第二十話:****
第二十話:桐島 誠一
あの夕暮れを、俺は一生忘れない。
小学一年生の冬。
日が落ちるのが早くなり、校庭の隅には霜が残っていた。
寒さの中に、季節の終わりが潜んでいた。
その日、学校からの帰り道、いつもの角を曲がったところで、ふいに父と鉢合わせた。
たまたま早上がりだったらしい。
「……おぅ」
それだけ言って、父は背を向けて歩き出す。
俺は少し迷ってから、自然とその背中を追いかけていた。
声をかけても、返事はなかった。
けれど、一緒に歩くその時間が嬉しくて、俺は小走りで、父の足に合わせて歩いた。
家までの道のりの途中、交差点の信号で立ち止まったときだった。
ふと目をやった先、反対側の歩道に、見覚えのある後ろ姿があった。
母だった。
ピンク色のコート。両手に提げられたスーパーの袋。
でも、その足は、家とは真逆の方向に向かっていた。
「……今日は遅くなるって、言ってたのに」
小さく呟いた俺の声に、父はわずかに眉をひそめただけだった。
数秒の沈黙のあと、低く、冷たい声が落ちる。
「……一人で、帰れ」
それだけだった。
次の瞬間にはもう、父の背中が歩き出していた。
俺はその場に立ち尽くした。
胸の奥に、ひやりとしたものが広がる。
(このまま帰ったら、きっと、なにかが壊れる)
はっきりとは言えない。でも確かに、そう思った。
風が吹くたびに、パーカーのすそがペタリと体に張りついた。
足先の感覚がじんわりと失われていく。寒さではない震えが、身体の芯を掴んでいた。
「……いやだ。お父さん。ぼくも行く」
その時の父の表情は、覚えていない。
ただ、彼は何も言わず、俺が並んで歩くことを拒まなかった。
そして着いたのは、見知らぬ住宅街の一角だった。
街灯がまだ灯る前の、淡く茜がにじむ空の下。
玄関先に立っていたのは——母だった。
そして、その隣には見たことのない男がいた。
ふたりは笑っていた。
ごく自然に、まるでずっとそうだったかのように。
その笑顔は、俺の知っている“母親”の顔じゃなかった。
食卓で浮かべる無理な笑みでもない。
夜中、寝室の隅で背中を向けていたときの、哀しい横顔でもない。
それは、ただ穏やかで、やわらかくて、
どこか嬉しそうにさえ見える、“女”としての顔だった。
そして、その笑顔がふっと止まった。
母がこちらに気づいたのだ。
一瞬で、表情が引きつる。
隣の男の肩から手を離し、何か言いかけた。
そのとき——
後ろから、父の声が低く、しかし鋭く飛んだ。
「……おい、何してるんだ」
その声に、母がビクッと肩をすくめる。
「……お前、自分が何してるのか分かってるのか!」
夕焼けがアスファルトをじわりと染めていく。
その上に、怒鳴り声だけが異様に響いた。
「っ……あなたが悪いのよ!毎日パチンコ屋に入り浸ってるくせに、気に入らないことがあればそうやってすぐに怒鳴って……私の気持ち、一度でも考えたことある!?」
「お前が毎日フラフラして、飯もまともに作らないから、俺が働けないんだろうが!」
「はあ!?私は毎日、あなたの顔色うかがって……怖くて家事どころじゃなかったのよ!」
「お前が何にもやらねぇから、こっちは帰ってくるのが地獄だったんだよ!」
「こっちの台詞よ!家にいるだけで息が詰まるのに!」
怒鳴り声の応酬が、アパート前の静けさを切り裂いていく。
「…それに…なんで……なんで、誠一まで連れてくるのよ!」
叫ぶような、泣きそうな、怒鳴り声。
——何百回も聞いてきた、夫婦の罵声だった。
いつもは、俺のいない部屋で響いていたのに。
でも、今日は違った。
俺の目の前で、それが現実として突きつけられていた。
「ぼくが来るって言ったんだ!お父さんとお母さん、また仲良しに戻ってよ!」
情けなく震える声。
込み上げる涙が言葉を詰まらせる。
でも、止められなかった。
「ぼく、なんでもするから!おうちでも静かにするし……ごはんも作るし、お掃除もするよ!……だから……!」
