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【完結】結婚できない女が『普通の男でいいのに』って言ってたら、神様が本気で婚活させに来た。/『泡沫 月華の縁結び〜だから、普通の人でいいんです〜』  作者: 蜂屋
私らしさが未来になる

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29/32

最終話:だから、あなたがいいんです


「……お客さーん……?」

「ちょっと、大丈夫ですか?お客さーん!」



誰かが呼ぶ声がする。

遠くから、じわじわと、こちらへ近づいてくる。

それは、焦ったようで、でもどこかあたたかい声だった。



「おい、救急車呼んだほうがいいか!?」


「だからあなた、まず体起こしてあげてってば!」



目の前で交わされる、どこか“夫婦”らしいやりとり。

その声に、頭がゆっくり現実へ引き戻されていく——。


視界がぼやけて、鼻をつくのは、甘辛い肉の匂い。


「……んがっ!」


ぐつ、という感触と同時に、顔を上げた。


「ぶはぁっ!!」


醤油と米と、玉ねぎの香り。

カウンターの向こうには、心底驚いた様子の男性と、ティッシュを差し出す女性。



「ちょっ、大丈夫ですか!?顔、突っ込んでましたよ!?」


「ほら、これで拭いて!」



——午後十時二十四分。

牛丼屋のカウンター席。

濡れた頬と、まぬけな心拍だけが、やけに現実的に感じられる。



(……人間の夫婦……?)



思わずそんなことが頭をよぎった。

優しいやりとりも、差し出されたティッシュも、ひどく“現実的”すぎて、戸惑う。


ふいに、横から声がした。


「よかったら、どうぞ」


ふわりと、視界に差し出されたハンカチ。

浅縹色。


その青に、心がふっと止まる。

見覚えがある。忘れたくても、忘れられるわけがない。


結衣子は、ハンカチを受け取る。


「……もう、汚せないよ」


ティッシュで顔を拭きながら、ふっと笑った。


視線をたどると、そこにいた。


スーツ姿の誠一が、耳まで真っ赤にして、照れたように顔をそらしている。


「……誠一くん」


その名前が、自然に口をついて出た。


ただ、それだけ。

けれど、それだけで、胸がぎゅっと締めつけられる。


誠一は、なにか言いたげに口を開きかけて——

それをやめて、代わりに頭をかいた。


隣同士で、黙って座る。

静かな、夜の牛丼屋。


照明の下で、お互いのぬくもりだけが、じわりとそこにあった。




***




遠くで、誰かの声がする。



「お、お兄ちゃん……!やだ、ねぇ、起きてよ……!!ねぇ……!お兄ちゃん……っ!!」



視界が、ぐにゃりと揺れた。

顔のすぐそばで、くるみが泣きそうな顔で必死に叫んでいる。



「お兄さん……!本当に……ありがとう……でも、お願いだ……頼む、起きてくれ……!」



今度は、父親の声。

すぐ隣にいた母親は、何かに気づいたように立ち上がった。



(……俺は……)



