特別読切⑤前編『向日葵の初恋』
制服の襟元を正し、校門の前で深呼吸する。
「よしっ……」
小さく気合を入れて、一歩、踏み出した。
日向 葵、15歳。私立翠蓮高等学校、入学初日。
──偏差値の高い、文武両道のこの学校に合格するため、私はこの冬休み、人生で一番勉強した。
誰よりも努力した自信がある。
でもそれは、ただ“良い高校に入りたかった”わけじゃない。
……どうしても入りたい部活があった。ずっと憧れてきた、夢の場所だ。
「……たしか、この建物の中……」
校舎を回り込み、目当ての部屋の前で立ち止まる。
部室棟の奥。何度もパンフレットで見た、あのダンス部の練習場。
何度も全国大会に出場している、憧れの強豪だ。
──よし、行こう。
扉の前に立ち、そっとノブに手をかける。
「し、失礼します……」
おそるおそるドアを開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは――
「おっ、新入部員?」
白塗りの顔に、ドギツいアイシャドウに黒い口紅。長身で、妙に姿勢のいい男子生徒が立っていた。
「……ぎゃあああああああ!?パ、パンダーーーッ!?」
思わずのけぞりかけた背中を、そっと支える手があった。
「……大丈夫ですか」
「えっ……あ、はいっ!」
低くて落ち着いた声。顔を上げると、もうひとりの先輩が立っていた。
――静かな眼差し。鋭いのに、なぜか優しく感じる。不思議な、でも少し怖いような……
「長谷川、怖がってる」
「いや〜〜、ごめんごめん!」
ド派手なメイクの先輩が笑いながら手を挙げる。
「俺、副部長の長谷川です!よろしくね」
そして、私の後ろを指さして言った。
「そっちは同じ三年の桐島。俺、あだ名はいろいろあるんだけど……パンダって言われたのは初めてだよ〜!あっははは!」
「いえっ、大きな声出してすみません……!」
ぎこちなく頭を下げながらも、胸のドキドキは収まらなかった。
(……なんか、すごい学校に入っちゃったかもしれない)
「……怖いだろうけど、そのうち慣れると思うから。動物園みたいなものだと思ってください」
真面目な顔でそう言った先輩の言葉に、思わず笑ってしまう。
「誠一?お前も俺のことパンダだと思ってるよね?」
「……部室、こっちです」
「誠一〜?ねぇ誠一〜?」
軽口を交わしながら歩いていくふたり。
私を案内してくれたその先輩の名が、“桐島誠一”だと、このとき初めて知った。
無口で、何を考えているのか分からない――そんなふうに言われているらしい。
けれど、踊っている姿はまるで、重力を忘れたようにしなやかで、強くて、美しかった。別の世界から現れた精霊みたいに。
その一挙手一投足が、ただ美しくて、目が離せなかった。
(……高校生活、きっと、楽しくなる)
私の胸の中に、小さな光が灯った。
*
「ねぇねぇ、誰が一番かっこいいと思う?」
お昼休み。教室の隅で、ダンス部の仲間と輪になって座っていたときのことだ。
声を上げたのは礼美。にこにこと楽しげに、お弁当箱を膝に乗せている。
「私、村上部長推し!顔もいいし、あの優しさ、神でしょ!」
すかさず沙羅がうなずいた。
「わかる〜。優しいし、真面目だし、礼儀もちゃんとしてるし!学級委員やってるんでしょ?」
「でもごめん、私の推しはダンス部じゃないんだけど〜」
礼美が身を乗り出す。
「あっ、まって、わかった!!」
「それって、もしかして……」
「「「生徒会長…!!」」」
生徒会長の白鷺先輩。
入学式で現れた、通称:翠高の奇跡。
その浮世離れした美貌に、6人の新入生と、ついでに2人の在校生が鼻血を出して倒れたという伝説まである。
「あの人なんなの!?アイドル!?天使でしょ、もはや!」
「カッコ良すぎるよねー!!」
ふたりのテンションに押される中、私は少しだけ口を開いた。
「わ、私……は……」
一拍。
「桐島先輩かな……」
その瞬間、ふたりの箸が止まったような気がして、ちょっと気まずくなる。
「えっ、桐島先輩?確かに顔はかっこいいけど……ちょっと怖くない?無口だし、目つき鋭いし……」
「だよね〜。なんか近寄りがたいというか……ファンクラブあるらしいよ、あの人。ちょっとヤバめの」
「……へえ、そうなんだ」
(ファンクラブができるくらい、モテるんだなぁ……)
――ていうか、無口だっけ?