必死だった。
どうにかして、言葉を重ねた。
「このまま帰ったら……もう、ふたりとも仲直りできなくなっちゃうんじゃないかな……?だから、ね、お願い……!」
まるで“言えば戻る”と信じている、幼い祈りだった。
母は、目を伏せた。
「……ごめんね。でももう、“家族ごっこ”は無理」
たった一言で、すべてが崩れた。
その言葉は、胸の奥を、確かに裂いた。
父は何も言わなかった。
ただポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
ライターの音がやけに大きく聞こえた。
白い煙が、夕暮れの空に溶けていく。
——それを見ていることしか、できなかった。
──その日を境に、俺の中で「家族」という言葉は、いつか必ず壊れるものになった。
***
小学三年生の春。
入学式から数日が過ぎたころ、芽吹きはじめた街路樹の下で、小雨がぱらついていた。
パーカーの袖を頭にかざしながら、まだ冷たい風に吹かれて、俺は家路を急いでいた。
ふと、前方に人影。
ランドセルを傘代わりに、必死に走っていた小さな背中。
けれどその子は、水たまりに足を取られ——
「……っ」
転んだ。
しゃがみこんだその肩が、小さく震えていた。
膝が赤くにじみ、雨が頬をつたっていく。
思わず、駆け寄っていた。
ポケットからハンカチを取り出し、そっとしゃがみ込む。
差し出したのは、お気に入りの──青いハンカチ。
「……大丈夫?」
その子は、ゆっくりと顔を上げた。
まつげに雨粒を宿した大きな瞳。
一瞬、驚いたようにこちらを見つめたあと、ふわっと——花が咲くように笑った。
「……ありがとう」
その声が、雨音のなかでやけにあたたかかった。
胸の奥が、じん、と鳴った。理由なんて、わからないのに。
「……王子様?」
息が止まった気がした。
「ッ……!は、はぁ!?そんなわけあるか!」
耳まで熱くなるのが、自分でもわかった。
だけど彼女は、まっすぐ笑って、こう言った。
「なぁんだ。でもね、ゆいこの王子様はね、泣いてるお姫様に、青いハンカチをくれるんだよ」
「ゆいこね、大きくなったら王子様と結婚するのが夢なの!」
「青……どうして青なの?」
「んー……わかんないけど、なんか、かっこいいからかな?」
「……はは。単純」
「えへへ!結衣子はお姫様だから、ほら見て!ピンク!」
嬉しそうに背中をくるんと向けて、薄いピンク色のランドセルを見せてきた。
泥だらけの手でハンカチを握りしめながら、まるで“夢”の中の住人みたいに、まっすぐこちらを見つめて——
「ハンカチ、ありがとね!バイバイ!」
そして彼女は、びしょ濡れのまま、雨のなかを走っていった。
明るい足取りで、まるで何も怖くないみたいに。
残された俺は、呆然とその背中を見つめていた。
……それが、椿 結衣子との最初の出会いだった。
その日からだ。
俺は、青いハンカチを選ぶようになった。
いつもポケットに入れていた。
別に、深い理由があったわけじゃない。
ただ、なんとなく。それだけだったはずなのに——
どこかで、ずっと思っていた。
——また、あの子が泣いていたら。
誰よりも早く気付いて、この“青いハンカチ”を差し出したい。
それが、俺の初恋だった。
***
小学四年生の秋。
その頃の俺は、集団下校の決まりで、たまに小二の結衣子と一緒に帰ることがあった。
「ねぇ!誠一くん。わたし、今度の誕生日に大阪に住んでるおばさんから、チワワの赤ちゃん、譲ってもらうんだ!!」
嬉しそうに話す結衣子の手には、色鉛筆で描かれたノートがあった。
「ほら!5人家族になるの!」
そこには、両親、妹、赤いリボンの首輪をつけた、チワワのイラスト。
そして真ん中には、ピンク色の着物を着てそのチワワを抱いている、女の子の絵。
「へぇ。よかったね。このお姫様みたいなのが結衣子ちゃん?」
「えへへ。そうだよ!」
無邪気な笑顔に、胸の奥がほんのりと熱くなった。
