特別読切④『その光が夜明けなら』
月のない空が、墨のように沈んでいた。
葛城は石畳の路地をよろめくように駆け抜け、肩で息をした。喉が焼ける。鼓動が、胸を内側から叩き割りそうに荒ぶっている。
吸い込んだはずの空気が、肺の奥でざらついて暴れる。
喉が焼けつき、胸の中がひゅうひゅうと軋んだ。
空気はあるはずなのに、うまく吸えない――まるで、見えない手に首を締められているようだった。
指先がかすかに震えていた。
握りしめていたのは、くたびれた小さなぬいぐるみ。
灰色の、猫とも狐ともつかないそれは、柔らかな木綿の布で仕立てられており、何度も洗われて、綿もところどころ痩せていた。
耳の裏側には、名札のようなタグが縫い込まれている。
ひらがなで、こう刺繍されていた。
――はると
葛城は、そのタグを見ることができなかった。
足元に転がる小石ひとつにさえ殺意が宿るほど、今の彼には余裕がなかった。
「……クソが……っ」
しばらく身を隠した木造長屋の陰で、葛城は地べたにへたり込んだ。
背を壁に預け、空を見上げる。
だが、そこに月も星も、――あの男の気配すら、なかった。
さっきの“対話”が、まだ耳に残っている。
あれは夢だったのか、それとも幻か。
もしくは、本当に……?
(神様、ねぇ……)
思い出そうとして、葛城は鼻で笑った。
肩で息をしながら、ぬいぐるみをそっと抱きしめた。
タグの端が、かすかに揺れている。風はないのに。
その重みだけが、今の自分に現実を思い出させる。
“弟はもう戻らない”という、冷たくて痛い、変わりようのない現実を。
***
炊事場に、大人の背丈には高すぎる踏み台。
その上で、少年が長い菜箸を揺らしながら、鍋をかき回していた。
即席麺の汁に、冷蔵棚の隅に残っていたキャベツの芯と、にんじんの切れ端を刻んで放り込む。
少しでも栄養を足そうと、必死だった。
「にぃにのごはん〜!」
ふわふわの髪に、くしゃっと笑った顔。
目尻がきゅっと上がって、頬がまるくふくらんでいる。
ぬいぐるみを胸に抱え、タグを指先でくるくると撫でながら、跳ねるように駆け寄ってくる。
祐樹は小さく笑い、手を止めずに言った。
「……もうすぐできるから、待ってろよ」
その笑顔だけで、世界がほんの少しやわらかくなる気がした。
だからこそ、どうにかして守りたかった。
「……はい、どいてどいて〜」
寝室から、ようやく母親が出てきた。
陽翔の横をすり抜けて、台所を横切る。
顔に白粉、口紅のにおい。
簪をまとめた髪、上質な足袋。すっかり“夜の顔”だ。
「……あ、そうだ。祐樹〜」
「陽翔、明日お弁当の日だから。よろしく」
言い捨てるようにして玄関に向かう背中に、ぽつりと。
「……もう、お金ない」
振り返った母親が、めんどくさそうに舌打ちした。帯のあいだから、銀貨をひとつ、無造作に取り出して放ってよこす。
「ほんっと金かかる……。これで足りるでしょ?じゃ、行ってきまーす」
硬貨が床を転がり、壁に当たって止まる。祐樹は無言で拾い上げ、それ以上は何も言わなかった。
母親は「昼は仕事が忙しくて」と嘘の就労証明を出し、陽翔を保育園に預ける。
朝から夕方までは寝て過ごし、迎えに行ったあとは、すべて俺に丸投げ。
まだ幼い、10歳と2歳の兄弟を残して――
母親は、今日も夜の街に消えていく。
白檀の香と、煙草の匂いだけを残して。
「ほら、こっち来い。熱いから触んなよ」
「にぃにすごい〜!」
陽翔は言葉より先に笑う。
抱えたぬいぐるみをテーブルに転がし、タグを噛んだ。
布の端、紙札、紐。
陽翔は“端っこ”が好きだった。
夜泣きのときは、祐樹が背中に乗せて歩く。
陽翔の手が、眠気で力なく祐樹の襟をつまむ。
——父親が違う、ダウン症の陽翔。
その指の感触を、俺は今でも覚えている。
時が経ち、俺は地元の高校に進んだ。
入学と同時に、湯屋の裏方としてバイトにも出るようになった。
学費と暮らしの足しにするには、それしかなかった。