(……そう言えば、そうなのかな?)
たしかに、あまり多くを語る人ではないかもしれない。けれど——
(入部の日、案内してくれたよね)
私がよろけたとき、そっと支えてくれた手。
言葉は少なかったけど、ちゃんと目を合わせてくれていた。
それだけなのに、今でもふと、思い出す。
「もしかして、先輩のこと、気になる感じ?」
「いや!!まだそこまでは……!」
「「きゃーー!!」」
沙羅が、くくっと笑いをこらえながら言った。
「……っていうか、怖いって言うなら、私的には長谷川先輩の方が……」
「長谷川先輩!?あれは、たしかに!!ヘビメタじゃん!ギャハハハ!」
「わかる〜!私も初めて会ったとき、思わず悲鳴あげちゃった!でも、すっごく優しい人で!」
「ダンスもうまいよね!めちゃくちゃキレッキレだし!」
「そうなんだけど!!でも、あのメイクは反則でしょ!!ダンスに集中できない!!」
教室に、また笑い声が広がっていった。
*
その夜。布団の中で、まぶたを閉じる。
(……ノリで言っちゃったけど、大丈夫だったかな)
(ファンクラブとかあるくらいだし、やっぱりすごい人なんだ)
——入部の日以来、ちゃんと話していない。
練習中も、長谷川先輩としか話していないし、後輩にもほとんど声をかけない。
あれきり、距離は変わらないまま。
でも、支えてくれたあの一瞬だけは、今もはっきり覚えてる。
ただの偶然だったのかもしれないけど、思い出すたび、胸の奥がふわっとあたたかくなる。
***
それは、ある日の練習後のことだった。
一年生だけで部室の掃除をしていて、私はゴミ捨て当番になった。
ゴミ袋を抱えて、焼却炉のある裏手へ向かっていたときのことだ。
ふと、視界の端に動く影が入った。
(……桐島先輩?)
人通りのない校舎裏を、先輩がひとり歩いていた。
その少し後ろを、数人の女子が、ぞろぞろとついていく。
――ひとりが笑うと、隣も笑った。
声はない。口元だけが、順に裂けていく。
(なに、あれ……)
角を曲がって、誰ひとり見えなくなった、次の瞬間——
桐島先輩が、全力で走ってきた。
(えっ!?)
茫然とする私の前で、先輩は一瞬だけ周囲を見回し、茂みに身をかがめると、そのまま中へ飛び込んだ。
(……嘘でしょ!?)
数秒後、角の向こうから、女子たちがぬっと現れた。
「あぁ、桐島くん…。どこ……どこなの…?」
「校舎に戻ったのかしら……今行くわ…ふふふ」
あちこちをうろついた末、ゆらゆらと引き返していく。
(あれが…ファンクラブ…?)
(“ヤバい”って、そういう意味だったんだ)
私は、そっと茂みに近づいた。
「……桐島先輩?」
草の奥が、ぴくりと動いた。
「……ヒッ」
小さく跳ねた声。目が合うと、先輩は怯えたように固まっていた。
「もう、大丈夫です。誰もいません」
「……そうか」
ほっとしたように呟いた先輩が、ふいに私の背後を見た——
その瞬間、腕を引かれた。
「わっ……!」
ぐいと引き寄せられて、息が止まるほどの距離。
目の前で、先輩が指を唇に当てる。
「……シーッ」
その瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
——ガサッ。
再び足音。気配。
(戻ってきた……?)
