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【完結】結婚できない女が『普通の男でいいのに』って言ってたら、神様が本気で婚活させに来た。/『泡沫 月華の縁結び〜だから、普通の人でいいんです〜』  作者: 蜂屋
愛と呪いの境界線

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24/32

特別読切④『その光が夜明けなら』


月のない空が、墨のように沈んでいた。

葛城は石畳の路地をよろめくように駆け抜け、肩で息をした。喉が焼ける。鼓動が、胸を内側から叩き割りそうに荒ぶっている。


吸い込んだはずの空気が、肺の奥でざらついて暴れる。

喉が焼けつき、胸の中がひゅうひゅうと軋んだ。

空気はあるはずなのに、うまく吸えない――まるで、見えない手に首を締められているようだった。

指先がかすかに震えていた。


握りしめていたのは、くたびれた小さなぬいぐるみ。

灰色の、猫とも狐ともつかないそれは、柔らかな木綿の布で仕立てられており、何度も洗われて、綿もところどころ痩せていた。

耳の裏側には、名札のようなタグが縫い込まれている。

ひらがなで、こう刺繍されていた。


――はると


葛城は、そのタグを見ることができなかった。

足元に転がる小石ひとつにさえ殺意が宿るほど、今の彼には余裕がなかった。


「……クソが……っ」


しばらく身を隠した木造長屋の陰で、葛城は地べたにへたり込んだ。

背を壁に預け、空を見上げる。

だが、そこに月も星も、――あの男の気配すら、なかった。


さっきの“対話”が、まだ耳に残っている。

あれは夢だったのか、それとも幻か。

もしくは、本当に……?


(神様、ねぇ……)


