第二十一話:“神様”じゃなければ
神様が、私のために作った世界がある。
32歳、婚活拗らせ女のための──
“結婚しないと帰れない”異世界。
この世界には、どこかで見たことがある景色が広がっている。
障子の奥から、淡い光がにじむ。
縁側に落ちる日ざしが、障子のふちをあたためていた。
お香の匂いが、静かに、ふと漂ってくる。
それらすべてが、現実ではないとわかっていながら、
やけに胸の奥を、懐かしく揺らす。
私がハマっていた乙女ゲーム──
“泡沫 月華の片想い”。
その世界観をベースに設計されたこの異世界で、私はいろんな人と出会った。
恋をして、裏切られて……騙されたことも、優しさに救われたこともあった。
泣いて、笑って、悩んで、落ち込んで──
そのたびに少しずつ強くなって、
“私自身”を、取り戻してきた。
──そんな異世界生活も、いよいよ終わりが近づいている。
この場所にいられるのも、あと二ヶ月を切った。
最後の選択のときが、もうそこまで迫っている──。
***
カレンダーの前で、結衣子はため息をついた。
真剣交際の相手を決める期限まで、あと6日。
私は、現在4人の男性に真剣交際の申し出を受けているが、そのステージに進めるのは一人だけ。
この異世界にいられる期限まで間もない私にとっては、選んだ一人と成婚に向かう他に選択肢はない。
……どうしても一人に絞れないでいた。
彼らに不満がある訳ではない。
どの人も本当に素敵で、条件も申し分なく、まさに自然体でいられる方々ばかりだ。
誰を選んでも、幸せになれる。
でも──
「……もうちょっと、このままでいたいな」
その声が、自分の口からこぼれたものだと気づく前に──
「……ん?」
聞き慣れた、低く柔らかい声が返ってきた。
「……ん?」
振り返ると、神様と目が合った。
いつの間にか、すぐ後ろまで来ていたらしい。
白木の床の上に立つ彼は、何も言わず、ただこちらを見つめていた。
「えっ、いや、ち、違うの、今のはその、なんというか……!」
言い訳の口火を切った自分の声が、やけに高く響いた。
「“このまま”ってのはね!もちろん焦ってるし!神様たちに迷惑かけてるってのもヒシヒシと感じてるし!ちゃんと成婚しなきゃって、わかってるんだけど!」
言えば言うほど、泥沼にハマっていく感覚。
でも、止められなかった。
「その……ハッピーとか、……か、神様……とか……その……」
目を逸らしたまま、結衣子は声のボリュームを落とす。
「……こういう生活が、なんかこう、居心地よくて……」
「……君は、私といたいのか?」
ぽつりと落ちた神の言葉に、時が止まる。
顔が、みるみる熱くなる。
(え、えええ!?)
「ちがうし!?違うってば!?そんなこと言ってなくない!?……言ってた?いや言ってないよね!?たぶん!」
神は、じっとこちらを見つめたあと、静かに言った。
「……知らん」
「こっちが聞いてるんですけどぉぉおお!!」
神はまるでなにもなかったかのようにそっぽを向き、手元の帳面を閉じながら言った。
「今日もデートの予定だろう。くだらないことを考えていないで、早く支度をしろ」
「えっ!?ちょっ……はぁ〜……」
「はいはい、支度しますよぅ……」
ソファの上で、そんなやり取りを見ていたハッピーが、ゴリゴリと首を回しながらつぶやいた。
(……あんたらが、結婚できたらええのにねぇ)
それは、ハッピーの心の中にだけ浮かんだ、淡い願いだった。
*
神は、黙って目を閉じた。
……まさか。
いや、そんなはずはない。
赤くなった結衣子の顔。
(……俺なんかに、そんな気持ちを向けるわけがない)
馬鹿な妄想だ。