陽翔の心臓は弱く、病院通いの日々。
「にぃにがついててくれるから大丈夫」と、陽翔は笑う。
バイトの時間を削れば、暮らしがままならない。
課題にも手がつかないまま、制服のままで病院へ付き添い、事情を知る大家に頭を下げて陽翔を預け、湯屋へ向かう。
同級生の「放課後なにする?」という声が、別の世界のものに聞こえた。
それでも、陽翔をひとりにはできなかった。
母親はいた。でも、“いないも同然”だったから。
弱音なんて吐けない。
弟の前では、いつだって“自慢の兄”でいなければならなかった。
*
高三の春、気づいた。
母親の視線が、どこかおかしい。
酔ったある夜、背後から抱きつかれた。
湿った吐息、甘ったるい白檀のにおい。
耳元にかかる声に、全身の毛が逆立つ。
――この人は、息子じゃなく、“男”として俺を見ている。
「やめろ……!」
力いっぱい突き放した。
少しの沈黙の後、母はふらりと立ち上がった。
何も言わず、振り返りもせず、ただ静かに、部屋を出ていく。
扉が閉まりかけた、その瞬間。
俺は、思わず立ち上がりかけて――やめた。
いまでも思う。
どうして母は、何も言わなかったのか。
どうして俺は、あの背中を追いたいと思ったのか。
――あんなにも嫌いだったはずなのに、それでもどこかで“母親”であってほしいと願っていた。
そんな自分が、情けなかった。
……そして、二度と顔を見ることはなかった。
*
翌日。
仕事から帰ると、家はやけに静かだった。
押し入れも、箪笥も、化粧台も――空っぽだった。
置き手紙もない。ただ、白檀のにおいだけが、微かに残っていた。
汚れた欲を否定されたことが、耐えられなかったのかもしれない。
それとも、“女”として見られなかったことが、許せなかったのか。
――あれ以来、“女の笑顔”が、信用できなくなった。
けれど、あんな女でも――
陽翔にとっては、大好きな“おかあさん”だった。
「おかあさん、かえってこないの……?」
夜中、戸口の前で泣きじゃくる陽翔。
ぬいぐるみを抱えて、タグを噛みながら、何度も呼んでいた。
それは、陽翔が10歳になった冬のことだった。
まわりの子どもたちが、“現実”を理解する年齢になっても――
あいつだけは、まだ信じていた。
母はきっと、笑って帰ってくると。
祐樹は、その小さな背中を、黙って抱きしめた。
……俺が、守るしかない。
この世界の汚さから、こいつだけは守りたい。
「――にぃに、かっこいいって!びょういんの人、みんな言ってたよ!」
陽翔は笑う。
何も知らないその顔で。
ふわふわの髪、まるい頬、ぬいぐるみのタグをくわえながら、満面の笑みを向けてくる。
そうだ。
こいつの“自慢の兄”でいなきゃいけない。
汚れた過去なんか、全部飲み込んで。
どんなことがあっても――
こいつを守れるのは、俺しかいない。
俺は、進学を諦めて、働いた。
*
俺が23になった年の、ある昼下がり。
仕事先に、警察官が訪ねてきた。
「……死んだ?」
どうやら母親が、客ともめて、刺されたらしい。
遺体はひと晩、路地に打ち捨てられていたという。
不思議なくらい、何も湧いてこなかった。
涙も、怒りも、戸惑いさえも。
ただ――「ああ、やっぱりな」と思っただけだった。
あの人らしい、雑で、救いのない終わり方だった。
その後、陽翔の後見人としての手続きが進められた。
長年の“実績”があったせいか、話は早かった。
――形式が、やっと現実に追いついたということか。
*
陽翔が“恋”を知ったのは、20歳になる少し前のことだった。
「りりかちゃんってね、昔、お父さんに捨てられちゃったんだって。だから、家族にすごく憧れてるの……」
そう話す陽翔の声は、どこか誇らしげだった。
スマホに届いたやりとりは、まるで宝物のように、大事に保存されている。
梨々香――
年上で、やさしくて、褒め上手で、「会いたい」「大好き」を何度も繰り返す女。