母親が、震える手でミモザの花を拾い上げた。

その瞬間、急に現実が押し寄せてくる。



体中がじんじんと痛む。でも、動ける。

呼吸もできる。脈もある。



「……生きてる……」



地面に手をついて、ゆっくりと体を起こす。


母親が拾った花を、誠一のもとへと差し出した。

少し崩れてはいたけれど、それでも、形はちゃんと残っていた。


誠一は、静かにそれを受け取り、小さく息をついた。


……あの日と、同じだった。

けれど、違った。


今回は——

助けてもらったんだ。

ほんの少しの奇跡に、間に合わせてもらった。


くるみたちも、自分も、ちゃんと、生きている。


誠一は、潰れた紙袋をそっと胸元に抱き直した。

そして、ぽつりと小さくつぶやく。


「……会いに行こう」


あの時、伝えきれなかったことを。

誤魔化してしまった、本当の想いを。


——彼女がすべてを知るときに。

——あの日の続きを、今度こそ。


ミモザが、ふわりと揺れた。

彼女のことを思って選んだ花。


優しさを伝えたくて、綺麗だと思って、似合うと思った。


……でも今の気持ちには、ちょっとだけ届かない気がした。


「……これだけじゃ、ないよな。」


小さくつぶやいた。


ミモザをそっと抱え直すと、誠一は立ち上がる。


救急隊や警察の対応が落ち着いたのを見届けて、くるみたちに軽く会釈し、静かにその場を後にした。

彼は足早に向きを変え、夕暮れの街へと紛れ込んでいく。


——伝えられなかった想いを、今度こそ伝えるために。





誠一は、掌のなかの小さな箱をそっと確かめた。


コートの内ポケットにしまい直すと、深く息を吐く。

鼓動が、うるさい。

300年ぶりの鼓動なのに、味わう余裕なんて、どこにもなかった。


ドアの前で立ち止まり、

最後に、息をひとつ整える。


——午後十時二十四分の、少し前。

君が32歳になる、その瞬間に間に合うように。


誠一は、牛丼屋のドアを静かに押した。




***




「……それにしても、神様がこんなにヘタレだなんて思わなかったよ」


ぽつりと結衣子が言う。

夜風が吹き抜ける歩道。ちらほらと通行人の気配があるなか、誠一は黙って歩いていた。


「……私だって人間なんだ」

「そういう弱さくらい、あって当然だろう」


その声に、ふと空気が変わる。

どこか落ち着いていて、静かで、まるで“あの神様”のときと同じようだった。


「……あれ?また“神様”に戻った?」

「……まさかとは思うけど、二重人格?いくらなんでも変わりすぎじゃない?」


結衣子の言葉に、誠一は肩をピクリと揺らした。


「ち、ちがっ……!」


声が出た瞬間、自分でも驚いたように周囲を見回し、慌てて身を寄せる。


「人がいるからだよ……素なんか、出せるわけないでしょ……!」


その声はかすかに震えていて、苦笑いの気配を含んでいた。


ちょうどそのタイミングで、人の気配が遠ざかる。

灯りだけが照らす歩道に、ふたりきり。


誠一は少しうつむいて、静かに続けた。


「ずっと演じてたんだから……そりゃ、引っ張られるよ」

「それに……元々、外じゃ、ああいう感じでやってたの」


自分でも笑えてくるのか、誠一の口元が少しだけ歪む。


「俺、人と目もまともに合わせられないし、空気読もうとしても外すし……だから外ではずっと、堂々とした“それっぽい男”を、必死で演じてた」

「言葉は慎重に、口数は最小限。そうしてれば、ボロが出ないで済むでしょ。……素の俺なんか見せたら皆に、“よく喋る虫だなぁ”って思われて、距離を置かれていく未来しか見えないし……」