勘違いするな。
俺はもう、人間ですらない。
結婚相手どころか、誰かと向き合う資格すらないんだ。
(……違う。そんなこと、考えなくていい)
彼女には未来がある。
誰かに愛されて、ちゃんと幸せになれる人なんだ。
だから──
この想いは、隠し通さなきゃいけない。
絶対にバレちゃいけない。
想いが知られたら、引かれるかもしれない。
逃げられるかもしれない。
……怖い。
死んでまで、嫌われたくない。
*
障子の向こうから、小鳥のさえずりがふわりと届く。
庭の梅は、蕾をほんの少し開きかけていて──
まだ寒さの残る空気の中にも、確かな春の気配が漂っていた。
私は卓袱台の向こうに身を乗り出して、「じゃーん!」と声を弾ませる。
「昨日の料理教室で習ったきなこプリン。見た目も味も完璧!」
小ぶりの器にとろりとしたきなこのクリーム、上には黒蜜ときな粉をふりかけて、金箔なんて乗せてしまった。
盛り付けは大成功。味は、たぶんもっと成功。うん、自信ある。
「いただきまーす!」
ハッピーが一心不乱にスプーンを動かす横で、神はそっとスプーンを取った……と思ったら、置いた。
「……すまない、私は遠慮しておく」
「え?まさか……甘いの苦手なの?」
ほんの一瞬だけ、彼の顔が陰った。
「……きなこ、アレルギーなんだ。軽度だが」
「……きなこ?」
その一言で、心の奥の引き出しが、がたんと音を立てて開いた。
私が小学校一年生のときのことだ。
当時、私が好きだったのは、近所に住んでいたお兄ちゃん。
小学校に入学してすぐの雨の日、転んだ私に青いハンカチをくれたのが、そのお兄ちゃん──桐島誠一くんだった。
それから私は、誠一くんのことが気になるようになって、よくお母さんとお菓子を作っては、かわいくラッピングして、彼にあげてたんだよな。
──その年の、少し涼しくなってきた頃。
あの日も、そうだった。
「誠一くん!昨日はね、お母さんときなこドーナツつくったんだよ!あげるね!」
「あっ……ごめん。俺、きなこアレルギーなんだ」
「え?きなこ嫌いってこと?」
「……嫌いっていうより、身体に毒みたいなもん。給食で別メニューの子、いたでしょ?俺、それが“きなこ”なの」
「そっかぁ……ごめんね」
「いや、気持ちはすっごく嬉しい。ありがとう」
「じゃあ今度は、チョコにする!チョコは食べられる?」
誠一くんは、ちょっとだけ顔を赤くして、こくんとうなずいた。
「……うん。ありがとう」
アレルギーっていうのを、はじめて知った出来事だったから、今でもよく覚えてる。
今思うと、きなこアレルギーって、けっこう珍しいよなぁ……
──思い出の中で、誠一くんが笑った顔を、私はぼんやりと思い浮かべていた。
気づけば、神の顔がすぐ目の前にあった。
きょとんとした私の顔を見て、神様は、ふいと視線を逸らして黙り込んだ。
……ていうか、まてまて。
そんなことより———
「……アレルギーって、人間みたいなこと言うのね」
つぶやいた言葉が、空気をぴんと張り詰めさせた。
神が言葉を探すように、微かに息を呑むのが分かった。
そのときだった。
ぴこん、と水晶が光り、神にメッセージが届いた。
視線を落としてそれを読み、神は一拍おいて、ため息をひとつ。
そして──
「……まぁ、俺は元々人間だからな」
「……っ!」
頭が真っ白になった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
ずっと聞きたかったような気がする。
やっと、やっと、教えてもらえた。
鼓動が早くなる。
まずい、にやける。
顔、赤いかな!?
誤魔化さないと……!
