第五話:普通ってどこに落ちてますか?
ほんのりと光が差す、白木造りの静かな空間。
障子の向こうで風鈴がちりんと鳴り、畳の香りがそっと鼻をくすぐる。
ここは、旅楼の茶寮だった。
時刻は、昼下がりの二時半を過ぎた頃。
結衣子は、座敷に置かれた卓袱台を挟み、ひとりの男と向かい合っていた。
(…………はぁ…)
目の前の男——椎名は、汗だくになりながら、ノンストップで喋り続けている。
手に握った黄蘗色のハンカチは、とっくにびしょびしょだった。
「ちなみに僕、週末はほぼ聖地巡礼に出てまして!この前も長野までバスで“アレ”観てきたんですよ!わかります?さっきお話ししたアニメの聖地で、そこで食べたアイスが格別で〜…」
(知るか……!“アレ”って何!?お願い、もっと具体的に情報をくれ……!)
結衣子は、必死に笑顔を保つ。
だが、限界はもう目と鼻の先だった。
「……で、今度は群馬に行こうかなって!」
「あそこもまた、アレがすごくて……えーと名前なんだったかな。群馬では有名なアレなんですけど、去年行った時はまだ寒かったから…」
(また“アレ”!?なんなんだアレって!!建物!?食べ物!?景色!?全部アレで済ませないで!!!)
話は、さらに加速していく。
「それとですね!今日は結衣子さんを待たせたくなかったんで、始発で現地入りしたんですよ!」
「あっ、それはお気遣いいただき……って、始発!?待ち合わせ二時でしたよね!?」
「はい!現地の空気を確かめておきたくて!」
(……いや、“現地の空気”って何!?登山なの!?ここって標高差あるの!?)
(……まあ、真面目なのは……いいんだけどさ……)
「このあたり、文○トって作品の聖地ですし、午前の部は推しとデート気分で写真撮ってきました!フフッ……」
そう言って、椎名は得意げにスマホを取り出し、画面をこちらに向けてスワイプする。
映し出されたのは、萌えキャラのフィギュアと撮った「デート風写真」の数々だった。
(おおぅ……めっちゃ満喫してる……)
その中の一枚、ひときわ鮮やかな笑顔が光っていた。
それを見て、さすがの結衣子も言葉を失う。
(わぁ……いい笑顔……ごめん、私……そろそろ限界……)
「……次は一緒に聖地巡礼しましょうね!」
返事に詰まっている結衣子に、椎名は気づく様子もなく、無邪気に畳みかける。
「その後は、喫茶店で時間潰そうとしたんですが、Wi-Fi弱いし混んでて……結局ベンチでアニメ映画を2本観てました!」
「で、その映画の推しキャラが、なんか……結衣子さんにちょっと似てるんですよ!」
「あっ!!今度コスプレしましょう!?絶対映えますよ!!僕、撮りますんで!!」
(もう……)
(もう……)
(…………)
(帰らせてぇええええええッッッ!!!)
必死に顔に出さないようにしながら、結衣子はお茶をすする。
無心で、ただお茶をすする。お茶しか信じられない。
(あ、でも……)
ふと、結衣子の目に留まったのは、椎名の鞄の横に差し込まれた、折り目のついた紙ファイルだった。
《婚活ノート》と、小さく手書きで書かれている。
ちらりと中が見えた。びっしりと書き込まれたメモの数々。
「今日のポイント」
「相手の話を否定しない」
「共通点を探す努力」
(……がんばってるんだ、この人なりに)
一途な頑張りが滲むノート。
真面目で、誠実で、努力家で。
(なのに……なぜ……なぜ、こうなった……)
神回アニメの話が、まるでエンドレスリピートの呪文のように続いている。
(努力と成果が比例しない世界……それが婚活ッ……!)
*
ようやく、椎名が飲み物に手を伸ばした。
(……!)
(今だ!話題を変えるチャンス!!)
「しっ……椎名さん……婚活……どういうきっかけで……はい、すみません、質問です!」
(テンパりすぎてクイズ番組みたいな口調になった)
「……っ、こほん」
「あの、改めて……どうして婚活を始めようと思ったんですか?」
さっきまであれほど滑らかだった言葉が、唐突にゆっくりになった。
テンポも、熱も、なにかを探すように変わる。
「あぁ……婚活を始めたのは……その、母が急かしてくるもので……いや、自分としてもいい人がいればとは思ってて、はい……」
(……さっきまでのマシンガントーク、どこいった?)