近くの商店で働いていた陽翔に、向こうから声をかけてきたのだという。
『陽翔くんのこと、ずっと素敵だなって思って見てた』
『お兄さんにそっくりで、かっこいいよ。胸がどきどきする』
その画面を、陽翔は何度も見せに来た。
嬉しそうに、照れたように、何度も何度も。
「ね、ね!ぼく、かっこいいって言ってもらえたんだよ!にぃにに似てるって!」
――ふざけるな。思ってもねぇくせに。
似てるなんて、誰ひとり言わなかった。
父親も違う、ダウン症を持った弟。
あいつの、丸くて柔らかい顔を笑ったやつなら、いくらでもいた。
“兄に似てる”――
それは、陽翔がずっと、ずっと欲しかった言葉だ。
……“梨々香”は、それを知っていた。
知っていて、わざと、使ってきた。
「……陽翔。その女とは、絶対に会うな」
「連絡を取るのも…もうやめろ」
「う、うん……」
その日を境に、陽翔は梨々香の話を一切しなくなった。
*
ある夏、通帳の末尾の額を見て、祐樹はすべてを悟った。
あまりにきれいに、残高が“ゼロ”になっていた。
まるで、誰かの手によって、正確に計算されたかのように。
――やられた。
「……どうして、お前の金、全部渡したんだ!!」
怒声が部屋を裂いた。
初めて、陽翔を怒鳴った。
弟はびくっと肩をすくめ、笑おうとして――けれど、うまく笑いきれなかった。
目の奥が、どこか怯えたように曇っていた。
「だって……ぼくらの結婚のために、お金がいるんだって、りりかちゃんが……」
「喜んでくれると思って……だから……」
その声は小さく、幼かった。
まるで叱られた子どものように、震えていた。
(……ふざけんなよ)
祐樹の中で、何かが堰を切った。
怒りが喉の奥から噴き上がる。
――8つも年下の弟だ。
物心つく前から、親の代わりに世話をしてきた。
進学も、夢も、自由も捨てて。
病気のお前を抱えて、総合病院へ何度も足を運び、嫌がるお前を説得して、必死に守ってきたのは、誰だった?
それなのに。
“女”なんかに浮かれて、何もかもを差し出して。
よりによって、貯金まで、すっかり騙し取られて。
「なんなんだよ、お前……!!」
歯が軋むほど、奥歯を噛み締めていた。
結婚?できるわけがない。どう見ても詐欺だ。
なぜ、それがわからないんだ。
「現実見ろよ!!!」
その叫びは、祐樹自身をも切り裂いていた。
弟の愚かさに、世間の冷たさに、そして――
守りきれなかった自分自身に。
夜、祐樹は一睡もできなかった。
何度も通帳を開いては、額を睨み、
陽翔の名前を、ただ、繰り返し呟いた。
――そして、翌朝。
陽翔は、姿を消していた。
夕方、警察署からの連絡。
公園の水溜りのそばで、倒れていたという。
脱水。持病の心疾患の悪化。
低酸素状態。
病院に運ばれた陽翔の前で、医師は静かに首を振った。
「低酸素脳症です。回復は……難しいでしょう」
医師は、声を落として続けた。
「自発呼吸と栄養の管理は可能ですが、意識が戻る見込みは……極めて低いです」
「ダウン症のある方は、暑さや脱水に対する感覚が鈍く…」
静かに、術盤の脈音が、かすかに空気を震わせていた。
不規則に揺れる波形を見つめながら、祐樹はただ、陽翔の手を握り続けていた。
――一命は、取り留めた。
けれど、もう二度と、“陽翔の笑顔”は戻らない。
祐樹は、陽翔の手を握ったまま、じっと顔を見つめていた。
「……わかってたよ。怒鳴ったって、意味なんかないって……」
あのとき、自分がどれだけ取り乱していたかを思い返すだけで、胸が痛む。
「知的障害のあるお前に、あんなふうに怒鳴っても……通じるわけがない。パニックになるってことも、最初から、わかってたのに……」
「それでも、抑えきれなかった。ずっと溜め込んでた感情を、ぶつけてしまった。お前を傷つけても、止まれなかった」
言いながら、自分でも信じられないほど、感情がにじみ出ていた。
「……ごめんな、陽翔」
乾いた空気の中、彼の声だけが静かに沈んでいく。