「……あ、あれ!?今、“俺”って言ったよね?“私”じゃなくて?」
「それ、もしかして、“人間の時の俺”!?え〜〜!?ちょっとちょっと、300と何歳?どこの出身?人間の時もそんな美形だったの!?」
神は、ぴくりとまばたきしたあと、ゆっくり視線を逸らした。
まるで「しまった」と思っているのを隠すように、帳面を取り出すふりなんかして。
「……そんなことより、君はどの男を選ぶのか──」
「……今、ごまかそうとしてるよね?あれ?ちょいと神様や?もしもーし?」
そのやり取りに、ふっと笑いがこみあげる。
同時に、はっきりと自覚してしまう。
(……あれ。私、今、何を期待してるんだろう)
“神様”なのに。
そう思うのに。
でも、思ってしまう。
この胸の奥で芽生えた気持ちに、名前をつけてはいけない。
けれど、それは確かに、ここにある。
***
──深夜、天界。
空は墨を流したように静まり返り、星すら雲の向こうに隠れている。
風に揺れる風灯籠が、ほの白い明かりを灯し、長い回廊を淡く照らしていた。
その一角、神殿の奥に設けられた執務の間。
玉砂利の庭を望む縁側に、神はひとり膝をついて座り、硯に筆を浸しながら、書簡を静かに整えていた。
隣に置かれた水晶が、ふわりと光を放つ。
『やっほー。お疲れちゃーん。メッセージ見た?』
水晶の奥から届いたのは、神界の上層にいる“上司”の声だった。
その声音は軽く、どこか浮世離れしているのに──
口にした内容だけが、やけに現実的で、重たく響いた。
神は筆を止めることなく、かすかに目を細める。
縁側を抜ける風が、ふと花の香を運んできた。
『例の佐久間くん、“椿さんともう一度お会いしたい”って、強く希望してるってさ。真剣交際の期限の話をしたら、“すぐに予定空けられます!”って、はりきっちゃってて〜』
水晶越しに響く声は飄々としているが、告げられる言葉は、神の胸の奥を静かに波立たせる。
『なんか彼ね、公認会計士の資格取って、偏差値65になっちまったらしいよ。今の4人の候補の中でも、ダントツじゃない?』
神の筆先が、静かに止まる。
『……どうする?お見合い、組んじゃう?』
しばらくの沈黙。
水晶の中の光がゆらめく。
それを見つめる神のまなざしは、まるで何かを噛みしめるようだった。
「……本人に、確認します」
短くそう答えて、通信を切った。
その背に、ハッピーが声をかける。
「……神さん?」
「……わかっている。口を滑らせたんだ。もう二度と、同じ過ちは犯さない」
神の声は、かすかに震えていた。
けれどその背は、何もなかったかのように静かだった。
ハッピーは黙って、神の背中を見つめていた。
(……アレルギーは、しゃあない)
(うちかて、なんでも食べられるようになったいうても、犬があかん食材はちょっと抵抗あるしな。食べるけど)
ただ———
間違っても、結衣子が神さんを好きにならんように。
神さんが、決して“自分のこと”を漏らさんように。
そう、自分で決めとったはずや。
それを──なんでまた、急に。
『……まぁ、俺は元々人間だからな』
(……滑らせた、て言うか?)