思い出そうとして、葛城は鼻で笑った。


肩で息をしながら、ぬいぐるみをそっと抱きしめた。

タグの端が、かすかに揺れている。風はないのに。


その重みだけが、今の自分に現実を思い出させる。

“弟はもう戻らない”という、冷たくて痛い、変わりようのない現実を。



***



炊事場に、大人の背丈には高すぎる踏み台。

その上で、少年が長い菜箸を揺らしながら、鍋をかき回していた。

即席麺の汁に、冷蔵棚の隅に残っていたキャベツの芯と、にんじんの切れ端を刻んで放り込む。

少しでも栄養を足そうと、必死だった。


「にぃにのごはん〜!」


ふわふわの髪に、くしゃっと笑った顔。

目尻がきゅっと上がって、頬がまるくふくらんでいる。

ぬいぐるみを胸に抱え、タグを指先でくるくると撫でながら、跳ねるように駆け寄ってくる。


祐樹は小さく笑い、手を止めずに言った。


「……もうすぐできるから、待ってろよ」


その笑顔だけで、世界がほんの少しやわらかくなる気がした。

だからこそ、どうにかして守りたかった。


「……はい、どいてどいて〜」


寝室から、ようやく母親が出てきた。

陽翔の横をすり抜けて、台所を横切る。

顔に白粉、口紅のにおい。

簪をまとめた髪、上質な足袋。すっかり“夜の顔”だ。


「……あ、そうだ。祐樹〜」

「陽翔、明日お弁当の日だから。よろしく」


言い捨てるようにして玄関に向かう背中に、ぽつりと。


「……もう、お金ない」


振り返った母親が、めんどくさそうに舌打ちした。帯のあいだから、銀貨をひとつ、無造作に取り出して放ってよこす。


「ほんっと金かかる……。これで足りるでしょ?じゃ、行ってきまーす」


硬貨が床を転がり、壁に当たって止まる。祐樹は無言で拾い上げ、それ以上は何も言わなかった。


母親は「昼は仕事が忙しくて」と嘘の就労証明を出し、陽翔を保育園に預ける。


朝から夕方までは寝て過ごし、迎えに行ったあとは、すべて俺に丸投げ。


まだ幼い、10歳と2歳の兄弟を残して――

母親は、今日も夜の街に消えていく。


白檀の香と、煙草の匂いだけを残して。


「ほら、こっち来い。熱いから触んなよ」


「にぃにすごい〜!」


陽翔は言葉より先に笑う。

抱えたぬいぐるみをテーブルに転がし、タグを噛んだ。


布の端、紙札、紐。

陽翔は“端っこ”が好きだった。


夜泣きのときは、祐樹が背中に乗せて歩く。

陽翔の手が、眠気で力なく祐樹の襟をつまむ。


——父親が違う、ダウン症の陽翔。

その指の感触を、俺は今でも覚えている。


時が経ち、俺は地元の高校に進んだ。


入学と同時に、湯屋の裏方としてバイトにも出るようになった。

学費と暮らしの足しにするには、それしかなかった。


陽翔の心臓は弱く、病院通いの日々。

「にぃにがついててくれるから大丈夫」と、陽翔は笑う。


バイトの時間を削れば、暮らしがままならない。

課題にも手がつかないまま、制服のままで病院へ付き添い、事情を知る大家に頭を下げて陽翔を預け、湯屋へ向かう。


同級生の「放課後なにする?」という声が、別の世界のものに聞こえた。


それでも、陽翔をひとりにはできなかった。

母親はいた。でも、“いないも同然”だったから。

弱音なんて吐けない。

弟の前では、いつだって“自慢の兄”でいなければならなかった。





高三の春、気づいた。

母親の視線が、どこかおかしい。


酔ったある夜、背後から抱きつかれた。

湿った吐息、甘ったるい白檀のにおい。

耳元にかかる声に、全身の毛が逆立つ。


――この人は、息子じゃなく、“男”として俺を見ている。


「やめろ……!」


力いっぱい突き放した。


少しの沈黙の後、母はふらりと立ち上がった。

何も言わず、振り返りもせず、ただ静かに、部屋を出ていく。


扉が閉まりかけた、その瞬間。

俺は、思わず立ち上がりかけて――やめた。



いまでも思う。

どうして母は、何も言わなかったのか。

どうして俺は、あの背中を追いたいと思ったのか。


――あんなにも嫌いだったはずなのに、それでもどこかで“母親”であってほしいと願っていた。

そんな自分が、情けなかった。


……そして、二度と顔を見ることはなかった。





翌日。

仕事から帰ると、家はやけに静かだった。


押し入れも、箪笥も、化粧台も――空っぽだった。


置き手紙もない。ただ、白檀のにおいだけが、微かに残っていた。