息を潜める。風で揺れた草の音すら、大きく響いた。
やがて、静けさが戻る。
「……もう、大丈夫だと思います」
先に立ち上がると、先輩も草を払いながら出てきた。
「変なところに連れ込んだみたいになって……悪い」
「いえ……」
まだ落ち着かない様子の先輩を見て、私は声をかけた。
「怪我とか、してませんか?」
「……平気。ありがとな」
短く答えながらも、どこか所在なげな横顔だった。
「一度、練習場に戻りましょう。まだ鍵、開いてますから」
「でも——」
足音。
私は、咄嗟に先輩の手を掴んでいた。
「行きましょう!」
そのまま走り出す。先輩も黙ってついてくる。
練習場では、一年生たちがちょうど片付けを終えたところだった。
「お疲れ様です!」
礼美と沙羅が声をそろえて挨拶する。
桐島先輩も、小さく頭を下げた。
ふたりはニヤリと笑いながら、こちらを見た。
「葵!先に帰るね〜!鍵は頼んだっ!」
「桐島先輩、失礼しまーす!」
去っていく足音。
残された空間に、気まずい沈黙が落ちる。
「……桐島、先輩?」
そっと覗き込むと、先輩は肩を落としていた。
「……俺、色んな人に、嫌われてるから……」
「……え?」
(――好かれてる、じゃなくて?)
「日向さんにも……迷惑だったなって。ごめん」
うつむきかけたその姿に、私は一歩踏み出した。
「そんなこと——」
言いかけたときだった。
「やぁ」
背後から、穏やかな声。
「ぎゃっ……」
振り返ると、パンダ……じゃなかった、長谷川先輩だった。
「お疲れさま、ふたりとも」
私が慌てて頭を下げると、先輩は笑って首を振った。
「誠一が待ち合わせ場所に来ないから、探してたんだ」
桐島先輩の背をちらりと見て、ふう、と息をつく。
「葵ちゃん、ちょっと時間ある?」
「……はい」
*
その日の夕方。練習場の裏手で、私は長谷川先輩と並んでいた。
少し離れた場所では、桐島先輩が、アリの巣をじっと見つめている。
(……なにしてるんだろ)
気にはなったけど、声はかけなかった。
傾いた陽の光に照らされながら、長谷川先輩がぽつりと口を開く。
「……誠一のこと、驚いたでしょ?」
その声は、どこかあたたかかった。
「実はね、あいつ、ものすごく人見知りなんだ。自己肯定感って言葉、知らないんじゃないかってくらい」
「え……でも、あんなに人気なのに?」
「それが逆効果。本人は“嫌われてる”って思い込んじゃうから。……あいつと同中の奴から、中学の頃、だいぶ陰湿ないじめに遭ってたって噂を聞いたことがある。もしかしたら、誰かに話しかけられるたび、“裏があるんじゃないか”って身構えちゃうのかもね」
「……だから、避けちゃうんですね」
「うん。無視してるつもりはないんだけど、結果的に塩対応になって……誤解が溜まって、ファンの子たちも、ちょっとね。進化しちゃった」
“進化”という表現に、私は思わず吹き出してしまった。
「俺も話をしようとするんだけどね……。なぜか、向こうのほうが逃げてくの」
「あ……メイク、ですか」
「……あ」
ぽつんと漏れた声に、私は思った。
(この人、けっこう天然だ)
「誠一、家でもちょっと事情があってね。母親はいなくて、父親とふたり暮らし。でもその父親が、酒乱でギャンブル依存なんだ」
「……」
「家にいても怒鳴られるか、殴られるか。だからバイトしてる。成績で学費は免除になってるけど、部費は自分で払っててさ」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
どれだけのことを、ひとりで背負ってきたんだろう。
「それでも、勉強もダンスも手を抜かない。素直で、努力家で……夢もある」
「……夢?」
「うん。叶えたいことがあるらしい。忘れられない子がいるんだって。詳しくは言わないけど」
「……そうなんだ」
そのときだった。
「……話、終わったか?」
気づけば、すぐそばに桐島先輩が立っていた。
「おー、来た来た」
長谷川先輩が立ち上がりながら言う。
「大丈夫。お前がジメジメしてて情けないやつだなんて、言ってないから」
「なっ……!言ってんじゃねぇか、このインチキ生徒会長!」
「あはははは!」
……え?
