第二十二話:昔々、神様は。
「……それでは、話そうか」
神は、ひとつ、静かに息を吸い込んだ。
まるで、胸の奥をひとつずつほどくように。
***
4人の男性から真剣交際を申し出されている結衣子は、あと6日のうちに一人を選ばなければならなかった。
悩んでいたところ、意外な人物からのお見合いの申し出が届く。
──この世界で最初に出会った相手、佐久間 晃仁。
かつて「会話が続かない」という理由で断った相手が、
今になって、もう一度だけ会いたいと願ってきたのだ。
結衣子は再会を決意する。
けれどその前に、どうしても確かめておきたかった。
……“彼”のことを。
長くそばにいて、誰よりも支えてくれたその人のことを、きちんと知らないままでは、──私は、先に進めないんだと思った。
上司の後押しもあり、ついに彼は語り出す。
かつて、“人として生きていた頃”のことを。
*
神の声は、静かで——どこか懐かしい色を帯びていた。
「俺は……どこにでもいるような、ごく普通のサラリーマンだった」
障子の向こうから春の光が差し、畳にやわらかな影を落としている。
けれどその光の中心。神と向き合う結衣子との間には、張り詰めた静けさが流れていた。
「俺が育ったのは、ろくでもない家だった」
「父親は事業に失敗して、ギャンブル漬け。母親は父親の暴力から逃げるように不倫して、俺を置いて出ていった……いわゆる、喧嘩別れの父子家庭ってやつだ」
神の目は、少しだけ遠くを見ていた。
「……愛情とか、家族の温かさとか、そういうものには、ずっと縁がなかった」
「だから恋愛も、結婚も、どこかで信じきれなかった。人に期待して、裏切られるのが怖かったんだ」
結衣子は、何も言わなかった。
ただ、真っすぐに、彼の声を受け止めていた。
「でもな。子供の頃、何もかもが暗く感じた時期に──ひとりだけ、俺の世界を照らしてくれる子がいた」
神の声が、わずかに揺れる。
「明るくて、素直で、夢みたいなことを本気で言う子だった」
「“月から来た王子様と結婚したい”とか、“大きなお屋敷に住むんだ”とかさ……正直、眩しかった。真っ直ぐすぎて」
懐かしむように目を細めながら、彼は言葉を継ぐ。
「……その彼女に、子供だった俺は、感情のまま酷いことを言って、泣かせて……それっきり。中学を卒業するまで、話しかけることもできなかった」
後悔の余韻が、わずかに声を揺らす。
「それでも——彼女のことは、ずっと、心の奥に残ってた」
ぽつりとこぼれる声が、春の光の中に溶けていく。
「……あの子の作った、きなこドーナツ。食べたかったな」
その言葉に、結衣子の胸に、小さく波紋が広がる。
(……あぁ)
記憶の奥に沈んでいた、小さな自分と、あのときの男の子。
すべてが、静かに、静かに繋がっていく。
あの雨の日。青いハンカチ。
きなこアレルギー。
不器用だけど、優しかったまなざし。
——そして、幼い私に初めて芽生えた、淡くて優しい“想い”。
(……やっぱり)
その瞬間、なにもかもが腑に落ちた気がした。
胸が、じんわりとあたたかく満たされていく。
結衣子は、口を開かなかった。
けれど、涙が、頬を静かに伝っていった。
神は、それに気づいていたのかいなかったのか、語りを止めなかった。
「それから十数年。俺は、普通の会社員になってた」
「片想いを引きずったまま、恋愛もろくにせず、寝て起きて、また仕事に行く……そんな毎日を、ただ繰り返してた」
ほんの一瞬、声が止まった。
「……で、去年の春。事故に遭って——目が覚めたら、この上司の前にいた」
そう言って、神は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「上司が言うには、“とある使命”を俺に任せようと思って、呼び寄せたらしい」
