第二十三話:最適解と、本当の答え
夕方。
街の空が、淡い茜色に染まりはじめるころ──
海の匂いが、微かに風に混じっていた。
山下公園の先、ゆるやかな潮風が頬を撫で、遠くに赤レンガ倉庫の灯りがぼんやりと揺れている。
歩道を照らす街灯はまだ点いていない。
けれど、通り過ぎる人々の気配には、どこか“終わり”を予感させる静けさがあった。
そんな中を、ひとりの男が歩いていた。
右手には、小さな紙袋。
そこから顔をのぞかせていたのは、ほんのり黄色みがかった──ミモザのドライフラワー。
(……恋人でもないのに、花なんか渡したら、変に思われるだろうか)
そんな迷いを口にしたとき、店員は、柔らかく微笑んでこう言った。
『女性のお友達への贈り物でしたら、こちらは喜ばれますよ』
その言葉に、少しだけ背中を押された気がした。
──ミモザの花言葉は、感謝、友情、思いやりらしい。
なんだか、小洒落てるよな。
この花を渡す相手が、喜んでくれるかはわからない。
それでも、ただ“渡したい”と思った。
理由なんて、もうどうでもよかった。
その時だった。
「──あっ、お兄ちゃん!」
ぱっと振り返ると、昼間に別れた親子が、向かい側から歩いてくるところだった。
くるみの声には、まっすぐな明るさがあった。
「今日は、本当にありがとうございました……!」
母親が深く頭を下げる。
疲れているはずなのに、どこか晴れやかな顔をしていた。
「いえいえ。大丈夫でしたか?」
誠一は笑って、手をひらひらと振った。
くるみの視線が、自然と彼の手元に落ちた。
紙袋からのぞくミモザに、ぱっと目を輝かせる。
「……お兄ちゃん、王子様みたい。それ、お姫様に届けにいくの?」
誠一は、少し驚いたように目を見開き──
それから、ふっとやわらかく微笑んだ。
「……そうだね」
王子様だなんて、大げさな話じゃない。
けれど、その言葉に込められた真っ直ぐさが、胸の奥をほんの少しだけ熱くした。
「素敵…!きっと喜ぶと思うな!」
くるみの無邪気な笑顔を背に、誠一は手を振って歩き出す。
ほんの数歩──そう、たった数歩。
だったのに。
金属がねじれるような音が、空気を裂いた。
前方の交差点に、違和感。
大きなトラックが猛スピードで赤信号を無視して突っ込んでくる。
運転席。
男がぐったりとハンドルにもたれかかっていた。
目は虚ろで、動かない。
(……意識がない。心臓発作か?)
冷静な思考が一瞬、頭をよぎった。
でも──そんなことより先に、目に入ったのは。
進路上に立つ、あの親子の姿だった。
「……っ、危ない!!」
くるみは少し先を歩いていた。
けれど──両親は、まさにトラックの軌道上。
誠一の心臓が、ぎゅっと縮まる。
(……ダメだ。避けきれない!!)
一瞬で、すべてが凍りつく。
けれど、躊躇はなかった。
──走れ。
体が勝手に動いていた。
紙袋が宙に舞い、ミモザが風に散った。
(“家族”は、壊れちゃいけない)
その一念だけが、足を前へ突き動かしていた。
あのとき、自分の家族は守れなかった。
見ているだけで、何もできなかった。
あの後悔が、今もずっと胸に残っている。
でも、この親子はまだ間に合う。
なら、俺は──
ふたりの背中に体当たりするように飛び込み、
持てる全てをぶつけるように、突き飛ばす。
「──っ!!」
誰かの悲鳴が、世界を裂くように響いた。
アスファルトを滑るタイヤの音が、耳をつんざいた。
それすらも、もう届かない。
直後、すべてが──真っ白になった。
*
春の空は、どこまでも澄んでいた。
遠くで、くるみの泣き叫ぶ声がする。
両親がその声を頼りに駆け寄る姿も、はっきり見える。
……よかった。みんな、無事だ。
誠一は、静かに息を吐いて、空を見上げた。
空の色が、夜の闇にゆっくりと溶けていく。
その境目は、見えそうで見えなかった。
世界が、静かに終わろうとしていた。
「……結衣子、ちゃん」
