば——きっと、女の私が主婦になるんだと思う。
子どもは欲しい。でも、仕事も手放したくない。
……今のままでさえ、“私らしく”なんて、生きられていないのに。
もし結婚して、仕事までできなくなったら——私には、いったい何が残るんだろう。
***
今日のお見合い相手は、椎名光貴さん。「なんでも話してみたらいい」と、担当の仲人さんが、なぜか私にすすめてきた。
母に「ちゃんとお見合いしてるの?」と詰められるのも面倒で、今日も当たり障りなく終わらせよう。——そう思っていた。
「はじめまして!!椎名です!!」
「は、はじめまして。奥田と申します……」
その男、椎名は、私に気づくなり勢いよく立ち上がった。
応接の場というより、舞台に立つような調子で、自信たっぷりに挨拶してきた。
ちょっと驚いて顔を向けると——
「……あ」
腰に下げた根付が、元気よく揺れていた。
巫女の姿をしたキャラクターが描かれている。……これ、結構有名なやつ。
でも、それ以上の反応は、胸の内にしまっておこう。
「えっと、奥田さんは、ご趣味はありますか!?」
「……えっと、料理……とかは好きです。……椎名さんは?」
正面から向き合った椎名さんは、どこか愛嬌のある顔をしていた。
……少し、好みかもしれない。
会話内容は、お見合いでは定番のやりとり。
けれど返ってきた言葉が、ほんの少し空気を変えた。
「僕は、アニメと、初○ミクさんが大好きなんです!!」
満面の笑み。揺るぎない声だった。
私は目を丸くした。こんなに好きなものを躊躇いなく口にする人に、久しく会っていない気がした。
彼は、もっと話したそうに前のめりで揺れている。
鞄の中には、《婚活ノート》と手書きされた紙ファイルがのぞいていた。
・一問一答を心がける
・コスプレを勧めない
・アニメの話ばかりしない
……前のお見合いで、何をやらかしたんだろう。でも、そのノートは彼なりの“真剣さ”を感じさせた。
「すごいですね……好きなものを、そんなにはっきりと言えるなんて」
「あは……引かれることも多いですけど……でも、それが“僕”なんです!」
彼はまた、満面の笑みで続けた。
「好きなものを隠して結婚しちゃったら、きっとその後の人生、楽しめないじゃないですか!」
「嫌だったら、本当に申し訳ないんですけど……それでも僕は、好きなんです!アニメも、ミクさんも……オタクでいる自分も!」
——いいなぁ。人生、楽しそうだなぁ。
そんなふうに思ってしまった。
心の奥で、ふわりと何かが動いた。
私だって、本当は。
勉強して、勉強して、医師になって、仕事して……そんな毎日を彩ってくれた“趣味”がある。
でも、親は言った。「いい年なんだから、隠しなさい」って。
だから、プロフィールには書かなかった。
“受け入れてもらえるわけがない”って、最初からあきらめていた。
……でも。もしかしたら、この人なら——受け入れてくれるかもしれない。
言ってみようか。いや、やっぱりやめておこうか……。
でもこれは、一度きりの出会い。
今日限りの関係だ。
引かれたら、それで終わり。
この人も、それをわかったうえで、自分をさらけ出してきたんだから。
なら——私も。
「……ちゃん」
ぼそっと呟いた私の顔を、椎名さんが心配そうにのぞき込む。
「……えっと、奥田さん?」
「……もえちゃん」
「……あ、“朋恵さん”とお呼びしていいんでしょうか?」
「もえちゃんって、呼んでくださいませ!!」
「……えっ!?」
「私……腐女子なんです。部屋には、推しカプの神棚もあって……」
「……ほんとは、変わった着物の趣味もあって、誰にも見られないように、箪笥の奥に、いろいろ隠してるんですけど……!」
気付けば、私は立ち上がっていた。
「……朋恵って名前、気に入ってます。でも、本当は“もえちゃん”って呼ばれてみたかったんです。だって……そっちのほうが、可愛いから。」
「……すみません。ちょっと、しゃべりすぎました。……これで失礼します!」
真っ赤な顔で、くるりと踵を返す。
その腕を、椎名さんが慌てて掴んだ。
「あ、あの……!」
「離してください」
「待ってください……もえちゃん」
はっとして、彼の方を見る。
椎名さんは、そっと手を離し、下を向いたまま口を開いた。
「僕、女性と話すの苦手で……退屈させないように頑張ろうとすると、気づいたらいつも、自分ばっかり話してしまってて」
「でも今日は、奥……もえちゃんに、自分の話、してもらえたんで。今、すごく嬉しいんです。おこがましいかもしれませんが…なんていうか、ちょっとだけ、信頼してもらえたのかなって」
椎名さんの声は、少し震えていたけれど、そのまなざしはまっすぐだった。
「……本当の自分を見せるのは、すごく勇気がいることだと、僕は思ってるので」