最後の一言を落としたとき、彼の顔に浮かんでいたのは——

苦笑とも、諦めともつかない表情だった。


結衣子は、ぐっと口元に手を当てた。

出ちゃいけない笑いが、どうしてもこみあげてくる。

あまりにも誠一が、“誠一すぎて”。


「……わ、笑うなよ……」


視線をそらして、拗ねたようにつぶやく誠一。

でもその横顔は、頬をほんのり染め、涙がじわりとにじんでいた。


その言葉を遮るように、結衣子は彼の顔を両手でむにゅっと挟んだ。


「こら、泣かないの」


ほんの少し笑って。けれど、その声はまっすぐであたたかかった。


「“神様”だった時も、たしかにかっこよかったよ。でも……気づいてたかな」

「私が本当に惹かれはじめたのって、たぶん——神様の中に、“誠一くん”が見えはじめた時からなんだよね」


誠一は目を伏せたまま、微かに息をのむ。


「……これからは、強いふりしなくていい。弱いとこも、ダメなとこも、ぜんぶ見せて」

「誰よりも不器用で、自信のなかったあなたが、全身全霊の演技で、私を導いてくれた」

「この世界の誰よりも、私を愛してくれてた」

「……私は、そんな“桐島誠一”に惚れたんだから」


それは、誠一にとって“初めて”の言葉だった。


誰にも見せられなかった素の自分が、

今、初めて——救われた。


そして、誠一の目元に、もう一度光が滲んだ。

でも今度は、その涙が、笑顔と一緒だった。


「……俺、ずっと後悔してたんだ。結衣子ちゃんを、あんなふうに傷つけたこと」


夜風が頬をなでるたび、誠一の声が、少しずつ熱を帯びていく。


「言い訳にしかならないけどさ……“幸せな家族”だなんて、あの頃の俺にとっては、それこそ幻想みたいなもんだった」

「だから、幸せそうな親子を見かけても、どうせうわべだけだろうと思ってたし──そんなニセモノ、俺には必要ないんだって、信じてた」

「でも今になって思うと、あれはただ……永遠に手に入らないって現実から、自分を守りたかっただけなんだ」


悔しそうに、ほんの少しだけ、奥歯を噛みしめる。


「手にしてる人を見るたびに、羨ましくてたまらなくて。積もり積もった妬みが、いつの間にか、諦めに変わってた」

「死んで、神になって──君を幸せに導く役目をもらったとき、思ったんだ」

「……よかった、って」


声が、かすかに震える。


「俺がひとりなことに変わりはない。でも、他でもない君が、“幸せな家庭”を得るために、俺を必要としてくれる。それなら俺は、役に立てる」

「……これが、俺の幸せなんだって。これで満足なんだって。自分に、そう言い聞かせて。気持ちを押し殺して──なんとか納得しようとしてた」


けれど。


「でも……ダメだった」

「君に触れられた瞬間……想いが──全部、崩れた」

「……あの時は、本当に、ごめん。ひどいこと言って……拒絶されるのが怖くて、謝ることもできなくて……ほんとにごめん」

「無理に、許さなくていい。気のすむまで、怒ってくれていい。でも、それでも──」

「俺は、結衣子ちゃんじゃなきゃダメなんだ」


それは、強さじゃなく。

今の誠一にできる、たったひとつの本音だった。



「……いいの。もう、いいんだよ」



結衣子はそっと答えた。

まるで、傷口に手を添えるような、静かな声で。



「私も、あなたがいい」



その言葉に、誠一の表情が一瞬だけ崩れる。

でもすぐに、困ったような、けれど限りなく優しい笑顔に変わっていく。


そっと、結衣子の頬に手を伸ばす。

撫でるように触れた指先が、震えていた。



「……結衣子」



名前を呼ぶその声に、心臓が跳ねる。



「俺、初めて会った時から、ずっと——ずっと、君のことが好きだった」


「……うん」


「君を愛してる、結衣子」

「この世界の誰よりも。俺の全部をかけて、君を幸せにしたい」



誠一は、そっとスーツのポケットに手を入れた。



「俺なんかが隣にいていいのかって、まだ怖いよ」

「けど——怖いままでも、君の人生に並びたい。君と、家族になりたいんだ」



そして——

小さな箱を取り出し、まっすぐに結衣子へと差し出す。



「……俺と、結婚してください」



箱のなか、リングがやわらかに光っていた。


結衣子の目に、涙が浮かぶ。



「……はい」



誠一の手が震える前に、結衣子がその手を包み込む。


ふたりは、そっと見つめ合った。


結衣子が目を閉じた、その瞬間——

世界が、静かにひとつになった。


世界の喧騒から少しだけ離れた、夜の道端で。

ただふたりきりの時間が、しん、と音を立てて息づいていた。




***




——天界。

白木の床と、金色の光に包まれた、ゆるやかで静かな執務室。


上司はタブレット片手に、ゲームのラストステージを見届けていた。


「ぃよっしゃあ……!これで“天界ふにふにパズル”コンプリートっと……」


画面の片隅には、結衣子と誠一が並んで歩く姿が、小さく映っている。


「……佐久間と結ばれる未来も、あったんだけどねぇ」