「せ、生徒会長……?“翠高の奇跡”って……」
「うん、それ、僕」
「えええええっ!?」
変な声が出た。
「だって……えっ!?えぇ!?」
「“公式行事のときだけメイクを落とす”って条件で、ちゃんと学校から許可もらってるの。教師ウケ、意外といいんだよ」
「そ、そうなんですね……」
「俺、入学してすぐ孤立してたんだけどさ……。ある日いきなり、長谷川が話しかけてきたんだよ。この顔で」
*
入学して数日が経った朝、教室がざわついた。
白塗りの顔に、ドギツいアイシャドウに黒い口紅。長身で、妙に姿勢のいい男子生徒が立っていた。
「……なんだ、あれ……」
ざわめきの中、そいつは平然と俺の隣に座り、ノートを広げた。
「……おはよう。桐島くん」
「……どちら様ですか。そこ、白鷺って人の席なんですけど」
「“長谷川”と呼んでくれたまえ。そう名乗ることで、この姿で授業を受ける許可をもらった。ここは、俺の席だ」
「……白鷺くん?」
「そうだよ。長谷川ってのは母親の旧姓だけど、これは俺の“ほんとうの姿”。この姿で、お前と話をしたかったんだ」
あっけらかんとした口調に、思わず睨み返す。
「……そのツラで?嫌がらせですか」
「違うよ」
まっすぐな声だった。
「お前は、昨日俺が友達になろうと声を掛けた時、こう言った。“俺は誰のことも、自分のことすら信用できないんで、無理です。すみません”って」
「驚いたけど、その悲しくも誠実な姿に心を打たれてね。俺も、偽りない“ほんとうの姿”で過ごそうと思ったんだ。見てくれ。……今の俺は、こうやって“好き”をさらけ出してる。……この“俺”は、信じられるかな?」
一瞬、言葉が出なかった。
「……俺なんかのために、そんなことまでしなくても……」
「バカだなぁ。お前のためじゃないよ。これは俺のためだ」
不意に笑って、あいつは言った。
「お前との会話は、ただのきっかけ。今日から俺は、俺として生きる」
不思議だった。
それまで俺は、誰かと話すことが怖くて。
嫌われないようにするにはどうすればいいかって、そればかり考えて。
考えて、失敗して、また考えて……
その繰り返しに疲れて、もう、無理だって――そんなことばっかり、思ってたのに。
「……なんかそれ、かっこいいな」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
長谷川は、にっこり笑った。
つられるように、俺も少しだけ笑みを返す。
「今度、俺にも教えてくれよ。その……ハロウィンメイク」
一拍。
「……ヘビメタ、な」
その朝から、少しだけ世界が違って見えた。
あいつは無理に踏み込んでこなかった。けれど、いつもそばにいた。遠すぎず、近すぎず、黙って支えてくれていた。
放課後、練習場の前で長谷川が言った。
「ダンス、見てかない?」
「……はぁ!?俺みたいな陰キャが踊るとか、ありえないし!!無理無理。ぜったい笑われる……」
「でも、“興味ある”って言ってたじゃん。俺も、いくつか悩んだ中の一つだったんだ。見るだけ見てみようよ」
……それが、始まりだった。
気づけば、自分の中にあった色々な感情が、少しずつ動き始めていた。
あいつは、俺を変えた。
誰にも開けられなかった扉を、勝手にノックして、勝手に居座って、勝手に風を通した。
たぶん俺は、初めて“誰かを信じる”って感覚を知ったんだと思う。
……なんで、こんなふうに誰かを支えられるんだろう。そう聞いたとき、長谷川は言った。
「俺は、お前みたいな苦労とかしてないし、気持ちが分かるとか、適当な嘘並べるつもりもないから、同情とかはできない」
「ただ、俺は今、友達に手を貸せるくらい、心が満たされてる。お前は、きっと満たされてないから、そうやって聞くんだろう」
「……そうかもな」
「人ってさ、自分が満たされて、初めて誰かを満たそうと思えるんだって。……だから、いつかお前も余裕が出たら、そのときに手を差し伸べてやりゃいいよ。……って、これは、白鷺家の家訓みたいなヤツね」