***
「よぉ、誠一くん!」
ぼんやりと目を開けると、そこは宮殿のように荘厳で、どこか浮遊感のある空間だった。
空は淡い金色で、雲ひとつない不思議な天井。空気は澄んでいるのに、足元の感触は曖昧だった。
目の前に立っていたのは、背中に羽を背負った──明らかに中年のおっさん。
隣には、犬のような形をしたモンスターが腕を組み、不機嫌そうに睨んでいる。
「……ここは……俺は、死んだのか」
誠一はゆっくりと身体を起こしながら言った。
「……天使のコスプレしたヤバいおっさんが見えるんだが」
男の眉がぴくんと動いた。
けれどすぐに、唇を尖らせて、子供のようにむくれる。
「コスプレ!?ちょっとひどくない!?ねえ、似合ってない?だめ?」
「ダーーッハッハ!!コスプレやって!おまえ、おもろいやんけ!」
犬のような存在が体を揺らして笑っていた。
(……しゃべった。しかも関西弁)
「まあまあ。驚かないでよ。死んじゃったばっかのところ悪いけどさ。俺は、君たちの世界でいうところの──“神様”ってやつ」
「……は?」
「普通なら、死んだ魂はここで浄化されて、良い行いをした順に転生していくんだけど……君には特別に、ある使命を託したくて呼んだんだ☆」
誠一は目を細めて、目の前のふざけた男をじっと見据えた。
「……使命?」
男は、にこやかなまま、まるで“とっておき”のネタを披露するように口を開く。
「神様になって、人類滅亡の危機を救ってくれ!」
しん、と静まり返る空間。
男だけが、にこにこと笑っていた。
「………はぁ」
「……え?冷めてない?今の、“ジャ○プの主人公展開”だったよね!?男の子なら、“うおおおお!”って、拳握るとこじゃないの!?」
男は、困ったように隣の犬へと視線を送る。
「なぁ?ハッピーちゃん?」
「いや、うち女の子やし。そういうテンションはよう分からんわ。てか、“男の子なら”て……今の時代、それハラスメントやで?」
犬は冷たく肩をすくめた。
誠一はため息を吐きながら静かに言った。
「……あの、俺みたいな三流人生送ってきた男に、人類の未来とか託されましても……他あたってください」
「……なんか、それこそ、“ザ・主人公”って感じの…メラメラした人。こういう、目が死んでる人とかじゃなくて」
沈黙が落ちる。
次の瞬間──
男の笑みがゆっくりと歪んだ。
「──どんな手段でもいい。椿 結衣子に、子供を産ませろ」
一瞬、意味がわからなかった。
けれど、その言葉の異常さだけは、本能が察知していた。
(……は?)
胸の奥に、ぞくりと氷が流れ込む。
世界がぐにゃりと歪んで、足元の感覚がなくなるような錯覚。
飲み込みきれない怒りが、喉の奥で膨らんでいく。
空気が変わる。
張り詰めた静けさが、室内を支配した。
「いやぁ、ただの人口調整だよ。少子化、やばいでしょ?上のやつらが言うには、彼女の子孫が人類繁栄の鍵を握ってるんだと」
「俺たち神々としては、人類が繁栄して、大勢が幸せに生きられるんなら、彼女一人の犠牲なんてちっぽけなことなの。わかる?」
笑っていた。けれど、その笑みに、ぞっとするような“異物感”が混じっていた。
「だから……合理的に、確実に、“産ませる”必要があるの。言葉通り、どんな手を使ってでもね」
口調は軽やかだが、その目は、どこまでも冷たかった。
「……ふざけるな」
誠一の拳が、音を立てて震える。
「そんなもの……お前らの勝手な都合だろ!!彼女はずっと、幸せな結婚を夢見てたんだ!それを踏みにじって、“産ませる”だと!?冗談じゃねぇ!!」
怒りに任せて踏み込もうとした瞬間、男が手を軽く挙げる。誠一の身体が、ぴたりと動かなくなった。
