特別読切⑤後編『向日葵の道標』
「佐久間さん、ですねぇ。ご入会ありがとうございます。担当仲人のおりんです〜」
玄関に現れたのは、きちんとしたスーツ姿の小柄な女性だった。
小柄ながら存在感のある女性だった。京ことばのやわらかい口調と、ひらひらとした身振りが印象的だ。
「……あら!?お着物〜!キマってはりますね〜!」
「はは。ありがとうございます」
「着付け、ご自身でなさってるんですか?」
「そうですね。不思議なことに、今まで着てこなかったんですが、突然、着られるようになっていたんです。不思議な話ですが」
「へぇ!?やぁ〜、珍しいこともあるもんですなぁ。大和魂っちゅーやつなんでしょうか」
おりんはにこやかに笑いながら、佐久間を玄関脇に招き入れる。
靴を脱ぎ、廊下を進むと、建物の奥にある静かな面談スペースへ案内された。
和風のインテリアに、季節の花がさりげなく飾られており、相談所らしい、落ち着いた空気が漂っていた。
おりんはソファをすすめ、自分も向かいに腰を下ろす。
「さて、佐久間さんは会計事務所勤務で……今年、公認会計士試験を受けられるご予定、っと」
「はい」
「……それにしても、先週いただいたプロフィール写真と、えらい垢抜けはりましたなぁ。撮り直した方がええんちゃうかいうほどに。なにか、ありました?」
「……おかしなことを言うようで申し訳ないんですが、なんだか、長い長い夢を見ていたようで」
一拍、言葉を選ぶ。
「おりんさんに付いてもらって、お見合いを繰り返して、合間に試験勉強をして……夢の中で資格まで取っていました。でも、気づけば四月一日で、記憶だけが残っていたんです。周囲には、どうしても信じてもらえなくて」
「……そりゃまた、奇怪どすなぁ」
「はい。けど、あまりに鮮明で……まるで、実際に過ごしてきたかのような」
「ほな、試験勉強もうせんでええんちゃいます?」
「……そうですね。何事もなければ、全問正解できそうです」
「……でもまあ、全問正解なんてしたら、逆にバケモン扱いされそうやけどねぇ。ふふっ……ちょっと気になるんで、その話、今度詳しく聞かせてもろてええですか?」
「もちろんです。……自分でも不思議で。なんだか、すみません」
「ええんですよぉ〜。では、本題に入りますね!」
手帳をパラパラとめくりながら、おりんは姿勢を正す。
「佐久間さん……ほんまに、女性のスペック、気にせぇへんの?いや、確認なんやけどな」
「はい。気にしません。おりんさんのことは信頼しているので、素敵な方を紹介していただけると……」
「……それなんやけどな。あんた、おそらく公認会計士とらはるやろ?正直いうてな……引く手数多やねん!!!」
まさかの声量に、佐久間は一瞬肩をすくめた。
「顔も整ってはるし、性格穏やかやし、年収で言うたらもう、金の卵やで!?うちでは保護対象やからな、ほんまに!!」
「そ、そうですか……?」
「せやから、軽々しくそこらへんの女あてがうわけにはいかへんのよ……ただな、うちのイチオシが一人、おんねん」
ふいに、おりんの声色が真剣なものに変わる。
「賢くてな、めっっっちゃ性格のええ、スタイルも抜群な、それはそれはも〜〜う、誰もが振り返るレベルのべっぴんさんが」
「……」
「年齢は、31歳なんやけどな。ちと、この子、事情があんねん」
佐久間は、静かに頷いた。
「……その方、ぜひ紹介していただけますか」
*
春の陽射しがまぶしく降り注ぐ昼下がり。
佐久間は、お見合い会場最寄りの駅に降り立った。
和装のまま改札を抜けると、すぐに周囲の視線に気づく。
「着物の男性って、珍しいな」
とでも言いたげなまなざしが、あちこちから注がれていた。
けれど佐久間は、その視線すら礼装の一部かのように受け止めながら、静かに背筋を伸ばすと、まっすぐ歩き出した。
駅前のコンビニの前を通りかかった、そのときだった。
カシャン、カタン——と、軽い金属音が立て続けに響く。
見ると、自転車が三台、ドミノ倒しのように連なって倒れていた。
その傍ら、ひとりの女性がしゃがみ込んでいる。
スカートの裾が、倒れた自転車のスタンドに絡まっているのか、身動きが取れないようだった。
「……失礼しますね」
「…わっ、…ありがとうございます!」
佐久間はすぐに近づき、手早くスタンドを起こすと、絡まった布をそっとほどいた。
「立てますか?」
「……はい」
女性は少し戸惑いながらも、慎重に立ち上がった。
その仕草に、どこか静かな気品があった。
頭を上げた女性の顔が、ゆっくりとこちらを向いた。
——その瞬間、息を呑んだ。
その理由は、言葉にするには惜しいほどの、透明な衝撃だった。
凛とした眉。
影さえも美しく映る、流れるような頬の曲線。
どこか憂いを帯びた瞳の奥に、やわらかく明るい光があった。