「……俺としては、お前と仲良くしたくて、友達になった。んで、友達が困ってたから、支えた。そんだけだ」
そう言って、あいつは笑った。
*
桐島が話し終えると、長谷川は大笑いした。
「そうそう!!誠一、誰にも心開かねぇから気になってさ!クール気取ってるのかと思ってたけど、話してみたら、結構面白いヤツなのよ。アホで」
「うるせぇな……」
「こいつのアホ話、いっぱいあるんだよ!聞く!?この前なんてさ、男子トイレの鏡の前で——」
「やめろーー!!!」
顔を真っ赤にして怒鳴る桐島先輩を見て、私は——つい、笑ってしまった。
……こんなふうに笑うの、久しぶりかもしれない。
***
あれから、メイクを落とした長谷川先輩……いや、落としたときだけは、“白鷺先輩”か。
白鷺先輩としてファンクラブの女の子たちに注意したら、なぜか全員がその場で吐血。
静かに、従ってくれたらしい。
以来、“白鷺先輩”を求めて校内をさまよう女子がちらほら現れたけれど、まさか長谷川先輩だとは誰も思っていないようで、学校の平和は見事に保たれている。
……どうして先生たちが、あの偽名を使わせたのか。なんとなく、分かった気がした。
ファンの付きまといがなくなってから、桐島先輩の表情が、前よりやわらかくなった気がした。
――全国大会の県予選。
会場に、“翠高の奇跡”こと白鷺先輩が現れたとき、会場の一年生たちがざわついた。
「…は!?生徒会長!?」
「やば……美人すぎ……」
「人間?いや神?」
その大騒ぎに、上級生たちは肩を揺らして笑っていた。
結果は優勝。無事、全国大会に駒を進めた。
全国大会。
私たちのチームは、3位入賞。
白鷺先輩はソロで2位。
桐島先輩は、審査員特別賞を獲得した。
「おめでとうございます」そう伝えると、桐島先輩は、少し照れたように笑った。
*
——そして、卒業式。
あの日の体育館には、春の匂いと、少しの別れの気配が漂っていた。
壇上で名前を呼ばれた三年生たちが、一人ずつ前を向いて歩いていく。
私は拍手を送りながら、その姿を見上げていた。
——桐島 誠一。
その名前が呼ばれた瞬間、胸の奥が、少しだけきゅっと痛んだ。
長谷川先輩が言っていた。「忘れられない人がいる」って。
きっと、桐島先輩の心には、ずっと誰かがいたのだろう。
それでも、私はここまで来てしまった。
初めて出会ったとき。逃げるように、ふたりで茂みに隠れたあのとき。
ダンスに真剣に打ち込む横顔も、照れながら見せてくれた笑顔も——ずっと、先輩のことを目で追ってきた。
気づけば、私は先輩の隣に立ちたいと思っていた。
その気持ちはもう、抑えられないくらい、大きくなっていた。
式が終わると、拍手の波が静まり、春の空気が校庭を優しく包み込む。
卒業生たちは友人同士で写真を撮ったり、泣きながらお礼を言い合ったりしていた。
私はその隙間を縫うように、ゆっくりと歩き出す。
——言わなきゃ、何も終われない。
制服の胸ポケットには、折りたたんだままの白い便箋。
握りしめた手のひらには、汗がじんわりとにじんでいた。
中庭のほうへと歩いていくと、先輩の背中が見えた。
少しだけ、肩の力が抜けているように見えた。
春風が髪を揺らして、やわらかく光っていた。
「桐島先輩……!」
声に振り向いた彼の目が、少し驚いて、それからやわらぐ。
「……日向」
その瞳に映った私は、どんな顔をしていただろう。
きっと、今にも泣き出しそうな、でも、ちゃんと前を向いている——そんな顔だったと思う。
胸ポケットの便箋を握りしめたまま、私は深呼吸をした。
「卒業、おめでとうございます!……あの、その……言いたいことがあって」
「……うん」
風が吹いて、校庭の砂が舞う。誰かの笑い声が遠くで溶けていく。
私は一気に言った。
「先輩のこと、みんな好きですよ!ダンス部の子たちだって、誰も嫌ってなんかいません。みんな、先輩をすごいって思って、見てました。つきまとってた子たちも……好きすぎて、ああなっちゃっただけで」