――夕方。
祐樹は、一人で帰宅した。
静まり返った陽翔の部屋。
ぬいぐるみが、うつ伏せに転がっていた。
指で撫で続けた場所だけが、やさしく擦り減っていた。
祐樹は、それにそっと手を当てた。
「――“結婚”って言葉に、憧れてたのは知ってた」
「優しい女に、母親の影を重ねて……ずっと、追いかけてたんだよな」
祐樹は目を伏せ、静かに息を吐いた。
「わかってたよ。ずっと……わかってた。俺じゃ、どう足掻いても“母親”にはなれなかったから」
「でもな、それでも……お前が、そんな目に遭う筋合いなんてなかった」
拳が、わずかに震えていた。
「……悪いのは、お前じゃない」
その言葉を、ようやく口にできた。
「全部、“あの女”のせいだ」
ゆっくりと、顔を上げる。
その瞳に、もう迷いはなかった。
――“梨々香”。
静寂を裂いて、言葉が落ちる。
「……俺が、全部取り返してやる」
*
スマホの記録は、すべて残っていた。
女が陽翔にかけた、甘い言葉の数々。
あの日、俺が怒鳴ったあと――
陽翔が、必死に結婚の約束を確かめようと送った言葉までも。
既読すらつかないまま、冷たく沈黙する画面。
……詐欺かどうかを、陽翔は聞かなかった。
なら、まだ終わっていない。
その返信、俺が引きずり出してやる。
『りりかちゃん、僕は、信じてるよ』
『そうだ、お給金が入ったんだ。頑張ったから、たくさん!このお金を渡したい』
『少しだけでも、会いたいんだ。いいかな?』
陽翔のふりをして、メッセージを送る。
ほどなく、返事が届いた。
『いいよ!私も会いたいな♪』
……応じた。
その瞬間、喉の奥に、じわりと熱が灯った。
――逃がすもんか。
指定したのは、港の見える見晴らし台。
風のない夜。灯りのない高台に、足音だけが響く。
女は、化粧を塗り固めた顔で現れた。
落ち着かない様子で、何度も辺りを見回している。
祐樹は、遠くからその姿を静かに見つめていた。
メッセージを送る。
『……ごめんね。具合が悪くなって、行けなくなっちゃった』
女は小さく舌打ちし、袖の内から蒔絵の手鏡を取り出す。
紅差しの蓋を開け、指先で唇に色を差す。
その顔に、落胆も怒りもなかった。
――予定が狂った。ただ、それだけ。
紅差しを仕覆に戻し、踵を返す。
灯りの少ない坂道を、無表情のまま下っていく。
祐樹は、黙ってその背を追った。
住まい。連絡先。そして、本名。
――吉田信子。
*
数日後。祐樹は髪を切り落とし、染めた。
地味な織りの普段着を脱ぎ、白を基調とした晴れ着を身にまとう。
金襴模様の刺繍が、光を受けてわずかに揺れる。
帯の締めつけより深く、胸の奥が軋んだ。
仕立て屋の鏡に映った姿を、じっと見つめる。
そこにいたのは、もう“陽翔の兄”ではない。
……復讐のため、この世に“編まれ直された”、影法師。
祐樹は目を伏せ、ゆっくりと、口元に笑みを浮かべた。
――弟が目を覚ましたら、“にぃにが、全部取り返してやったぞ”って言うんだ。
“もう大丈夫だ”って、笑ってやるんだ。
その笑みに宿っていたのは、祈りの名をしたやさしさと——
……祈りを捨てた、静かな狂気だった。
*
待ち合わせ場所に現れたのは、ひとりの女。
艶やかな黒髪、華やかな着物、高価な履物。
爪の先まで整えられたその姿は、まるで舞台に立つ役者のようだった。
「……お待たせしました、信子さん」
祐樹は、静かに頭を下げる。
「改めまして、――“葛城 隼人”です。お会いできるのを、楽しみにしていました」
その一言に、信子はわずかに目を見張った。
整った顔立ち、落ち着いた声、礼を尽くす所作。
どこにも隙がなく、むしろ、それが怖い。
こういう男ほど、心の奥に牙を隠している。
それを見抜けないようでは、詐欺師なんてやっていられないはずなのに。
――これまでの男たちとは、何かが違う。
そんなふうに思ってしまった自分に、思わず笑いそうになる。
惚れるなんて、ありえない。