汚れた欲を否定されたことが、耐えられなかったのかもしれない。

それとも、“女”として見られなかったことが、許せなかったのか。


――あれ以来、“女の笑顔”が、信用できなくなった。


けれど、あんな女でも――

陽翔にとっては、大好きな“おかあさん”だった。


「おかあさん、かえってこないの……?」


夜中、戸口の前で泣きじゃくる陽翔。

ぬいぐるみを抱えて、タグを噛みながら、何度も呼んでいた。


それは、陽翔が10歳になった冬のことだった。


まわりの子どもたちが、“現実”を理解する年齢になっても――

あいつだけは、まだ信じていた。

母はきっと、笑って帰ってくると。


祐樹は、その小さな背中を、黙って抱きしめた。


……俺が、守るしかない。

この世界の汚さから、こいつだけは守りたい。


「――にぃに、かっこいいって!びょういんの人、みんな言ってたよ!」


陽翔は笑う。

何も知らないその顔で。

ふわふわの髪、まるい頬、ぬいぐるみのタグをくわえながら、満面の笑みを向けてくる。


そうだ。


こいつの“自慢の兄”でいなきゃいけない。

汚れた過去なんか、全部飲み込んで。


どんなことがあっても――


こいつを守れるのは、俺しかいない。


俺は、進学を諦めて、働いた。





俺が23になった年の、ある昼下がり。

仕事先に、警察官が訪ねてきた。


「……死んだ?」


どうやら母親が、客ともめて、刺されたらしい。

遺体はひと晩、路地に打ち捨てられていたという。


不思議なくらい、何も湧いてこなかった。

涙も、怒りも、戸惑いさえも。

ただ――「ああ、やっぱりな」と思っただけだった。

あの人らしい、雑で、救いのない終わり方だった。


その後、陽翔の後見人としての手続きが進められた。

長年の“実績”があったせいか、話は早かった。


――形式が、やっと現実に追いついたということか。





陽翔が“恋”を知ったのは、20歳になる少し前のことだった。


「りりかちゃんってね、昔、お父さんに捨てられちゃったんだって。だから、家族にすごく憧れてるの……」


そう話す陽翔の声は、どこか誇らしげだった。

スマホに届いたやりとりは、まるで宝物のように、大事に保存されている。


梨々香――

年上で、やさしくて、褒め上手で、「会いたい」「大好き」を何度も繰り返す女。

近くの商店で働いていた陽翔に、向こうから声をかけてきたのだという。


『陽翔くんのこと、ずっと素敵だなって思って見てた』

『お兄さんにそっくりで、かっこいいよ。胸がどきどきする』


その画面を、陽翔は何度も見せに来た。

嬉しそうに、照れたように、何度も何度も。


「ね、ね!ぼく、かっこいいって言ってもらえたんだよ!にぃにに似てるって!」


――ふざけるな。思ってもねぇくせに。


似てるなんて、誰ひとり言わなかった。

父親も違う、ダウン症を持った弟。


あいつの、丸くて柔らかい顔を笑ったやつなら、いくらでもいた。


“兄に似てる”――

それは、陽翔がずっと、ずっと欲しかった言葉だ。


……“梨々香”は、それを知っていた。

知っていて、わざと、使ってきた。


「……陽翔。その女とは、絶対に会うな」

「連絡を取るのも…もうやめろ」


「う、うん……」


その日を境に、陽翔は梨々香の話を一切しなくなった。





ある夏、通帳の末尾の額を見て、祐樹はすべてを悟った。

あまりにきれいに、残高が“ゼロ”になっていた。

まるで、誰かの手によって、正確に計算されたかのように。


――やられた。


「……どうして、お前の金、全部渡したんだ!!」


怒声が部屋を裂いた。

初めて、陽翔を怒鳴った。

弟はびくっと肩をすくめ、笑おうとして――けれど、うまく笑いきれなかった。

目の奥が、どこか怯えたように曇っていた。


「だって……ぼくらの結婚のために、お金がいるんだって、りりかちゃんが……」

「喜んでくれると思って……だから……」


その声は小さく、幼かった。

まるで叱られた子どものように、震えていた。


(……ふざけんなよ)


祐樹の中で、何かが堰を切った。

怒りが喉の奥から噴き上がる。


――8つも年下の弟だ。

物心つく前から、親の代わりに世話をしてきた。

進学も、夢も、自由も捨てて。

病気のお前を抱えて、総合病院へ何度も足を運び、嫌がるお前を説得して、必死に守ってきたのは、誰だった?