先輩は、困ったような顔で、黙って頷いた。
「それで……その……」
顔が熱い。けれど、もう止まれない。
「——私も、先輩のことが好きです!」
呼吸が詰まる。手が震える。
先輩は、喉の奥で一度息を呑んだ。
「……ありがとう。——でも」
俯く気配。胸が沈む音がした。
分かってた。分かってたけど——。
「……忘れられない人が、いるんですよね?」
先輩の肩が、びくっと揺れた。
ゆっくり顔を上げたその表情は、驚きと、少しの警戒と、そして困惑。
「……どこで」
「長谷川先輩から、聞いちゃいました。ごめんなさい」
一瞬だけ目を伏せ、それから私は笑った。
「でも、好きなんです。人間としても、異性としても」
言葉を切る。息を吸う。
「他の人は信用できないってことも、あるかもしれません。……でも」
「私みたいな、先輩のことを好きな女がいたってこと——それだけは、信じてくれますか?」
春の光が、先輩の横顔の輪郭を照らす。
長い沈黙。でも逃げない。目をそらさない。
やがて、彼はほんの少しだけ息を吐いた。
「……うん」
その一音だけで、泣きそうになった。
「へへ……それなら、OKです!」
いつもの調子で笑ったつもりなのに、声が震えていた。涙がこぼれそうで、必死で上を向く。
「聞いてくれて、ありがとうございました!」
深く頭を下げる。その拍子に、胸ポケットの便箋がくしゃっと音を立てた。
けれど私は、それには手を伸ばさず、鞄の中から取り出していた。
「これ……みんなからです」
差し出したのは、ダンス部の後輩たちで用意した、色紙の寄せ書きだった。
「“桐島先輩みたいになりたい”って、みんな書いてました」
桐島先輩は一瞬目を見開き——それから、そっと受け取った。
「……ありがとう」
便箋の中には、言いたかったことを全部詰め込んでいたけれど——もう、全部言ってしまったから。
……だから私は、手紙を渡さないことにした。
目を閉じて、涙が引くのを待って——顔を上げると、先輩は何か言いかけていて。
「日向——」
「あ、日向!」
背後から駆けてくる声。
振り返ると、村上部長が息を切らして立っていた。
卒業式でもらった花束を、抱えたままの姿で。
「ごめん、ちょっといい?」
「あ……はい!」
村上部長は、ちらと先輩に目礼する。
「桐島、あとで写真撮ろうな」
「……あぁ」
私は軽く頭を下げ、村上部長に腕を引かれるように歩き出した。
数歩離れたところで、振り返る。
先輩はまだそこに立っていて、春の光の中で、少しだけ笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で「ちゃんと伝えられた」と思った。
これでいい。
結果はどうあっても、私は逃げなかった。
*
「俺、ずっと日向のこと好きだった。……本気で」
あまりにも意外な告白に、言葉が出なかった。
だって私の目には、ずっと桐島先輩しか映っていなかったから。
「……今、桐島先輩にフラれたばかりで……。ごめんなさい。ちょっと、気持ちの整理がついてなくて……」
そう伝えると、村上部長は慌てて首を振った。
「いや、無理に付き合えってわけじゃないから。だから、友達からでもいい。ゆっくりでいいからさ……」
その笑顔が、まっすぐで、優しかった。
私は、「はい」と頷いた。
それからの日々は、静かで、やさしかった。
部長は私のペースに合わせてくれて、距離は少しずつ近づいていった。
ふと気づけば、自然と手をつなぐようになっていた。
春の午後の光の中で、隣にある手の温もりが、胸の痛みをそっと和らげてくれた。
——このまま、幸せになれるかもしれない。
そう思いはじめた、ちょうどその頃だった。
高校三年の春。
最初は、黒板の文字が少し霞んで見えただけだった。
でも、検査の結果は——
「進行性の視神経疾患。緩やかに視力が落ちていき、やがて失明する可能性があります」