(あの時は、ごめん)
(俺の家庭が壊れたからって、君の家族までそうなるって……勝手に、決めつけて)
(君と俺は違うのに。バカだった)
──“幸せな家族”は、壊れちゃいけない。
本当は、自分がそれを一番わかっていた。
自分だけが不幸だなんて、思いたくなかった。
壊れていく家族を、守れなかったのは自分のせいじゃない。
みんなも、きっとそうなる。
……そう思えば、少しだけ、楽だった。
君の信じる“幸せな家族”は、まぶしすぎた。
それが本当にあるものだと、信じられなかった。
だから――
「そんなの、あるわけない」って、君のまっすぐな笑顔を、否定した。
……ほんとは、そんな君の笑顔が——
誰よりも、大好きだったのに。
「君には、ちゃんと──」
言葉が、途中で途切れる。
……壊れた家族への未練は、もうない。
守るべき誰かなんて、最初からいなかった。
けれど――
この少女の家族だけは、救うことができた。
──なら、この命にも、少しは意味があったんだろう。
けれど、最後の最後まで、胸の奥で静かに灯っていたのは――
(……ただ、君が“心から笑ってる顔”を見たかった)
その想いだけは、どうしても、消えなかった。
空の色が、夜の闇にゆっくりと溶けていく。
ああ、もうすぐだ。
世界が、眠るみたいに静かになっていった。
そして、誠一の意識は──静かに、終わりへと沈んでいった。
*
やがて──
静かに語られたすべての過去が、終わりを告げた。
結衣子は、目を閉じたまま、静かに神の話を聞いていた。
言葉にせずとも、胸の奥にひとつずつ染み込んでくるような想い。
それは、誰かの記憶ではなく、間違いなく“彼”自身のものだった。
長い沈黙。
やがて、結衣子はゆっくりと立ち上がる。
「……ありがとう、話してくれて」
「……」
「私、必ず幸せになるから」
振り返らずに言ったその言葉は、まっすぐで、どこか震えていた。
指先が、ほんのわずかに震えるのを、神は見ていた。
けれど──何も言わなかった。
ただ、手を伸ばすこともせず、見送った。
その背中を。
***
幻想的な和の趣を湛える喫茶店。
竹の簾越しに揺れる淡い光が、障子の影をやわらかく映していた。
季節の草花が活けられた陶器の花瓶。
落ち着いた香のかすかな煙が、春の空気に静かに溶けていく。
その一角に、結衣子はいた。
──今日、ここで待っているのは。
この世界で、最初にお見合いした人。
一度は「会話が続かない」と思って断った、あの人。
(……佐久間さん)
静かに襖が開き、対面に現れたその人は──
以前よりも、ずっと穏やかで、どこか頼もしさを湛えていた。
(……本当に、素敵になってる)
テーブルを挟んで座る彼は、初めてのお見合いの時とはまるで違って見えた。
「本日はお時間作っていただいて、ありがとうございます。…初めてお見合いした時は、その…すみませんでした。…こんな機会をいただけるなんて、夢のようです」
「私も、またお声がけいただけるなんて、驚きました…!」
「……お恥ずかしい話ですが、初めてのお見合いで、椿さんに強く惹かれてしまいまして……。その後のお見合いが、椿さんのことで頭がいっぱいになってしまって……仲人さんに手を焼かれていたんですよ」
「えっ……そうだったんですか?」
「……あまりに私が前に進めないので、仲人さんを通じて無理を言ってしまいました。でも……わがまま、言ってみるものですね。僕にとって、今日は奇跡のような日です」
結衣子は、不思議な気持ちだった。
──一体、あの時の私の何が、よかったんだろう。
彼の言葉は、すべて真っ直ぐだった。
照れ隠しも、誇張もなく。
ただ純粋に、もう一度会いたいと願ってくれたのだと、わかる。
あの頃の記憶がふっとよみがえる。
湯呑みをこぼした時。
ハンカチを差し出して拭いた、その一瞬。
(……あれか……)
あれだけで、惹かれてくれた?