ぽつりと呟いて、ひとつため息。


「でもまぁ……こっちの未来も、悪くないか」


「んなこと言うて、最初っから誠一推しやったくせに」


ソファにだらんと寝そべっていたハッピーが、片目だけ開けてツッコむ。


「ありゃ、お見通し?まぁ〜、本当にダメだったら、あんな未練タラタラなチェリーボーイなんか、仲人にしないからねぇ」

「……あいつさ、似てると思ったんだよ。俺に。だから、俺みたいになってほしくなかった。でも──」


「でも?」


「……俺よりヤバかった。300年片想いとか、正気じゃないわ。こっわ……」


「ダーーッハッハッハ!!それな〜!アイツはヤバい!!」

「……ま、うちはずっと、“結衣子がほんまに幸せになれるんやったら、どんな男でもええ”って、そう思っとったけどな?」


「またまた〜。ハッピーちゃんだって、なんやかんやで、あいつのこと気に入ってたくせにぃ」


「うちがぁ?……せやな。あんなアホみたいな男やけど、うちに貢ぐ資格くらいはやってもええわ」


「出たな、“女王様商法”!」


「楽しみやな〜。たっぷり貢がせて、時期が来たら“臭いからあっち行け〜!”言うて蹴飛ばしたんねん」


「……そんな未来、残酷すぎない?」


「ふふん。さて、うちはそろそろ行くで」


「え〜〜!?やだよぉ……ハッピーちゃんがよかったぁ……」


上司が机に突っ伏して、駄々をこねる。


「引き継ぎは鳥の子にしとるで。うちやと思って、なんでも聞いたらええ」


「でもあの子、最近おじちゃんに当たり強いんだよぉ……。ちょこっとでもサボったら、す〜ぐ睨んでくるし……」


ちょうどそのとき。

窓の外で、鳥型の神獣がギロッと鋭くこちらをにらみつけた。


「あっ、やば。ほらほら見てる、めっちゃ睨んでる。……あー!くちばし研いでるって!!ちょっ、そこの資料取って。仕事してるフリしなきゃ……!」


ハッピーは資料を上司の頭に乗せると、くるりと背を向けた。


「ワッハッハ!あんた、サボりすぎやねん!」

「いっぺん脳天に、ガツンと一発ブチ込まれてきいや!」


そして、ちょっとだけ真顔で。


「……おっさん、長いこと世話んなったわ。……ほなな」


「おう!またな、ハッピーちゃん……」


ハッピーの身体が、柔らかな光に包まれて、ふわりと消えていく。


取り残された上司は、空を見上げてぽつりと呟いた。


「愛する飼い主のために、1500年かぁ……ハッピーちゃん、根性あるよなぁ」


上司はふっと目を細めて、あのときの言葉を思い出した。


——“こいつに仲人ミッション託すから、成婚させられたら現世に返してやって”って、上に掛け合ったわけよ——


「仲人の成功報酬……補佐とはいえ、ハッピーちゃんも立派な“仲人”だったよ」


しばしの沈黙のあと、声をひとつ落とす。


「二つの魂が、輪廻に戻った。……本来なら、こんな裁定はまず降りない。だけど今回は、天界の上層部が“前代未聞の特例”を認めたくらいだ。……それだけ、この任務が重大だったってことかな」


そして、苦笑いひとつ。



「っか〜……これから大変だぞ〜……頑張れよ。誠一」



——天界に、またひとつ、

縁が結ばれた音が、小さな鈴音となって、静かに響いた。




***




お昼のニュースが、都会の喧騒にそっと割り込むように流れはじめる。


横浜駅西口。ジョインズ前の大型モニターには、爽やかな音楽と共に、キャスターの落ち着いた声が響いていた。


『続いては、横浜からの話題です——』


そのすぐ下、無印商店と書かれた白い外観の店から、新婚らしい男女が肩を並べて出てきた。


「成宮さん。サイズぴったりの箱、見つかって良かったですね」


「そうですね。これから荷物も増えますから、午後は収納棚を見直しましょうか」


「はい!綺麗にお掃除して、その後は、一緒にお夕食作りましょうね。昨晩、ローストビーフの仕込みはしておいたんです」


穏やかな日常の風景。

けれどその横を、軽い衝撃とともに、人影がすり抜けていった。


成宮の肩に、トン、とぶつかったのは——

ピンクロリータの服を揺らした小柄な女性だった。


「ひょあ!し、失礼しました!」


「大丈夫ですよ。お気をつけて」


直後、人混みのなかを慌てて駆けてくる男性の姿。

チェック柄のシャツに、大きなトートバッグ。

額には汗、目元には気遣いと照れがにじんでいた。


「もえちゃ〜ん!前見て歩かないと危ないって…」


「うぅ…すみません…って、うひゃああ!!滾る!!ここがあの横浜駅でありますか!?椎名様〜〜!!!」


「も、もえちゃん…今日も元気だね…」


もえは興奮を抑えきれない様子で、バッグの奥をごそごそと探り始める。

やがて、手のひらサイズの寝そべりぬいぐるみを二つ、誇らしげに掲げた。


「当然です!本日はこの太○治様と中原○也くんを持参いたしました故、お二人の横浜デート風写真を撮りまくるのであります!もちろん、椎名様と初○ミクちゃんも撮らせてくださいませね!!」