あんな丁寧に、慎重に、間を置いて……
あれは“こぼした”っちゅうより、“渡した”やろ。
神さん、あんた──
……結衣子に“選ばれへん未来”を、ちゃんと受け入れようとしとるんやろ。
その想いごと、そっと差し出すみたいにして。
──ほんま、不器用な男やで。
*
通信を切ったあとも、水晶の光は、しばらく消えなかった。
佐久間潤。スペックは格段に上がり、今や見た目も申し分ない。
佐久間なら、きっと、彼女を幸せにできるだろう。
……大丈夫。
あれくらいでは、何も変わらない。
彼女が、俺を選ぶはずがない。
——それなのに、どうして。
一番望んでたはずの未来が、
もう目の前まで来てるっていうのに。
あの子が、やっと幸せになれるっていうのに。
……どうして。
なんで、こんなに苦しいんだ。
*
──翌日。
神殿『縁側の間』には、やわらかな朝の光が差し込んでいた。
結衣子は縁側に腰掛け、膝にハッピーを抱えながら、ぼんやりと庭を眺めていた。
そこへ、神が現れる。
「……椿 結衣子」
「ん?」
「いい話がある。覚えているか?最初にお見合いした男。佐久間という名だ」
「えっ、佐久間さん?会話がまったく続かなかった、あの……」
「……彼が、君のことを“忘れられない”とのことだ」
「この一年、彼も努力をして、成長したらしい。当時の天界の調査で、君と最も相性が良いと言われていた男だ。──もう一度、会ってみるか?」
結衣子は、神の顔をじっと見つめた。
その目が、一瞬だけ、曇ったように見えた。
「……うん。会ってみる」
──ズキン。
神の胸の奥が、音もなく軋んだ。
(俺を、見るな……)
「でも、これだけは教えて。……あなたのこと」
神は目を見開いた。
「このお見合いはちゃんと頑張る。だけどね、今の私は、“あなた”のことを知らずに、前に進めない気がするの」
“神様”ではなく、“あなた”。
その言葉が、まるでナイフのように胸に突き刺さる。
でも、痛みの中に、確かに何かがあった。
彼女は、“俺”を探している──
そのとき、水晶が光を放つ。
ぴこーん。
なんだか嫌な予感がする。そう思った矢先──
『おーい!お前もそろそろ、腹割って喋ったらどうだ〜?』
どん、と響くような声が室内に広がる。
まさか、と思った瞬間にはもう──
「スピーカーにしてまっせ〜!」
「……どういうことだ」
「うわっ!?もしかして、神様の上司の方!?は、はじめまして……!」
『結衣子ちゃ〜ん♡やっほ〜!元気そうだねぇ〜♪』
突如として現れた、陽気なおじさんボイス。
状況がよくわからず硬直している結衣子に、さらに追い討ちをかけるようにハッピーが言葉を投げる。
「紹介します。上司という肩書きを盾になんでもかんでも部下に押し付けて、毎日ゴロゴロダラダラ、ゲーム三昧で過ごしている──腹の出たおっさんです」
『ハッピーちゃん!?おじちゃんの第一印象、悪いにも程があるよね!?』
『もうちょっとオブラートというか、せめてガムテープくらい巻いて!!』
「悔しかったら自分のパンツくらい自分で干しや」
『ぐふっ……そ、それは……だって、周りがみんな率先してやってくれちゃうから、俺がいつまでもできるようにならないだけでぇぇえ……』
「子供部屋おじさんみたいな言い訳すなーーー!!」
『ひどいよ!!……おじちゃん、結衣子ちゃんのために“脳内ダダ漏れくん”作るの、すっごく頑張ったのに〜!!』
「あンの悪趣味な装置作ったん、アンタかーーー!!!」
「ダッサい名前聞いた時点で、そうやないかとは思っとったけど!!!」
結衣子の目の前で、未知の存在による壮大なコントが始まっていた。
(この人が、あの“上司のおっさん”……!)
(ダダ漏れくん、実はけっこう助かってましたなんて、言える雰囲気じゃない……)
(でも、なんだか、優しそうな神様だな)
そんな中でも、上司の声は続く。
『って、そんな話のために通信してるわけじゃないのよ』
『……ほれ、そこまで話しちゃったんなら、もうぜ〜んぶ話してやれよ。お前のこと。結衣子ちゃん、いい目ぇしてんぞ。“神様”』
「なっ……なぜそれを──」
横でハッピーが、ぼそりと囁いた。
「“伝説のすべり芸”、おっさんに報告したったで。“ええよん♪”言うとったわ。ほな、どうぞ」
「い、犬ッ……貴様ッ!!」
神がぎりりと歯を食いしばるのが分かった。
だけど、結衣子は何も言わなかった。
ただ、じっと彼を見つめる。
“待ってるよ”の意味を込めて。
しばらくの沈黙のあと──
神は、ひとつ、深く息を吸った。
「……それでは、話そうか」
ゆっくりと、語りはじめた。
神様の昔話を。
そして、“彼”の物語を。
次回:昔々、神様は。