信じるなんて、もっとありえない。
……なのに、なぜか目を逸らせなかった。
葛城は、じっと目の前の女を見つめる。
陽翔に似ている――そんな言葉が、彼女の口から出てくることはなかった。
……まあ、当然か。最初から、そう思ってなんかいなかったんだから。
*
会うたびにほんの少しずつ、信子の警戒はほぐれていった。
気がつけば、季節が一歩だけ進んでいた。
葛城は穏やかで、けれど、ふとした拍子に見せる孤独な横顔が、信子の胸を締めつけた。
「僕には弟がいましてね。今は、寝たきりなんです」
「……まぁ……それは……」
「彼が昔、ある女性に騙されてしまって」
信子の指先が、かすかに強張る。
だが、葛城はそれ以上を語らなかった。
彼は静かに微笑みながら、まるで夢の続きを語るように話した。
“弟が目を覚ましたら、こんな話をしてやりたい”――そんなふうに。
「信子さんも、沢山の人に裏切られて、傷付いてきたんですね」
「……えっ?」
「……分かります。君は、迷子の子猫みたいな目をしてる」
手のひらで頬を包み、そのまま指先で唇をなぞる。
「もし君が望むなら…その悲しみごと、僕に預けてくれませんか」
「……!」
「……信子さんが、好きです」
信子の心は、いともたやすく揺れた。
――なのに、そのやさしさに、ほんの一瞬だけ、言いようのない怖さを感じた。
贈られた簪。雨の日に差し出された傘。
指先が触れた瞬間の、あたたかさ。
ひとつひとつが、じわじわと彼女の輪郭を侵食していく。
「……私、こんなふうに人を信じたいと思ったの、初めてかもしれない」
「あなたの言葉だけは嘘じゃないって、そう思える……どうしてかしら」
そういって涙を流す姿は、あまりにも無防備で、痛々しかった。
本音で話す信子は、思っていたよりもずっと素直で、脆い女だった。
ふと、母親のことを思い出す。
あの女も、ひょっとすると――ただ、弱くて、孤独で、男に縋ることしかできなかっただけなのかもしれない。
……でも、そんなものに情をかけるつもりはなかった。
信じたくなったのは、勝手だ。こうして騙されていくのも、こいつの勝手だ。
俺たち兄弟が受けた悲しみの代償を、ただ払ってもらうだけの話だ。
「……嬉しいです。もし、僕と――未来を考えてくださるなら」
頷きながら、信子は唇を震わせた。
その夜、ふたりの距離は、静かに、そして確かに、最後の一線を越えた。
――驚いた。
こんなにも簡単に、歯の浮くような言葉が並べられるなんて。
――感情がないぶん、むしろ自然に出てくる。
……湯屋で働いていた頃のことだ。
店の娘に目をつけられた。
「嫌なら辞めてもらってもいいけど?」と、笑って脅された。
ここの稼ぎがなければ、生きていけなかった。
背を向けることも、拒むこともできなかった。
女の悦ばせ方は、そのとき叩き込まれた。
耳元で囁き、肌を撫でる。
声の出し方も、手の運びも、相手の反応を読むふりも、すべて仕込まれた。
愛も、優しさも、そこにはなかった。
残ったのは、技術だけ。
今夜も、ただそれをなぞっただけだ。
それでも信子にとっては、“人生でいちばん幸せな夜”として、深く刻まれることとなった。
葛城は、笑みを浮かべたまま、心の底で冷笑していた。
その瞳もまた、笑ってなどいなかった。
燃えるような復讐心だけが、胸の奥底に、静かに灯っていた。
――“兄にそっくり”だと笑った女が、今、俺の目の前で眠っている。
……ふざけるな。
よくも、ここまで。愚かで、無防備で。
……もうすぐだ、陽翔。
この女を、地獄へ連れていく。
*
その日、葛城は、小さな桐箱を差し出した。
「……これ、受け取ってくれますか?」
中には、繊細な細工が施された指環が納められていた。
金でも銀でもない。けれど、どこまでも美しく、どこかぬくもりがあった。
信子の目が潤む。
「……私なんかに、もったいないくらい……」