それなのに。

“女”なんかに浮かれて、何もかもを差し出して。

よりによって、貯金まで、すっかり騙し取られて。


「なんなんだよ、お前……!!」


歯が軋むほど、奥歯を噛み締めていた。

結婚?できるわけがない。どう見ても詐欺だ。

なぜ、それがわからないんだ。


「現実見ろよ!!!」


その叫びは、祐樹自身をも切り裂いていた。

弟の愚かさに、世間の冷たさに、そして――

守りきれなかった自分自身に。



夜、祐樹は一睡もできなかった。

何度も通帳を開いては、額を睨み、

陽翔の名前を、ただ、繰り返し呟いた。



――そして、翌朝。


陽翔は、姿を消していた。


夕方、警察署からの連絡。

公園の水溜りのそばで、倒れていたという。


脱水。持病の心疾患の悪化。

低酸素状態。


病院に運ばれた陽翔の前で、医師は静かに首を振った。


「低酸素脳症です。回復は……難しいでしょう」


医師は、声を落として続けた。


「自発呼吸と栄養の管理は可能ですが、意識が戻る見込みは……極めて低いです」

「ダウン症のある方は、暑さや脱水に対する感覚が鈍く…」


静かに、術盤の脈音が、かすかに空気を震わせていた。

不規則に揺れる波形を見つめながら、祐樹はただ、陽翔の手を握り続けていた。


――一命は、取り留めた。

けれど、もう二度と、“陽翔の笑顔”は戻らない。

祐樹は、陽翔の手を握ったまま、じっと顔を見つめていた。


「……わかってたよ。怒鳴ったって、意味なんかないって……」


あのとき、自分がどれだけ取り乱していたかを思い返すだけで、胸が痛む。


「知的障害のあるお前に、あんなふうに怒鳴っても……通じるわけがない。パニックになるってことも、最初から、わかってたのに……」

「それでも、抑えきれなかった。ずっと溜め込んでた感情を、ぶつけてしまった。お前を傷つけても、止まれなかった」


言いながら、自分でも信じられないほど、感情がにじみ出ていた。


「……ごめんな、陽翔」


乾いた空気の中、彼の声だけが静かに沈んでいく。


――夕方。

祐樹は、一人で帰宅した。


静まり返った陽翔の部屋。

ぬいぐるみが、うつ伏せに転がっていた。

指で撫で続けた場所だけが、やさしく擦り減っていた。


祐樹は、それにそっと手を当てた。


「――“結婚”って言葉に、憧れてたのは知ってた」

「優しい女に、母親の影を重ねて……ずっと、追いかけてたんだよな」


祐樹は目を伏せ、静かに息を吐いた。


「わかってたよ。ずっと……わかってた。俺じゃ、どう足掻いても“母親”にはなれなかったから」

「でもな、それでも……お前が、そんな目に遭う筋合いなんてなかった」


拳が、わずかに震えていた。


「……悪いのは、お前じゃない」


その言葉を、ようやく口にできた。


「全部、“あの女”のせいだ」


ゆっくりと、顔を上げる。


その瞳に、もう迷いはなかった。


――“梨々香”。


静寂を裂いて、言葉が落ちる。


「……俺が、全部取り返してやる」





スマホの記録は、すべて残っていた。


女が陽翔にかけた、甘い言葉の数々。

あの日、俺が怒鳴ったあと――

陽翔が、必死に結婚の約束を確かめようと送った言葉までも。


既読すらつかないまま、冷たく沈黙する画面。


……詐欺かどうかを、陽翔は聞かなかった。

なら、まだ終わっていない。

その返信、俺が引きずり出してやる。


『りりかちゃん、僕は、信じてるよ』

『そうだ、お給金が入ったんだ。頑張ったから、たくさん!このお金を渡したい』

『少しだけでも、会いたいんだ。いいかな?』


陽翔のふりをして、メッセージを送る。

ほどなく、返事が届いた。


『いいよ!私も会いたいな♪』


……応じた。

その瞬間、喉の奥に、じわりと熱が灯った。


――逃がすもんか。


指定したのは、港の見える見晴らし台。

風のない夜。灯りのない高台に、足音だけが響く。


女は、化粧を塗り固めた顔で現れた。

落ち着かない様子で、何度も辺りを見回している。


祐樹は、遠くからその姿を静かに見つめていた。


メッセージを送る。


『……ごめんね。具合が悪くなって、行けなくなっちゃった』


女は小さく舌打ちし、袖の内から蒔絵の手鏡を取り出す。

紅差しの蓋を開け、指先で唇に色を差す。


その顔に、落胆も怒りもなかった。


――予定が狂った。ただ、それだけ。


紅差しを仕覆に戻し、踵を返す。

灯りの少ない坂道を、無表情のまま下っていく。


祐樹は、黙ってその背を追った。


住まい。連絡先。そして、本名。

――吉田信子。