「……こんな“自分”、見せられたものじゃないです。いい歳してBLの神棚とか……」
「いいえ。素敵だと思います。好きなもののことを話すあなたは」
顔を上げると、椎名さんはまっすぐで、穏やかな笑みを浮かべていた。
「もっと聞かせてください。僕、知りたいんです。もえちゃんの“好きなこと”」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。思わず泣きそうになる。
「……わたし、仕事も好きなんです。小児科医の仕事、やめたくなくて。でも、子どもも欲しくて」
椎名さんは、頷きながら、時おりゆっくりとメモをとっていた。
私の言葉ひとつひとつに、耳を傾けてくれているのが、よくわかった。
後から知ったのだけれど、彼はもともと、あまり口数が多くない人らしい。
でもそのぶん、相手の話をじっくりと聞くことができる——そういう人だった。
静かで、やさしい時間だった。
***
数日後。
炊事場で朝食の片付けをしていた母が、ふと顔を覗かせる。
「朋恵〜!明日、当直だっけ?お弁当いる?」
「…うん、お願いしたいな」
「はーい……って、えぇっ!?」
一瞬で母の表情が固まった。まばたきも忘れたように目を見開き、声を詰まらせる。
口を開きかけては、また閉じる。ようやく出てきたのは、小さな声だった。
「……あんた、それ……ほんとに着て行くの……?」
朋恵は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「うん。……ずっと言えなかったけど、私、こういうのが好きなの」
「彼も、“好きな装いで来てほしい”って言ってくれてるんだ」
炊事場にいる母のそばまで歩き、そっと腕を回す。
「お母さん、いつもありがとう」
頬に軽くキスをして、軽やかに階段を駆け上がっていく。
母は、ぽかんとその背中を見送ったまま、立ち尽くしていた。
***
「もえちゃん……?」
待ち合わせ場所でスマホを見ていた椎名が、顔を輝かせる。
その姿を見て、朋恵の頬がほんのりと赤くなる。
やわらかな桃色の着物に、幾重にも重ねられたレースとフリル。
裾や袖口にはリボンの飾り紐が添えられ、薔薇の刺繍がところどころに咲いている。
光を受けて、花びらがそっときらめいた。
背には、やわらかなクリーム色の帯がふわりと結ばれ、大きなリボンが揺れている。
髪の横には、小ぶりなレース飾りと、薄紅の造花がそっと添えられていた。
甘すぎるのに、どこか上品。
お人形のような可愛らしさと、雅な装いが同居する——“ロリータ風”の装い。
それは、朋恵が“ずっと隠してきた自分”そのものだった。
「……そのお着物、すごく似合ってます!」
満面の笑みでそう言った椎名に、朋恵も微笑み返す。
***
母は、静かな炊事場で夕食の仕込みをしていた。調理火を弱め、ふと、さっきの娘の笑顔を思い出す。
——まさか、朋恵に、あんな装束の趣味があったなんて。
正直、驚いた。知らなかった。……でも。
そういえば、小さいころ。
お兄ちゃんのお下がりは嫌だって言って、折り紙で作ったリボンをボンドやテープで着物にたくさん貼りつけて。
それを見て、私、叱ったのよね。
「お人形さんみたいなお着物が着たかったの」って、泣いてたっけ。
いつからだろう、そんなことも言わなくなって。私も……忙しさにかまけて、ちゃんと聞いてあげなくなっていた。
相談所に入ったときも——「腐女子趣味なんて、書いちゃダメ」って、ついきつく言ってしまった。
……正直に書いたら、誰にも選ばれないって思って。
あの子がひとりきりになるのが、怖かったのよ。私が——。
……でも、違ったのね。
「……いい人に、出会えたんだ」
私のあの態度が、“好きを”閉じ込めさせてしまったのかもしれない。
帰ってきたら、たくさん話、聞かせてもらおう。彼のことも、いままで聞けなかった“好き”のことも——ぜんぶ。
ゆっくりでいい。言葉にならなくても、無理に話さなくてもいい。いまのあの子の笑顔を見たら、きっと、ちゃんと聞ける気がする。
——今度は、あの子の“好き”を、そっと見守れる母でいよう。
母は、火を止め、ふわりと息をついた。
そして、小さく微笑んだ。
***
昨日の雨で、道がぬかるんでいた。それに気付いた椎名が、そっと手を差し伸べる。
「もえちゃん……その、転んだら、素敵な着物が汚れてしまうので」
言ったあと、椎名は少しだけ視線を逸らした。
……その不器用な照れ方が、ちょっとだけ可愛く思えた。
「……ありがとうございます!」
椎名の手を取り、二人は笑い合う。
仕事では、奥田先生。
プライベートでは、“もえちゃん”。
ずっと隠してきた“わたし”が、ようやく世界に一歩、踏み出した。
次回:逃走先の街コンで