「……日向さん、ですか?」
「……へっ?は、はい……!」
少し慌てながらも、女性——日向葵は頬を染めてうなずいた。
屈託のない愛らしさが、その仕草にふっとにじんで——佐久間は思わず言葉を失いかけた。
「葵ちゃん!ごめんね〜、トイレ混んでて……あら?」
背後から、明るい声がかかる。
現れたのは、柔らかな物腰の中年女性だった。
「もしかして、佐久間さん?はじめまして。私、日向さんのお手伝いをしております、田邊と申します〜」
「はじめまして。佐久間です。どうぞ、よろしくお願いします」
佐久間が丁寧に頭を下げると、葵も控えめにぺこりと会釈した。
手元には、白杖。
事前に聞いてはいたが、視覚に不自由を抱えていることを、そのとき改めて実感した。
……不思議だった。
あの柔らかな仕草も、少し戸惑ったような声も、すべてがただ、心地よかった。
——その事実が、彼女の美しさを曇らせることは、なかった。
むしろ、今の彼女の姿に、その答えがあるように思えた。
*
和風喫茶の個室。
葵が田邊に付き添われて席に着くと、佐久間は静かに頭を下げた。
「改めまして、佐久間 晃仁です。今日はお会いできて、光栄です」
「……日向 葵です。こちらこそ、ありがとうございます」
柔らかくも張りのある声。
姿勢も所作も、ひとつひとつが丁寧で、初対面とは思えないほど落ち着いていた。
プロフィールに滲んでいた、真っ直ぐな人柄。
目の前に現れた彼女は、その印象に——息を呑むような美しさを添えていた。
(……これは、おりんさんが“推す”のも分かる)
思わず、胸の内でつぶやく。
文章に惹かれたのか、写真に目を奪われたのか。
——いつの間にか、存在そのものに引き込まれていた気がした。
そして今、ここにいる彼女は、どちらの印象も、ひとつも裏切らなかった。
「さきほどは、ありがとうございました。自転車、どうしようか困ってしまっていて……」
「いいんですよ。お役に立てて良かったです」
葵の頬が、ふとやわらぐ。
その自然な表情に、佐久間はまた息を呑みそうになる。
田邊が、控えめに葵へ声をかけた。
佐久間の見た目について、そっと補足している。
「お顔立ち、きりっとした、和装の男前さんよ」
そう言い添えて、田邊はにこやかに席を外した。
ふたりきりになる。
少しの間を置いて、葵がゆっくりと口を開いた。
「……ひとつ、聞いてもいいですか?」
「はい。なんでしょう」
「どうして、私を選んでくださったんですか?お見合い相手として……」
一瞬だけ戸惑いが走る。
けれど、その理由は思っていたよりも、すぐに口をついて出た。
「……仲人さんのおすすめが、きっかけではありましたが……日向さんのプロフィールを読んだとき、言葉のひとつひとつに、あたたかさを感じたんです」
「きっと、丁寧で、まっすぐな方だろうと……。お写真も、とても素敵で……正直、会ってみたいと思いました」
葵は、小さくうつむく。
わずかに頬が染まったように見えた。
けれどそれ以上に——心の中で、何かを確かめるような、静かな沈黙があった。
そして佐久間は、ふと気づく。
——名残惜しさが胸に滲む。そんな時間は、“あの日”以来だろうか。
*
待ち合わせ場所に現れた葵は、半袖のブラウスに、淡いラベンダー色のロングスカートを合わせていた。
初夏の風が、日差しの粒をはらいながら、街をすり抜けていく。
六月の街は、そっと夏の入口をくぐろうとしていた。
その涼やかな姿に目を奪われながら、佐久間はふと、ある一点に視線を止めた。
左の腕——。
二の腕の内側、柔らかな布地の隙間から、皮膚とは異なる色の痕跡が、くっきりと見えていた。
目を疑った。けれどそれは確かに、古傷だった。
瞬間、喉が詰まり、思わず息を呑む。
だが声には出せず、佐久間は、何でもないふりで微笑みを返した。
葵はその視線に気づいたようで、少しだけ目を伏せる。
「……見えちゃってましたか」
言葉とは裏腹に、どこか淡々とした口ぶりだった。
「4年くらい前だったかな……駅のホームから、落ちたことがあって」
「もう、目が利かなかった頃で……方向を見失って、足を踏み外して……」
佐久間は、その言葉を聞いた瞬間、血の気が引くのを感じた。
口元を、そっと手で押さえる。心の奥で、何かが軋む音がした。
「すぐに引き上げてもらえたから、電車にはぶつからずに済んだんですけど……」
「そのときに、腕と頭を打って。……けっこう、大きめに痕が残っちゃったみたいです」
涼しげな声色のまま、葵は静かに語る。
まるで他人のことのように——あるいは、長い時間をかけてようやく“語れる痛み”に変えたのだろう。
けれど、佐久間にはとても聞き流せなかった。
見えない状態で、駅のホームから落ちた——
それだけで、全身が冷たくなるような恐怖だった。