「え、いいの!?ありがとう…!でも、僕らも撮ろうね?」


「わ、わわ、はい…!!」


フリルの裾を揺らしながら、もえが夢中でスマホを構える。

その隣で、少し照れたように、それでもどこか嬉しそうに笑う椎名。


ふたりの笑い声が、木漏れ日の差し込む並木道沿いのカフェの前を通り過ぎていく。

そのテラス席には、まるで時間がそっと息をひそめたような静けさが、やわらかく満ちていた。


テーブルの上には、二人分のケーキと紅茶が穏やかに並んでいる。

女性のフォークが、ケーキの端をそっと崩した。

その指先に、ふわりと生クリームがつく。


男性は、青丹色のハンカチを取り出すと、やわらかく声をかけた。


「……手、失礼しますね」


そう言って、彼女の指先をそっと拭う。


彼女は、わずかに瞬きをしてから、ふっと微笑んだ。


「……おや。ありがとうございます」


「いえいえ。……今日も、暖かいですね」


「そうですねぇ。……はぁ〜、佐久間さんといると、落ち着きます」


「ありがとうございます。…葵さんは、僕で良かったんでしょうか」


「ふふふ~。何言ってるんですか。私は、あなたがいいんですよ」



そんな柔らかな空気の奥——

店内、壁際のテーブルでは、まったく別の気配が漂っていた。



「うわ、驚いた。君…めちゃくちゃかわいいよね…!?ここ、いいですか?俺、風間っていいます!」


軽薄な声が、空気をざらつかせる。


「……は?可愛いとか知ってますけど。そこ、人が来るんで。座んないでくださーい」


「え、もしかして照れてる?可愛いなー。ね、どこからきたの?」


──ブチッ。


何かが切れた音が、空気を裂いた。


「……てンめぇ、この薬指のリングが見えねぇのか!?!?既婚者相手にチ☆コから話しかけてきてんじゃねぇよ!!!このクソ虫がァ!!!!!」


「ひ、ひぃ……!?」


店内の一角で、地獄が発生する。

空気が一瞬、凍りついた。


すっと、場の空気をさらっていく影があった。

カウンターの奥から、ドリンクを二つ手にした男が歩み寄る。


無駄のない所作と、洗練された静けさ。

彼は女性のすぐ隣に立ち止まり、そっと視線を落とす。


「こらこら、美羽。はしたないよ」


「あっ…!ごめんなさーい♡」


「申し遅れました。私、弁護士の久遠と申します。……私の妻に、何か御用でしょうか」


完璧すぎる一礼と、鋭く抑えた笑み。

たったそれだけで、風間の表情から血の気が引いた。


「べ、弁……いえ、その、失礼しました!!」


鼻水を垂らしながら、風間は店を飛び出していく。

その背中に向かって、美羽はあかんべー。


「大丈夫?美羽」


「うん♡ジュースありがと!……そうだ、返事きたの!来週の水曜日、ランチしてくれるって!」


「結衣子さん?」


「そう!!超嬉しい〜〜!!私いつか、結衣子さんみたいな大人女子になりたいの〜!!」


無邪気に笑うその横顔を見つめながら、久遠はふっと目を細めた。


店内に、明るい声がやわらかく広がっていく。

その余韻に重なるように、ガラス越しのモニターが、そっと次の話題へと切り替わった。


『続いてのニュースです。マッチングアプリなどで複数の女性に近づき、金銭を騙し取ったとして、詐欺の疑いで出頭した男が、警察の取り調べに応じています——』


大画面には、逮捕時の顔写真と共に、男性アナウンサーの真剣な声が重なる。


『逮捕されたのは、無職の杉浦祐樹容疑者、35歳。杉浦容疑者は、藤村陸、葛城隼人など複数の偽名を使い、女性と恋愛関係を築いた上で投資話を持ちかけ、金銭を詐取していたとされています』


『容疑者は「被害に遭われた皆さまには誠心誠意償います。次は正攻法で——神様も驚くくらい、“派手な勝ち方”してみせますよ」と話しています』



そのモニターの下を、やたらと派手なファッションに身を包んだ三人の女性たちが歩いていく。


「はぁ〜、昨日もイイ男いなかったわね〜!やんなっちゃう!」


「本当……男ってなんでみんな汚いんでしょうか?ムカつく。私たちは、こんなにお金かけて美しさを保ってるのに……!」


「ヨシ子さん、あやめさん。男ってのはみんな子供よ。わかってないだけ。女が身なり整えてあげなきゃ何もできないの。でもね、最低限の見た目と経済力は必須。一生に一度のことなんだから、妥協しちゃダメなのよ」