「うんうん、ひどい話だよね〜。“そこらへんの男に襲わせりゃいいんじゃね?”って案も、上から普通に出てたし」
内容の悪質さに反して、その口調は変わらない。
「でもさ、それだと、あんまりでしょ?」
「子孫は残せても──結衣子ちゃんの心が壊れたら、可哀想じゃん」
「だから“お前”なんだよ」
誠一は怒りと混乱で、言葉を失っていた。
「まあ、まずは……そうだなぁ〜。300年くらい、俺の手伝いってことで修行してもらおうか?」
「……300年……?」
「単純な話だよ。ここ、時空がぐにゃぐにゃに歪んでてさ。そこらじゅうにある扉から過去や未来に行って、歴史の調整とか未来の視察をしてもらう」
「で、300年分しっかり働いて──最終的に、また“この時間”に戻ってくりゃいい」
「その後は……何をするんだ」
「“仲人”だよ。椿 結衣子が、条件のいい男と幸せな結婚をできるように。お前が、それを導いてやるのさ」
誠一は目を伏せる。
「……それが、俺の役目……」
「ちなみに──」
男が身を乗り出すように、にこやかに言った。
「その魂のまんまだと、不安だろ?新しい身体、欲しいんじゃない?」
誠一は、自分の手を見下ろした。
死んだはずなのに、
動く。掴める。触れられる。
……でも、どこかが違う。
熱も、重さも、呼吸もない。
あるのは、吐きそうなほどの浮遊感と、泣きたくなるような、どうしようもない孤独だけ。
何かに包まれたくてたまらない。
これが……“身体”を求めるってことなのかもしれない。
「……あぁ」
ぽつりと漏らすと、男は指を鳴らした。
「だよね〜!実体がないって、想像よりずっと気持ち悪いでしょ。ちゃんと見えてるし、触れられてるはずなのに……心だけが、ずっと宙に浮いたまんまで」
「身体の境目がぼやけて、世界との繋がりがどんどん薄くなる感じ。わかるわかる~!」
「でも……それはそういうもんだから」
声色が変わる。軽やかな言葉の奥に、冷えた現実がにじみ出る。
「神になるってことは──もう二度と転生はできない」
「お前の魂は、ここで“神”として永遠を過ごす。それでも、やるかどうかは自由だよ。でも──」
男の声が、唐突に冷たくなる。
「君が選ばなければ、彼女は──“効率的に”処理される」
「椿 結衣子の“幸せな結婚”を願うならば……選べ、“神様”」
誠一は、ゆっくりと目を閉じた。
長い、長い沈黙のあと──
「……だったら、俺がやる」
その声音には、迷いも逃げもなかった。
「“神様”って肩書きでもなんでも、使ってやるよ。彼女の未来を守れるのなら、それでいい」
もし、この世界が、“彼女を犠牲にしなければ救えない”というのなら。
「その歪みごと全部、俺が背負ってやる」
「俺の魂ひとつで救えるなら、安いもんだ」
***
結衣子の目から、ぽろり、と涙がこぼれた。
誠一は、ゆっくりとその背に手を添える。
「……悪い。重かったよな。もう、やめてもいいんだぞ」
結衣子は、黙って首を横に振った。
しばらく、ふたりのあいだに静けさが落ちた。
***
──四月一日、昼。横浜・中華街。
昼休憩に入った誠一は、職場からほど近い中華街を歩いていた。
春の日差しはまだ冷たく、どこか肌にひやりと残る空気が心地よい。
観光客のざわめきの中に、かすかに混ざる、子どもの泣き声。
「……ん?」
足を止めると、雑踏の片隅に、小さな女の子がしゃがみ込んでいた。
クマのリュックを背負い、声を殺すように震えている。
「……どうした?」
「……ひっく、ま、まいごになっちゃったの……」
女の子は、くるみと名乗った。7歳くらいだろうか──
どこかで見たことがあるような、懐かしい面影をしていた。
誠一はしゃがみ込み、目線を合わせて声をかけた。