信じられなかった。でも。
──そこから、ずっと私のことを思い続けていた人。
(……照れる、普通に)
佐久間は、話し方も、間の取り方も自然で。
気遣いが行き届いているのに、過剰ではない。
“良い男を演じている”のではなく、“人としての成熟”を感じさせる態度だった。
──こんなふうに、人は変われるんだ。
彼が、どれだけ努力してきたのかが、わかる。
垢抜けて、整った雰囲気。
空気の中に、余裕がある。
そして何より──
この一年、ずっと私を思い続けていたという、その事実が──
今の彼のスペック以上に、胸を打った。
(……きっと私は、この人を好きになれる)
(無理してない。自然に、そう思える)
(……神様……私、前に進もうとしてるよ)
その時だった。
佐久間が、ふと、穏やかに口を開いた。
「……椿さん、少し、外を歩きませんか?」
*
「──今回のお見合いは、特例だ」
神は帳面を読みながら、静かに言った。
「君には今、4人から真剣交際の申し出がある。タイムリミットを考えると、選んだ相手と成婚する他に道はない」
「その返答期限も、あと数日に迫っている。そんな中で新たにお見合いを組むこと自体が、極めて異例な対応だ」
「そうだよね……」
「ま、偏差値が15も上の男が“ぜ〜んぶ合わせます〜”言うて、頭下げとるんやからな。受けといた方がええやろ」
言い方は軽くても、ハッピーの視線は“きっと大丈夫”の気持ちが、しっかりと込められていた。
「仲人同士の協議の結果、今回は“当日中に真剣交際への進行も可能なお見合い”として認められた。佐久間の気持ちは固まっている。条件は──君自身が、それを望むこと」
「加えて、佐久間 晃仁との顔合わせは今回が二度目。よって、“仮交際に準じた扱い”とする」
「つまり、そのまんまデートもできるっちゅうことやな!時間は限られとるけど、よ〜く考えてくるんやで!」
「……うん!」
神が、ふっと笑った。
「間違いなく、彼はいい男だ。……楽しんでくるんだよ」
結衣子は小さく頷いた。
*
その笑顔は、たしかに自然なものだった。
ただ、佐久間が想う“その女性”の瞳は──
どこか、自分より遥かに遠くを見つめるような、切なさを纏っていた。
結衣子がまだ知らないまま、佐久間はそっと、彼女を見つめていた。
──ほんの、ひと呼吸ぶんだけ。
***
幻想の街に吹く風は、どこか現実よりも柔らかく、どこか、残酷だった。
ふたりで並んで歩く小道は、和の意匠がちりばめられた石畳。
道端には季節の草花が揺れ、鈍く光る灯籠がぽつぽつと並んでいる。
喧騒はなく、ただ潮の香りと、木々のささやきだけが耳を満たしていた。
佐久間が、立ち止まる。
ふいに、結衣子のほうを見つめた。
その目に、濁りはなかった。
「……結衣子さん。あなたには、もう──心に決めている人が、いらっしゃるんでしょう?」
その一言が、胸の奥に落ちた瞬間。
結衣子の心臓が、ドクンと跳ねた。
あれ……?
どうしてだろう。
何も言ってないのに、見透かされてる。
「い、いない……って言ったら、嘘になります」
口からこぼれた言葉は、震えていた。
「でも、その人とは……結ばれないんです」
「あっ、でもそれは、不倫とか浮気じゃなくて……ただ、うまく説明できないんですけど、でも……ダメなんです……」
どうしよう。
言葉が止まらない。
(なのに、涙がにじむ)
佐久間は、ふっと微笑んだ。
「……そうでしたか。それは、きっと──とても大切な想いなんですね」
それ以上、問い詰めるようなことは、何も言わなかった。
彼はただ、まっすぐに目を見て──告げた。
「椿……結衣子さん」
「出会ってから今日まで、あなたのことを想わなかった日は……一日もありません」
佐久間は、ふと空を見上げてから、静かに口を開いた。
「きっと、あなたに想われる方は、素敵な人なんでしょうね」
その声は、祝福のように優しくて──けれど、確かに痛みがにじんでいた。
「……僕は、敵わないってわかっていても、そばにいたいと思ってしまうんです」
結衣子の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「一番にはなれなくても構わない。それでも、あなたを想っていることに、嘘はないから」
その言葉は、まるで静かな祈りのようだった。
踏み込んではこない。でも、決して逃げてもいない。
そこにあるのは、誠実で、まっすぐな愛だった。
佐久間は、ふと目を伏せた。
決して見逃させないように。
ほんの少しの希望を、手放さないように。
踏み込みすぎず、でも退かず──
彼は、覚悟を込めて微笑んだ。
そして、まっすぐに目を見て、
静かに言葉を紡いだ。
「今日は、ありがとうございました」
「……願うことなら、また、お会いしたいです」
その声は、穏やかで、あたたかくて。
けれど、確かに──真剣だった。
一拍、間が空いた。
結衣子は、ぐっと唇をかんだ。
佐久間さんとなら、きっと結婚できる。
幸せになれる。
優しくて、誠実で、ちゃんと“見ていてくれる人”。
4人の候補の中でも、いちばんだ。
冷静に考えよう。
スペックも人柄も申し分ない。
ときめいている自分もちゃんといる。
むしろ、断る理由が見つからない。
でも──
どれだけ理屈を並べても、心だけは、もう決まっていた。
(……“彼”を選ぶってことが、どういうことか)
結衣子は、考えた。
佐久間さんを選べば、“婚活”は終わる。
でも、同時に──
“この想い”は、ここに置いていくことになる。
でも
でも……!!