(そんで婚活の動機……お母さんかよ……)
「あっ、そろそろ時間ですね……楽しくて、あっという間でした!」
椎名はキラキラとした笑顔で立ち上がる。
そして、トドメのように言った。
「ちなみに、僕のオススメアニメをまとめたスプレッドシートがあるんですけど……送っても……?」
(えーと、無理。宇宙が終わっても無理。)
椎名は深々と頭を下げ、満面の笑みで言い放った。
「ではまた……次はぜひ、コスプレで聖地巡礼しましょうね!衣装、僕が用意しておきますから!!」
(……今この瞬間、私の心は……帰った)
(魂だけ、先に帰った)
結衣子は、涙目で微笑んだ。
(椎名さん……あなたは、きっと誠実な人だ。でも……無理だった……!!)
椎名が去った後、ラウンジの隅で、結衣子は静かに膝をついた。
***
その後——
結衣子は、次から次へと、数にして50人ほどの男性とお見合いを重ねた。
年収は高い。が——
「副業のNFTが暴落して、今ちょっとピンチで……」と、まさかの借金自慢をはじめる男。
見た目はおしゃれ。だが——
年に3回は「自分探しの旅」に出かけており、20年経っても自分が見つかっていない、迷子の痛ポエマー男。
離婚歴ありと正直に打ち明けてくれたかと思えば——
その5分後には、目を潤ませながら元妻への未練を語り出す、未練爆発エモーショナル男。
(……無理……)
(無理無理無理無理無理……!!!)
心の中で、何度も何度も、絶叫する。
(……それでも、私は笑ってる)
(なんで?なんでまだ、笑ってるんだろう……)
それでも、結衣子は逃げなかった。
引きつるような笑顔のまま、席につき続けた。
話を聞きながら、魂が、そっと音を立てて折れるのを感じた。
その頃には、いつの間にか、春が過ぎていた。
初めて異世界に来た日、神殿の縁側に舞っていた桜の花びらは、もう影もない。
代わりに、風鈴がカラリと揺れて、夏の入り口を告げていた。
緑は濃く、風はどこか湿って、熱を帯び始めている。
あの初対面の頃よりも、確実に季節は前に進んでいた。
でも、結衣子の婚活は、まだどこにも進んでいなかった。
***
神殿、『縁側の間』。
結衣子は、畳に正座したまま、頭を抱えていた。
「ムリィイ……!!」
喉の奥から、どうしようもなく絞り出された声が響く。
「悪い人じゃないってのは、わかってるの。わかってるけど……!」
「バカみたいな高望みなんてしてないし、贅沢言ってるつもりもないけど……それでも……私のお見合い相手って、なんで……」
ぎゅっと拳を握りしめ、顔を上げた。
「“普通の人”が、いないの……!?」
しばしの静寂のあと、神が静かに問う。
「普通、とは?」
問いかけに、結衣子はハッとする。けれど、すぐに言い返すように言葉をぶつけた。
「……だって、私、普通の人と結婚したいだけなのに……!」
「同じ職場の人たちなら、みんな年収1000万超えてたし、高身長で清潔感あって、イケメンもたくさんいたのよ!?」
「私、ずっと、そういう人たちと付き合ってきたの!」
結衣子の声が、少しだけ震えた。
神は、それを遮ることなく静かに告げた。
「……その“たくさん”の中で、結婚してくれると言った男は、いたか?」
結衣子の脳裏に、過去の男たちの顔が浮かぶ。
——「子供が熱出したから、嫁が早く帰れって言ってる。結衣子ちゃん、ひとりで帰れるよね?ここ払っとくから。じゃあね」
(……え!?彼女いないって言ってたよね!?結婚してたの!?子供までいたの!?)
——「ごめん、結衣子ちゃん。すごく悲しいけど……俺、結婚することになったんだ。だからもう会えない。でも、愛してるのは君だけだから」
(は!?……いやいや、意味わかんない!! じゃあ私と結婚してよ!!)