話を聞くと──屋台のいちご串が美味しそうで、つい見とれているうちに、親とはぐれてしまったのだという。
誠一は、そのいちご串をひとつ買い、そっと少女の手に渡した。
「……ありがとう。おにーさん、やさしいね」
笑顔を浮かべるくるみの横顔に、ふと、あの日の結衣子の面影が重なった。
──夢を語っていた、あの女の子。
王子様と結婚したいとか、大きなお屋敷に住みたいとか。
まっすぐで、素直で、眩しくて。
(……ほんと、似てるな)
交番に連れて行くと、すぐに親が見つかった。
観光中に地図を見ていて、はぐれてしまったようだった。
目的地は、山下公園。
「ありがとうございました……本当に……!」
何度も頭を下げる母親に、誠一は微笑んでうなずいた。
「気をつけてな」
手を繋いで歩き出す親子の背中を見送りながら、胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような、言いようのない寂しさが残った。
──結衣子ちゃんの家庭も、こんなんだったんだろうな。
くるみの笑った顔が、あの頃の結衣子と重なって、離れない。
王子様と結婚したいって本気で言ってた、眩しいくらいのあの子。
(……結衣子ちゃん、どうしてるかな)
ふと、そんな気持ちが胸をよぎる。
ポケットからスマホを取り出すと、ホーム画面のイリスタグラムのアイコンを、しばらく見つめた。
数年前まで、たまに覗いては……すぐに閉じていた。
彼氏との仲良さそうな写真ばかりで、見ているだけで胸がぎゅっとなって、見るのをやめていた。
でも──
(……たぶん、また傷つく。でも、それでも──ちょっとだけ…)
指先がゆっくりと動き、アイコンをタップする。
そこに、あったのは──
《婚活パーティー、行ってきます!#今日が誕生日#やけくそ》
投稿されたばかりのその写真を見て、心臓が跳ねた。
(……今日、誕生日……)
そこに写っていたのは、見違えるように綺麗になった結衣子だった。
でも、どこか──ひとりで無理して笑っているように見えた。
(婚活……?彼氏と、別れたのか)
いつだって誰かと付き合っていて、長続きはしなくても“ひとり”でいることはなかった彼女。
だからこそ、それは思いがけない事実だった。
けれど──だからといって、俺に会う理由なんて、どこにもない。
(……それでも、ただ)
見てしまった。あんなふうに、無理して笑うあの子を。
(……会いたい)
もう、届けることはないと思っていたこの気持ちが、彼女のあの笑顔に触れた瞬間、また、動き出したんだ。
針が定時を指した瞬間、誠一は突き動かされるように立ち上がった。
(あれから何年も経って、俺も、あの子も、大人になった)
(なのに、まだこんな気持ちが残ってるなんて──)
もう二度と、話せないと思っていた。
それでも、ほんの少し、顔を見て「誕生日おめでとう」と言えたら。
それだけで、十分だった。
スーツの裾を整えて、ネクタイを結ぶ。
数年ぶりにワックスを軽くなじませ、鏡の前に立つ。
「……よし」
ぽつりと呟いて、小さく息を吐いた。
そして、ふと思う。
「……ちょっとした贈り物でも、買っていくか」
何年越しだろう。
“昔の知り合い”として会えれば、それでいい。
ただ、今日という日が、ほんの少しでもあの子にとって優しい記憶になれば、それでいい。
ちゃんと笑って「おめでとう」って言えたら。
きっと、俺の人生も、少しだけ報われる。
海の匂いが、微かに風に混じる。
この道の先に、どんな顔をした彼女が待っているのか──
それを思うだけで、足がほんの少しだけ速くなった。
──その先に待っていたのが、永遠の別れだなんて。
俺は、まだ夢にも思っていなかった。
次回:最適解と、本当の答え