でも、もう、誤魔化せない。
(……)
ごめんなさい、神様。
ごめんなさい、ハッピー。
二人は、私のためにたくさん協力してくれたのに。
ここまで連れて来てくれたのに。
なのに──私、だめだ。
……彼との人生以外、考えられない。
「……ごめんなさい」
佐久間の表情が、かすかに揺れた。
でも、その揺れはすぐに、あたたかなものに変わる。
「……その人のことを思った時、“一生結婚できなくても構わない”って思ったんです」
佐久間の目を、まっすぐに見つめながら、結衣子は言った。
「佐久間さんは、本当に素敵な方です」
「でも……きっと、佐久間さんを心から愛して、ちゃんと向き合おうとする女性が現れると思うんです」
「だから……私じゃないと思います」
春の風が、静かに吹いていた。
目の前にいる佐久間の表情は、穏やかだった。
優しくて、どこまでも真っ直ぐで、傷ついているはずなのに──それでも、誰かの幸せを願える人だった。
「……やっぱり、椿さんは優しい方だ」
そう言って笑った彼に、結衣子は笑い返した。
もう涙は見せない。
それが、せめてもの礼儀だった。
「ふふ……そんなことないですよ?謙遜じゃなくて、本当に」
言葉にしてみて、少しだけ驚いた。
こんなに自然に、自分のことを話せる日がくるなんて思わなかった。
「私、“元カレよりハイスペな男と結婚してやる”──そんなことばっかり考えてたんです」
「中身スカスカで、自己肯定感なんてまるで無くて。結婚相手のスペックが、自分の価値だって、イタい勘違いまでしてました」
「それで、もっと完璧な人を……って、相手の粗ばっかり探して。自分のことは、棚に上げたままで」
ふっと肩をすくめる。
「……ほんと、拗らせてたなぁ」
苦笑まじりに言いながら、それでも佐久間の目を見て続けた。
「……佐久間さんが、あの頃の私に惹かれたって聞いた時……“女を見る目ないなぁ”って、正直、思っちゃいました」
冗談めかした声に、空気がふっと緩んだ気がした。
佐久間が、小さく吹き出した。
「……なるほど。じゃあ、今の椿さんには、ちゃんと見る目があると?」
「さあ、どうでしょう?自信は……ないです」
そう返して、ふたりで小さく笑った。
優しかった。
この人となら、幸せになれたと思う。
(でも──)
「……すぐに見つかります。きっと、“あなたを世界一大切に想う人”が」
「道中、私みたいなこじらせ女には気をつけてくださいね?」
やわらかく線を引いた、最後の軽口。
でも、佐久間には伝わっていた。
「……わかりました。でも僕は、こじらせてる人のこと、そんなに嫌いじゃないんですよね」
その言葉が、やけにあたたかくて、痛かった。
結衣子は静かに向き直し、軽く一礼する。
すっきりとした顔で微笑み、足元からそっと前を向いた。
春の風が、頬をなでていく。
振り返らず、そのまま歩き出す。
(……やっぱり私は、あの人じゃなきゃダメなんだ)
今、決めた。
私、この気持ちにだけは、嘘をつかない。
彼が何者なのか。
彼が、どんな想いでこの世界を創ったのか。
それを知ってもなお、たったひとつだけ、確かなことがあった。
(私は、神様を──“彼”を、好きになった)
この想いは、きっとまだ届いていない。
でも、もう誤魔化すことはできない。
選ばなければループする世界で、
“選ばない”という選択をする勇気。
これは、逃げじゃない。
戦いだ。
──だから、歩き出す。
あの人のことを、想いながら。
自分の気持ちに、嘘をつかないまま。
誰かにとって間違いでもいい。
私は、世界に抗ってでも、彼を想う。
次回:泡沫 月華の縁結び