「……それは……」
絞り出した声が、かすれた。
「……怖かったでしょう……」
「……そうですね。でも、そのあとすぐ気を失って、気づいたときには、もう病院だったので」
「私より、家族のほうが……きっと怖かったと思います」
「だから、あまり言わないようにしてたんです。心配かけたくなくて」
そう言って、葵は少しだけ微笑んだ。
けれどその目元には、今もわずかに残る不安の影があった。
「本当は、ちゃんと隠してくればよかったんですけどね。……うっかりしてました。あまり、人に見せるものじゃないから」
「……隠さなくて、いいです」
佐久間の声が、静かに芯を持つ。
「僕の前では、隠さないでください。その傷も……あなたの、大切な一部なんだから」
一瞬、空気が止まったように感じた。
葵の肩が、ほんの少しだけ揺れる。
「……そんなふうに、言ってくれる方がいるとは思っていませんでした」
「……ごめんなさい、勝手に……でも……」
佐久間は、言葉を選びながらも目を逸らさずに続けた。
「……あなたが、それでも笑って話してくれたことが、すごく強いと思ったんです」
「だからこそ、守りたいって思いました」
涙ではなかった。
けれど、それに似た熱が、葵の目元にそっと滲む。
「……佐久間さん」
その声は、やわらかく震えていた。
「……どんな私でも、受け入れてくれるんですね……」
「私……安心できます。佐久間さんの、そういうところ」
ためらいがちに、けれどしっかりと口にされた一言に、佐久間の心臓が跳ねた。
葵が、少しだけ目を逸らしながら言う。
「……あの。ひとつお願いしてもいいですか」
「はい。なんでも」
「……顔を、触らせてください」
その言葉に、佐久間は一瞬ぽかんとし、次いで真っ赤になった。
「……あ、はい。もちろん、どうぞ」
葵の指先が、そっと頬に触れる。
視えない目で、ゆっくりと確かめるように——
額から眉へ、頬から顎へと、佐久間の顔をたどっていく。
小さくて、細くて、柔らかな指だった。
けれど、指先だけがほんのわずかに硬くなっている。
点字をなぞり、文字や物の形を確かめながら歩んできた時間の分だけ、
指先の皮膚が、わずかに厚くなっていた。
その指に——柔らかさと頼もしさが同居するそのぬくもりに、佐久間は不思議な安心感を覚えた。
そして、唇にふれた瞬間。
視線なんて、交わるはずのないその刹那——
けれど確かに、彼女が、まっすぐこちらを見ているように思えた。
「……優しそうな、お顔」
「……ありがとうございます……」
小さな声でそう返したとき——
なにかが、静かに心の奥で動き出した。
なんとなく脱げないでいた和装は、もう今日で終わりにしよう。
かつての夢に繋がっていた、その象徴でもあった装いを、今日限りで終わらせよう。
これからは——
この人の隣を歩くために、生きていこう。
***
みなとに面したショッピングモールの屋外広場。
植え込みの向日葵が、夏の光に揺れながら、風にそっと首を傾けている。
その一角のベンチで、葵はひと休みしていた。
大きなお腹に手を添え、ふうっと小さく息をつく。
日差しは強い。けれど、海からの風が吹き抜けるこの場所には、やわらかな涼しさがあった。
観覧車の輪郭が、午後の陽ざしに淡く溶けかけている。
葵は、ゆっくりと顔を上げた。
まぶしい空と、きらきらした街の気配が、胸の奥まで染み込んでくるようだった。
「……さて、と」
立ち上がろうとした、そのときだった。
ふっと足元に力が入らず、体がふらつく。
と、隣に影が差した。
「立てますか?」
その声に、顔を上げる。
目の前には、そっと手を差し出す佐久間がいた。
穏やかな笑みと、まっすぐな眼差し。
「……はい」
葵は小さく笑って、その手を握り返した。
細く、けれどたしかに、心を支えてくれるような手だった。
そっと体を起こし、ふたりで歩き出す。
寄り添う背中に、静かな歩調が宿る。
それだけで、不思議と心が安らいでいく。
その様子を、少し離れた場所から見つめる人影があった。
ふと足を止めた青年は、一瞬だけ目を見開く。
けれどすぐに、目元をやわらかく緩めた。
「おとーしゃーん!」
「お待たせ〜、誠一くん!」
元気な子どもの声と、明るい女性の声が重なり、にぎやかな気配が広がる。
青年はその声に応えるように、ゆっくりと歩き出した。
まっすぐで、少し誇らしげな歩みだった。
佐久間は、葵と微笑みを交わす。
ふたりの掌は、静かに重ねられたまま。
その歩みは、陽だまりの中へと、やさしく溶けていく。
まっすぐに、彼のことを想って生きていこう。
——それだけは、きっと、変わらない。
——ようやく、僕を一番に想ってくれる人に、出会えたんだ。
次回:エピローグ〜人情の神・清玄は〜