「そんなことはありません。……あなたとなら、きっと、穏やかな日々が送れる」
「……はい」
彼女は指環をはめ、指先を見つめながら、小さく微笑んだ。
それから数日後――
ふたりは新居の話をした。式の日取り、親類の顔ぶれ。
信子は、夢の中にいるようだった。
こんなにも順調で、こんなにも完璧な恋が、この世に存在するなんて――
詐欺の道からはすっかり足を洗い、時短の仕事を始めた。
そして、信子は通帳を差し出した。
「結婚資金として預けておくね」と、無邪気に笑って。
翌朝――
彼の姿は、なかった。
炊いたはずの朝粥も、まだ温かい湯の中も、微かに残る香の気配も――
すべてが、どこか現実味を欠いていた。
「……隼人?」
そしてようやく、信子は気づいた。
彼の荷物が、ひとつ残らず消えていることに。
「……何、これ」
机の上に置かれていたのは、昨夜、手渡したばかりの通帳だった。
信子は、震える指でそれを開く。
目に飛び込んできたのは、見覚えのない支出の記録。
……残高が、少し減っている。
けれど、その数字が何を意味しているのか、信子にはわからなかった。
今はもう、そんなことさえどうでもよかった。
問題は、そこじゃない。
スマホを手に取る。
メッセージも、通話履歴も、写真も――何も残っていなかった。
昨日まで確かに存在していたはずの“記録”が、まるごと消えていた。
彼の痕跡が、どこにもない。
「……嘘……」
かすれた声が、喉の奥から洩れる。
「……騙された……この私が……?」
口から漏れた音は、もはや、言葉とは呼べなかった。
力が抜け、膝から崩れるように、その場に座り込む。
「……いやぁあああああ!!!」
振り絞るような絶叫は、薄明かりの部屋に吸い込まれていった。
――けれど、その遥か彼方。
雨の降る静かな町の一角で、葛城は空を見上げていた。
「……信子さん。会えて、嬉しかったです」
その声に、かつての狂気はなかった。
ただ、やり遂げた男だけが知る静けさが、空に滲んでいた。
「これで、あいつを安心させてやれるはずなのに……」
「……どうしてこんなに、虚しいんだ」
どこで間違えたのか。
あるいは、間違ってなどいなかったのか。
「……でも、あいつは、もう……」
その答えは、重く濡れた風に溶け、跡形もなく消えていった。
葛城は、そっと弟の名義の通帳を握りしめた。
「……そうか。まだ、足りないんだ。こんなんじゃ……」
その思考は、ゆっくりと常識の境を越えていく。
抑え込んでいた憎悪が、静かに理性を侵食していった。
「そうだ。そもそも、金がなかったせいだ。そのせいで、こんな端金のために、陽翔はあんな目にあった」
「……だったら、いくら騙されても、盗まれても、笑い飛ばせるくらい、山ほど用意してやろう」
男は笑っていた。
悲しいほど、美しかった。
「そうすれば、二度と、あんなふうには――」
その瞬間、彼の瞳の奥に、ふたたび火が灯った。
名を変え、装いを変え、声を変え――
杉浦祐樹は、静かに闇の中へと身を沈めていく。
“葛城隼人”を皮切りに、数えきれぬほどの偽名を使い分け、完璧な微笑と、救いの言葉を武器に、女たちの懐へと忍び込んだ。
財閥一族の忘れ形見。名刹の御曹司。名門医大出の天才外科医。施設育ちのカリスマ実業家。
――どれもが虚構。けれど、その演技はあまりにも見事で、疑う者などひとりもいなかった。
……“技”を使ったのは、信子だけだった。
あの女には、嘘ひとつでは届かなかった。
己の身体ごと、嘘に差し出すことでしか、彼女の心に踏み込めなかった。
けれど、それが必要だったのは、彼女だけ。
他の女たちは、言葉と微笑みだけで、迷いなく堕ちていった。
いや、時が経つにつれ――
もはや、会わずとも堕ちる者すら現れた。
手紙一通。声の記録ひとつ。
夢を見せるだけで、女たちは、自らの足で奈落へと身を投げた。
“恋”という名の劇場。
その幕を引く指先だけが、彼にとっての真実だった。