数日後。祐樹は髪を切り落とし、染めた。

地味な織りの普段着を脱ぎ、白を基調とした晴れ着を身にまとう。


金襴模様の刺繍が、光を受けてわずかに揺れる。

帯の締めつけより深く、胸の奥が軋んだ。


仕立て屋の鏡に映った姿を、じっと見つめる。

そこにいたのは、もう“陽翔の兄”ではない。


……復讐のため、この世に“編まれ直された”、影法師。


祐樹は目を伏せ、ゆっくりと、口元に笑みを浮かべた。


――弟が目を覚ましたら、“にぃにが、全部取り返してやったぞ”って言うんだ。

“もう大丈夫だ”って、笑ってやるんだ。


その笑みに宿っていたのは、祈りの名をしたやさしさと——

……祈りを捨てた、静かな狂気だった。





待ち合わせ場所に現れたのは、ひとりの女。

艶やかな黒髪、華やかな着物、高価な履物。

爪の先まで整えられたその姿は、まるで舞台に立つ役者のようだった。


「……お待たせしました、信子さん」


祐樹は、静かに頭を下げる。


「改めまして、――“葛城 隼人”です。お会いできるのを、楽しみにしていました」


その一言に、信子はわずかに目を見張った。

整った顔立ち、落ち着いた声、礼を尽くす所作。

どこにも隙がなく、むしろ、それが怖い。


こういう男ほど、心の奥に牙を隠している。

それを見抜けないようでは、詐欺師なんてやっていられないはずなのに。


――これまでの男たちとは、何かが違う。

そんなふうに思ってしまった自分に、思わず笑いそうになる。


惚れるなんて、ありえない。

信じるなんて、もっとありえない。

……なのに、なぜか目を逸らせなかった。


葛城は、じっと目の前の女を見つめる。


陽翔に似ている――そんな言葉が、彼女の口から出てくることはなかった。

……まあ、当然か。最初から、そう思ってなんかいなかったんだから。





会うたびにほんの少しずつ、信子の警戒はほぐれていった。

気がつけば、季節が一歩だけ進んでいた。


葛城は穏やかで、けれど、ふとした拍子に見せる孤独な横顔が、信子の胸を締めつけた。


「僕には弟がいましてね。今は、寝たきりなんです」


「……まぁ……それは……」


「彼が昔、ある女性に騙されてしまって」


信子の指先が、かすかに強張る。

だが、葛城はそれ以上を語らなかった。


彼は静かに微笑みながら、まるで夢の続きを語るように話した。

“弟が目を覚ましたら、こんな話をしてやりたい”――そんなふうに。


「信子さんも、沢山の人に裏切られて、傷付いてきたんですね」


「……えっ?」


「……分かります。君は、迷子の子猫みたいな目をしてる」


手のひらで頬を包み、そのまま指先で唇をなぞる。


「もし君が望むなら…その悲しみごと、僕に預けてくれませんか」


「……!」


「……信子さんが、好きです」


信子の心は、いともたやすく揺れた。

――なのに、そのやさしさに、ほんの一瞬だけ、言いようのない怖さを感じた。


贈られた簪。雨の日に差し出された傘。

指先が触れた瞬間の、あたたかさ。

ひとつひとつが、じわじわと彼女の輪郭を侵食していく。


「……私、こんなふうに人を信じたいと思ったの、初めてかもしれない」

「あなたの言葉だけは嘘じゃないって、そう思える……どうしてかしら」


そういって涙を流す姿は、あまりにも無防備で、痛々しかった。

本音で話す信子は、思っていたよりもずっと素直で、脆い女だった。


ふと、母親のことを思い出す。

あの女も、ひょっとすると――ただ、弱くて、孤独で、男に縋ることしかできなかっただけなのかもしれない。


……でも、そんなものに情をかけるつもりはなかった。

信じたくなったのは、勝手だ。こうして騙されていくのも、こいつの勝手だ。

俺たち兄弟が受けた悲しみの代償を、ただ払ってもらうだけの話だ。


「……嬉しいです。もし、僕と――未来を考えてくださるなら」


頷きながら、信子は唇を震わせた。


その夜、ふたりの距離は、静かに、そして確かに、最後の一線を越えた。


――驚いた。

こんなにも簡単に、歯の浮くような言葉が並べられるなんて。

――感情がないぶん、むしろ自然に出てくる。


……湯屋で働いていた頃のことだ。

店の娘に目をつけられた。

「嫌なら辞めてもらってもいいけど?」と、笑って脅された。


ここの稼ぎがなければ、生きていけなかった。

背を向けることも、拒むこともできなかった。


女の悦ばせ方は、そのとき叩き込まれた。

耳元で囁き、肌を撫でる。

声の出し方も、手の運びも、相手の反応を読むふりも、すべて仕込まれた。


愛も、優しさも、そこにはなかった。