医師の声が、遠くで響いているように聞こえた。
そのことを伝えた日、彼は「大丈夫だよ」と笑ってくれた。
けれど、その笑顔には、かすかな歪みがあった。
日ごとに見えにくくなる私を前に、彼の言葉が減っていく。
沈黙が増えて、笑顔も少しずつ、減っていった。
——ああ、もう限界なんだ。
そう思った私は、笑って、嘘をついた。
「私……好きな人ができたの。だから、別れてほしい」
彼はしばらく黙ったまま、私を見つめていた。
驚いたような顔。その奥に、一瞬だけ安堵の影が滲んだ気がした。
私は、泣きそうになりながら、無理に笑った。
本当は、引き止めてほしかった。
「それでも一緒にいたい」って、言ってほしかった。
でも、苦しませたくなかった。
——ただ、それだけだった。
彼は、小さく頷いた。
「……わかった。別れよう」
……それきり、何も言わなかった。
***
その後、私は大学に進み、教員免許を取った。
見えなくなっても生きていけるように。——それが理由だった。
恋愛は、しなかった。
……怖かったのだ。
大切にされた先にある別れが。
捨てられることが。
今なら、少しだけ分かる気がする。
あのとき桐島先輩が抱えていた、深く根の張った恐怖。
社会人になった私は、盲学校で教師として働きはじめた。
気づけば、三十路を越えていた。
そんなある日、同僚の結婚式に出席することになった。
晴眼者の旦那さんは、マイクを握りながら、少し照れくさそうな声で笑った。
「妻とは、結婚相談所で出会いました。正直に言うと、最初は“条件が合うかな”って、軽い気持ちでプロフィールを開いたんです。そこに、“目が見えない”って書いてあって……びっくりしました。でも、文章のひとつひとつに、彼女の優しさが滲んでいて。気づいたら——会ってみたい、って思ってました」
——“目が見えない”と書かれた時点で、選ばれないことも多いはずだ。それでも、この人は。
「実際に会ってみたら、もう……驚くほど、素敵な女性で。正直、会う直前までちょっと迷ってた自分が、情けなくなるくらいでした」
場内に、くすくすとした笑い声が広がった。
彼は少し間を置いて、言葉を整えた。
「もちろん、目が見えないというのは、不便なこともあります。けど、僕たちの愛の前で、それが“障害”になったことは一度もありません。彼女と出会ってから、僕のほうが変わったんです。守りたいと思ったので、サービス介助士の資格も取りました。これからは、どこへ行くにも、彼女と一緒です」
ぐすっ、と鼻をすする音が、静かな会場にふっと響いた。
隣から、小さな気配が伝わってくる。
新婦の涙をぬぐったのだろう。きっと、嬉し涙だったのだ。
……いいなぁ。
心から、そう思った。
私はずっと、恋愛が怖かった。
でも、本当はずっと——愛されたいと思っていたのだ。
気づけば、胸の奥に、そっと熱が灯っていた。
……私、結婚したい。
誰かと寄り添いながら、生きてみたい——心の底から、そう思った。
そう思った私は、スーツを着て、結婚相談所“紅の鐘”の門を叩いた。
期待より、不安のほうがずっと大きかった。
条件を見られる世界。過去や、見た目や、年齢で判断される場所。
けれど——それでも、出会ってみたかったのだ。
目が見えない女性だと、最初から知っていて、それでも「会ってみたい」と思ってくれる人に。
……そんな人が、本当にいるのかは、わからない。
それでも私は、震える指先で、ひとつひとつの文字を打ち込んでいった。
見えないこと。今の生活。ありのままの私。
それらすべてに、ほんの少しの勇気と、できるかぎりの誠意を込めて。
「どうか、誰かに、届きますように」
——そう祈るようにして、申込みボタンを押した。
それが、もう一度歩き出すための、小さな一歩だった。
そして——
あの日、駅前で、自転車を起こしてくれた、あの人と出会ったのだ。
——私の物語は、ここからまた、始まる。
次回:特別読切⑤後編『向日葵の道標』