“陽翔の未来のため”という祈りは、やがて、“この世のすべてを赦さない”という呪いへと姿を変えていた。
その詐欺は、やがてひとつの伝説となる。
名を残さず、痕跡も残さず。
ただひたすらに、弟のためだけに悪を重ねた男。
――女たちは、彼をこう呼んだ。
“泡沫の恋人”。
嘘でもいい。一夜限りでもいい。
もう一度だけ、会いたいと願ってしまう――幻の男。
***
雨音だけが、部屋を満たしていた。
葛城は、陽翔の部屋に静かに足を踏み入れた。
湿った空気が、胸の奥に鈍く沈む。
懐から取り出したのは、紫鳶の布――
復讐のために用意した、上質な手巾だった。
けれど今では、雨に濡れ、泥にまみれ、くしゃくしゃにくたびれている。
その布で、ぬいぐるみの泥をそっと拭った。
けれど、どれだけ丁寧に撫でても、穢れた手巾では、かえって汚してしまうだけだった。
「……ごめんな。これ、ずっと借りてて」
拭うたび、布に染み込んだ何かが、にじみ出す。
泥か、雨か、それとも――
気づけば、頬を伝う雫が、跡を描いていた。
小さな段箱を引き寄せる。
ぬいぐるみを包むように納め、陽翔が好きだった名札の布片や房飾りを、一つひとつ丁寧に揃えていく。
胸の奥に、まだ残っていた。
あの男の声。
――“武器の振るい方を変えれば、今より遥かに大きな利益を手にすることもできるだろう”
ただただ、腹立たしかった。
あんな親の元に産まれさせて、弟に病気を背負わせて、女に騙された時だって、助けてなんかくれなかった“神様”。
何より、その冷たさが許せなかった。
騙された弟は、ばかだと思った。
騙された女たちも、ばかだと思った。
……でも、そうか。
一番のばかは、俺だったんだな。
陽翔のいちばんの不幸は、“俺の弟”に生まれたことだったのかもしれない。
葛城は、弟の名義で新たに作った通帳を取り出した。
「あの女に奪われた分だ。きっちり、取り返した」
――もう、終わりにしよう。
騙し取った大金は、ほとんど手つかずで残っていた。
使ったのは、わずかな衣食と、陽翔の医療費だけ。
今まで騙してきた女たちの名と、奪った金額。
それらはすべて、丁寧に書き記してあった。
……この帳が必要になる日が来ると、初めから分かっていたのかもしれない。
一通の文を書く。
宛名はなかった。差出人もなかった。
ただ、こう綴られていた。
――弟のためと言いながら、いつしか自分でも、何を守っていたのか分からなくなってしまいました。弟に関わる、すべての皆様。どうか、陽翔をよろしくお願いします――
文を封じ、そっと机に置く。
部屋を見渡す。
もうここには、戻る理由も残っていなかった。
外は雨脚が強まっている。
祐樹は傘も差さず、ふらりと歩き出す。
「……行こう」
その姿が角を曲がったとき、雨の隙間から、ひとすじの光が差した。
……それが夜明けか、それともただの錯覚か――
誰にも、わからなかった。
*
療養の間の朝は、いつも静かだった。
看護師の足音が、畳に淡く響く。
窓際の寝台では、今日もひとりの青年が、静かに眠っている。
陽翔――杉浦祐樹の、たったひとりの弟。
呼びかけに応じることもなく、長い眠りの中で、ただ日々の音だけが、遠ざかっていった。
看護師が、そっと体を拭き、寝巻の襟を直す。
その傍らには、ぬいぐるみが一体、ちょこんと置かれていた。
灰色の、猫とも狐ともつかない、くたびれたそれには、誰かが最近、丁寧に洗った痕がある。
「……じゃあ、またお昼に来るからね」
そう言って、看護師が寝台から手を離れかけた――そのときだった。
かすかに、指が動いた。
右手の、薬指が――ぴくりと、ほんのかすかに。
「……あれ?」
看護師が顔を上げたが、青年は相変わらず、静かなままだった。
……薬指に、微かな力が宿った気がした。
けれどそれは、一瞬の、夢のような出来事だった。
それは、誰にも気づかれぬ、声なき祈りのような、小さな、小さな、奇跡だった。
次回:“神様”じゃなければ