「「さすがかづよお姉様〜〜〜♡」」


そのとき、建設現場の制服を着た男が、あやめにぶつかった。


「あ、すんません……!」


「……はぁ!?なにしてくれてんのよ。小汚い格好で!私のドレスが汚れたらどうすんの!?最悪!!なによその髭!全ッ然イケてないから!」


「……ご、ごめんなさい……」


怒鳴り声が飛んでくる。


「おい東堂!ナンパしてんじゃねぇ!さっさと戻ってこい!!」


「は、はいっ!今行きます!!」


「はぁ!?あんたみたいな社会のゴミがこの私をナンパしようだなんて、100億万年早いのよ!!」


あやめは吐き捨てるように言い放ち、勢いよく唾を——東堂のズボンにかけた。


「よくやったわ!あやめさん!」


ヨシ子が拍手を送る。

三人はそのまま、華やかに、街の人波にまぎれていった。


その背中を、東堂は、ただ呆然と見つめていた。


人々の流れに紛れ、誰にも気づかれず、誰にも見えないまま、

彼はただ、ぽつんとその場に立ち尽くしていた。


ふと顔を上げる。

頭上には、ビルの隙間からにじむような青空が、ほんのわずかにのぞいている。


「……そういや、“俺”と本気で向き合おうとしてたのって、あいつだけだったな…」



ぽつりとこぼしたその声は、誰にも届かない。


けれど——もう遅い。


その“あいつ”は、

もう、二度と君に微笑んではくれないのだから。




***




チャペルの鐘が、青空に高く響いた。


花嫁姿の明日香が、両手を振って駆け寄ってくる。


「お姉ちゃん、誠一さん、今日は来てくれてありがとう!!」


「おめでとう、明日香」


結衣子が笑いながら返すと、誠一の腕のなかで、ふわふわの赤ちゃんが小さく声をあげた。


「はあぁ〜……やっぱり赤ちゃんって、反則級にかわいい〜っ!」


明日香が身を乗り出すように、そっとほっぺをつつく。


結衣子は、ふっと優しく微笑む。


ゆきちゃん。……この子はね、幸せの“しるし”なの」


そのとき、後ろから穏やかな声がした。


「疲れてるでしょう。ゆっくりしなさいな。幸ちゃんは私たちに任せて」


振り向くと、結衣子の両親がにこやかに立っていた。嬉しそうに手を差し伸べ、赤ちゃんを預かってくれる。


「……ありがとうございます。じゃあ、ちょっとだけ」


そして、ふたりきりになる。


芝のにおい。どこか懐かしい花の香り。光に包まれた、穏やかな空間だった。


「……結衣子」


「ん?」


「これからも、何があっても、俺が君を幸せにする」


そう言った誠一は、ほんの少し眉を寄せた。


「……とは思ってるんだけど、できるかな、俺なんかに」


「ありゃー、どうしたの?……急に不安になった?」


「いや、だって、明日香ちゃんの旦那さん、ラガーマンじゃん……!!俺、あんなに腕太くないし、ぶつかられたら……たぶんまた死ぬし。なんというか、“幸せ”とか以前に、ちゃんと家族守れんのかよって……」


「ぷっ……あはは!!ほんと、変わんないな」


結衣子は笑って、でもその目は真剣だった。



「でも、私も同じだよ。私が、あなたを幸せにしたいの」



誠一はふと、視線を落とした。



「……どうして、俺なの?」


「……しょうがないなぁ、ほんとに」



小さく呟いて、結衣子は彼の手を包み込む。



「あなたが、私の幸せをいちばんに考えてくれたから。……そんなあなたを、私が誰よりも幸せにしたいと思ったからだよ」



誠一は、まるで言葉が胸につかえたように、小さく息をのんだ。



「……よかったのかな」



その呟きに、結衣子はまっすぐに笑った。



「よかったに決まってるでしょ」



彼女の声は、優しく、あたたかく、胸に沁みるように響いた。



「……だって私、今がいちばん幸せなんだから!」




次回:特別読切⑤前編『向日葵の初恋』

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