沈黙の中、神は目を伏せたまま言葉を継いだ。
「彼らが輝いて見えたのは、隣にいた誰かが、その魅力を引き出してきたからだ」
「……人は皆、誰かに見つけられて、ようやく“その人らしさ”を持てるのだろうか」
結衣子は、がくりと肩を落とす。
(……そんな……)
すぐ隣で、ハッピーがふと彼女に目を向け、静かに言った。
「お見合い相手の男の人ら、悪い奴やないんやけどな。ただ、女性への接し方が、ちょっと下手くそなだけや」
しばらくの沈黙。
そして、ぽつりと続けた。
「……まじめで、誠実で、ええ人ほどな、異性の前では不器用で、自分をうまく見せられへん」
「ほんまは、ちゃんと向き合えば光る人やのにな……婚活やと、それが伝わる前に“ナシ”ってされてまうんや。——悔しいけど、それが現実や」
その言葉のあと、ふいに沈黙が落ちた。
——畳にぽたりと落ちる涙の音が、静寂を際立たせる。
喉の奥が焼けるように熱くて、声にならない。
けれど、呑み込んでばかりの悔しさは、もう限界だった。
「……じゃあ……」
結衣子は、ぐしゃぐしゃの顔のまま、天を仰いだ。
「じゃあ、なんで32になってから、こんな目に遭わせるのよ……!!」
「もっと若いうちに婚活させてくれてたら、もっとマシな人と釣り合ったんじゃないの!?どうして……!」
神は、静かに目を伏せた。
その眼差しには、一瞬だけ、迷いのような光が揺れていた。
「……それより前は、“若いからまだいい”と、君自身が拒んだのだ」
「……え?」
「私は、何度となく声をかけた。だが、君は毎度こう言った」
「“まだ遊びたい”」
「“いまの彼と結婚するから”」
「……そのたびに、私は記憶を消して、君の前から姿を消した」
結衣子は、はっと目を見開く。
「そんなの……知らない……」
「32になって、ようやく君はこの世界を受け入れた。故に今、こうしてここにいる」
「……望まぬ者に、無理やり結婚させるわけにはいかないからな」
(……知らなかった。そんなこと、まったく覚えてない……)
でも、思い返せば。
若い時はずっと、根拠もない自信で「今じゃない」「まだ若いから」と、たかをくくっていた。
「でも……でもね……!」
結衣子は、食い下がるように、言葉を吐き出した。
「明らかに“釣り合ってないカップル”でも、うまくいってる人たちって、いっぱいいるじゃない!努力次第で、スペック差って乗り越えられるんじゃないの!?」
神は、ゆっくりと頷いた。
「差があると、必ず失敗するとは言っていない。互いの努力でその差を埋めていけるのなら、成立する」
結衣子は、ぎゅっと唇を噛んだ。
「……じゃあ……じゃあ、こんな私でも、“良い”って言ってくれる人がいるかもしれないってことよね!?」
「……それはそうだが……」
「だったら……私、自分で見つける!」
「一人ひとりお見合いするより、効率のいい方法があるわ!いまは、“出会いの時代”なんだから!!」
結衣子は、勢いよく立ち上がって走り出した。
「ッ……椿!!」
「ごめん、しばらく……ほっといて……っ!!」
神が止めようとするのを、ハッピーがそっと制する。
「……神さん。ええんや」
「だが……彼女には時間がない。こんな寄り道をしている余裕は——」
「せやけど、急がば回れって言うやろ?」
ハッピーが、ふっと笑った。
***
息を切らしながら、結衣子は走っていた。
傾きかけた陽が差し込む石畳の通りを、着物の裾を押さえて、ひたむきに。
(……怖い。また、ひとりで婚活するなんて)
(でも、あの中から一人を選ぶなんて、絶対に無理)
怖さと迷いが、心の奥で渦を巻いている。
けれど、それをすべて押し込めて、結衣子は足を止めなかった。
(やるって決めたんだから、とことんやるんだ)
焦りとも覚悟ともつかない衝動に突き動かされ、神殿を飛び出す。
風と、心臓の音だけが世界を満たしていた。
——と、不意に。
通りの先で、風に揺れる一枚のポスターが目に入った。
《街コン開催!参加者募集中》
貼られた紙の端が、風を受けてふわりと揺れ、夕陽を反射して、きらりと瞬いた。
(……これだ)
言葉にならない確信が、心に静かに灯る。
誰かの声でも、誰かの期待でもない。
これは、自分の中から生まれた炎だった。
(上から目線の婚活はもうやめた。私に釣り合うレベルも、よくわかった)
(ここにどんな男性がいても、お見合いの人たちよりは素敵って思えるはず)
心の奥に、じわりと温かいものが満ちていく。
不安はまだある。けれどその隣に、勇気が芽生えていた。
(今の私なら、なんでも挑戦できる気がする)
(王子様とは言わない。“”普通の人”に出会える可能性がある限り——)
結衣子は、ゆっくりと拳を握った。
風が頬を撫でる。その手には、これまでにない確かな力が宿っていた。
進もう。
この手で、自分の未来をつかみ取るために。
***
32歳の誕生日。
牛丼に溺れて、気づけば迷い込んでいた、“結婚しないと帰れない”異世界。
幻想的な和風ファンタジーに彩られた、美しくも残酷な、リアル婚活サバイバル。
昔は、王子様が迎えに来てくれるって、本気で思ってた。
それが叶わなくても、“普通の結婚”くらいは、誰にでもできるものだと思ってた。
だけど、今ならわかる。
平凡に見える幸せほど、いちばん手に入りにくい。
“普通”は、奇跡の連続でできている。
だからこそ——
その奇跡を、自分の手で掴んでみせる。
未来の私が、心から笑えるように。
結衣子は、ぐっと拳を握った。
新たな戦場を、まっすぐに見据えながら。
次回:特別読切①『奥田先生の結婚』