残ったのは、技術だけ。


今夜も、ただそれをなぞっただけだ。


それでも信子にとっては、“人生でいちばん幸せな夜”として、深く刻まれることとなった。


葛城は、笑みを浮かべたまま、心の底で冷笑していた。

その瞳もまた、笑ってなどいなかった。

燃えるような復讐心だけが、胸の奥底に、静かに灯っていた。


――“兄にそっくり”だと笑った女が、今、俺の目の前で眠っている。

……ふざけるな。


よくも、ここまで。愚かで、無防備で。


……もうすぐだ、陽翔。

この女を、地獄へ連れていく。





その日、葛城は、小さな桐箱を差し出した。


「……これ、受け取ってくれますか?」


中には、繊細な細工が施された指環が納められていた。

金でも銀でもない。けれど、どこまでも美しく、どこかぬくもりがあった。


信子の目が潤む。


「……私なんかに、もったいないくらい……」


「そんなことはありません。……あなたとなら、きっと、穏やかな日々が送れる」


「……はい」


彼女は指環をはめ、指先を見つめながら、小さく微笑んだ。



それから数日後――


ふたりは新居の話をした。式の日取り、親類の顔ぶれ。

信子は、夢の中にいるようだった。

こんなにも順調で、こんなにも完璧な恋が、この世に存在するなんて――


詐欺の道からはすっかり足を洗い、時短の仕事を始めた。


そして、信子は通帳を差し出した。

「結婚資金として預けておくね」と、無邪気に笑って。



翌朝――

彼の姿は、なかった。


炊いたはずの朝粥も、まだ温かい湯の中も、微かに残る香の気配も――

すべてが、どこか現実味を欠いていた。


「……隼人?」


そしてようやく、信子は気づいた。

彼の荷物が、ひとつ残らず消えていることに。


「……何、これ」


机の上に置かれていたのは、昨夜、手渡したばかりの通帳だった。

信子は、震える指でそれを開く。


目に飛び込んできたのは、見覚えのない支出の記録。

……残高が、少し減っている。


けれど、その数字が何を意味しているのか、信子にはわからなかった。

今はもう、そんなことさえどうでもよかった。


問題は、そこじゃない。


スマホを手に取る。

メッセージも、通話履歴も、写真も――何も残っていなかった。


昨日まで確かに存在していたはずの“記録”が、まるごと消えていた。

彼の痕跡が、どこにもない。


「……嘘……」


かすれた声が、喉の奥から洩れる。


「……騙された……この私が……?」


口から漏れた音は、もはや、言葉とは呼べなかった。

力が抜け、膝から崩れるように、その場に座り込む。


「……いやぁあああああ!!!」


振り絞るような絶叫は、薄明かりの部屋に吸い込まれていった。



――けれど、その遥か彼方。

雨の降る静かな町の一角で、葛城は空を見上げていた。


「……信子さん。会えて、嬉しかったです」


その声に、かつての狂気はなかった。

ただ、やり遂げた男だけが知る静けさが、空に滲んでいた。


「これで、あいつを安心させてやれるはずなのに……」

「……どうしてこんなに、虚しいんだ」


どこで間違えたのか。

あるいは、間違ってなどいなかったのか。


「……でも、あいつは、もう……」


その答えは、重く濡れた風に溶け、跡形もなく消えていった。


葛城は、そっと弟の名義の通帳を握りしめた。


「……そうか。まだ、足りないんだ。こんなんじゃ……」


その思考は、ゆっくりと常識の境を越えていく。

抑え込んでいた憎悪が、静かに理性を侵食していった。


「そうだ。そもそも、金がなかったせいだ。そのせいで、こんな端金のために、陽翔はあんな目にあった」

「……だったら、いくら騙されても、盗まれても、笑い飛ばせるくらい、山ほど用意してやろう」


男は笑っていた。

悲しいほど、美しかった。


「そうすれば、二度と、あんなふうには――」


その瞬間、彼の瞳の奥に、ふたたび火が灯った。


名を変え、装いを変え、声を変え――

杉浦祐樹は、静かに闇の中へと身を沈めていく。


“葛城隼人”を皮切りに、数えきれぬほどの偽名を使い分け、完璧な微笑と、救いの言葉を武器に、女たちの懐へと忍び込んだ。


財閥一族の忘れ形見。名刹の御曹司。名門医大出の天才外科医。施設育ちのカリスマ実業家。

――どれもが虚構。けれど、その演技はあまりにも見事で、疑う者などひとりもいなかった。


……“技”を使ったのは、信子だけだった。


あの女には、嘘ひとつでは届かなかった。

己の身体ごと、嘘に差し出すことでしか、彼女の心に踏み込めなかった。

けれど、それが必要だったのは、彼女だけ。

他の女たちは、言葉と微笑みだけで、迷いなく堕ちていった。


いや、時が経つにつれ――

もはや、会わずとも堕ちる者すら現れた。


手紙一通。声の記録ひとつ。

夢を見せるだけで、女たちは、自らの足で奈落へと身を投げた。


“恋”という名の劇場。

その幕を引く指先だけが、彼にとっての真実だった。


“陽翔の未来のため”という祈りは、やがて、“この世のすべてを赦さない”という呪いへと姿を変えていた。


その詐欺は、やがてひとつの伝説となる。


名を残さず、痕跡も残さず。

ただひたすらに、弟のためだけに悪を重ねた男。


――女たちは、彼をこう呼んだ。


“泡沫の恋人”。


嘘でもいい。一夜限りでもいい。

もう一度だけ、会いたいと願ってしまう――幻の男。



***



雨音だけが、部屋を満たしていた。


葛城は、陽翔の部屋に静かに足を踏み入れた。

湿った空気が、胸の奥に鈍く沈む。


懐から取り出したのは、紫鳶の布――

復讐のために用意した、上質な手巾だった。

けれど今では、雨に濡れ、泥にまみれ、くしゃくしゃにくたびれている。


その布で、ぬいぐるみの泥をそっと拭った。

けれど、どれだけ丁寧に撫でても、穢れた手巾では、かえって汚してしまうだけだった。


「……ごめんな。これ、ずっと借りてて」


拭うたび、布に染み込んだ何かが、にじみ出す。

泥か、雨か、それとも――

気づけば、頬を伝う雫が、跡を描いていた。


小さな段箱を引き寄せる。

ぬいぐるみを包むように納め、陽翔が好きだった名札の布片や房飾りを、一つひとつ丁寧に揃えていく。


胸の奥に、まだ残っていた。

あの男の声。


――“武器の振るい方を変えれば、今より遥かに大きな利益を手にすることもできるだろう”


ただただ、腹立たしかった。

あんな親の元に産まれさせて、弟に病気を背負わせて、女に騙された時だって、助けてなんかくれなかった“神様”。

何より、その冷たさが許せなかった。


騙された弟は、ばかだと思った。

騙された女たちも、ばかだと思った。


……でも、そうか。

一番のばかは、俺だったんだな。


陽翔のいちばんの不幸は、“俺の弟”に生まれたことだったのかもしれない。


葛城は、弟の名義で新たに作った通帳を取り出した。


「あの女に奪われた分だ。きっちり、取り返した」



――もう、終わりにしよう。


騙し取った大金は、ほとんど手つかずで残っていた。

使ったのは、わずかな衣食と、陽翔の医療費だけ。


今まで騙してきた女たちの名と、奪った金額。

それらはすべて、丁寧に書き記してあった。


……この帳が必要になる日が来ると、初めから分かっていたのかもしれない。


一通の文を書く。

宛名はなかった。差出人もなかった。


ただ、こう綴られていた。


――弟のためと言いながら、いつしか自分でも、何を守っていたのか分からなくなってしまいました。弟に関わる、すべての皆様。どうか、陽翔をよろしくお願いします――


文を封じ、そっと机に置く。


部屋を見渡す。

もうここには、戻る理由も残っていなかった。


外は雨脚が強まっている。


祐樹は傘も差さず、ふらりと歩き出す。


「……行こう」


その姿が角を曲がったとき、雨の隙間から、ひとすじの光が差した。


……それが夜明けか、それともただの錯覚か――

誰にも、わからなかった。





療養の間の朝は、いつも静かだった。


看護師の足音が、畳に淡く響く。

窓際の寝台では、今日もひとりの青年が、静かに眠っている。


陽翔――杉浦祐樹の、たったひとりの弟。

呼びかけに応じることもなく、長い眠りの中で、ただ日々の音だけが、遠ざかっていった。


看護師が、そっと体を拭き、寝巻の襟を直す。

その傍らには、ぬいぐるみが一体、ちょこんと置かれていた。

灰色の、猫とも狐ともつかない、くたびれたそれには、誰かが最近、丁寧に洗った痕がある。


「……じゃあ、またお昼に来るからね」


そう言って、看護師が寝台から手を離れかけた――そのときだった。


かすかに、指が動いた。


右手の、薬指が――ぴくりと、ほんのかすかに。


「……あれ?」


看護師が顔を上げたが、青年は相変わらず、静かなままだった。


……薬指に、微かな力が宿った気がした。

けれどそれは、一瞬の、夢のような出来事だった。


それは、誰にも気づかれぬ、声なき祈りのような、小さな、小さな、奇跡だった。



次回:“神様”じゃなければ

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