「おばさんが結婚式で、絵本の『かぐや姫』みたいになっててね、とっても素敵だったの」
「それで、わたしも——これ!」
もう一枚のページをめくると、そこにはつたないひらがなで書かれた短い物語があった。
——
ゆいこひめは、けっこんする人が きまらなくて、
まいにち かなしくて なみだを ながしていました。
ある日、空から ひかる くもが おりてきました。
くもの上に、かっこいい顔の おうじさまが のっていました。
「だいじょうぶ。もう なかなくていいよ」
そう言って、おうじさまは 青いハンカチを くれました。
ゆいこひめは、うれしくて にっこり わらいました。
そして、ゆいこひめと おうじさまは、しあわせに けっこんしました。
おしまい。
——
「本当は私もかぐや姫みたいになりたかったんだけど……それじゃ、誰とも結婚できないでしょ?だから、わたしが考えたの!」
「お金持ちから結婚してくださいって言われるんだけど、ぜーんぶ断ってね、最後は金色の雲にのった王子様と結ばれるの!それで、大きなお屋敷で幸せに暮らすんだ〜!」
その夢は、きらきらしていた。
でも、どうしようもなく——痛かった。
「……結婚なんて、ろくなもんじゃないよ」
「え?なんで?」
「結婚したって、うちの親は毎日ケンカばっかだったし。母さんなんか、俺を置いて出てったんだぜ」
その時の結衣子の顔は、ぽかんと口を開けたままだった。
「……でも、うちは毎日ラブラブだよ?そんなわけないもん!」
(やめろ。止まれ)
(こんな子にぶつけていい言葉じゃない)
でも俺の口は止まらなかった。
「はっ!いつまで続くかな。幸せなんて幻だよ。お前んちも、すぐに壊れちまうさ!」
——バチン!
頬に走った痛みより、彼女の泣き顔のほうが痛かった。
「ひどい!ばか!!だいっきらい!!」
「いってぇー!……この分からず屋!もうしらねぇ!!」
「うえぇえええええん!!」
——それで、すべて終わった。
小さな恋も、友情も、繋がるはずだった未来も。
何も伝えられないまま、中学を卒業するまでずっと片想いして、卒業を機に、二度と話せなくなった。
けれど、青いハンカチだけは、ずっとポケットに入れていた。
***
結衣子に会えなくなって、時が流れた。
高校、大学、就職——人生の通過点をただ通り過ぎるうちに、思い出は少しずつ輪郭を失っていった。
それでも、青いハンカチだけは捨てられなかった。
運命なんて、信じていなかった。ただ、あの日の笑顔だけが、確かに本物だった気がしていた。
──そして、俺は死んだ。
享年33歳。
死因は、よくある交通事故だった。
特筆することもない。
神々の記録に、たった二行で記されるような、陳腐で、誰にも記憶されない最期。
気づけば、白くて静かな場所に立っていた。
「——神様になって、人類滅亡の危機を救ってくれ!」
そう言って笑ったのが、今の上司だった。
最初は冗談かと思った。
だがそこには、確かに“選択肢”があった。
生まれ変わることもできた。輪廻に戻ることもできた。
でも——俺には、もうどうでもよかった。
なぜならその時、俺の心はすでに、“ひとりの女性”に置いていかれていたからだ。
椿 結衣子。
あの日、俺が恋をした少女。
君には、笑顔でいてほしい。
——ただ、それだけを胸に、俺は“神”になる道を選んだ。
あれから300年。
人間の時間感覚は、とうに消えて久しい。
けれど、想いだけは、なぜか消えなかった。
ただ、一度でいい。あの日のように——
彼女が泣いているのなら、もう一度、この青いハンカチを差し出したい。
……それだけを、願いにした。
そしてついに、その日が来た。
夢にまで見た光景だった。
けれど皮肉なことに、俺は彼女の“王子様”としてではなく——
彼女の“王子様を探す役”として、その場に立っていた。
……それでも、構わなかった。
彼女の幸せを、誰よりも近くで見守れるなら。
彼女の涙を、誰よりも早く拭える場所に、いられるのなら。
俺は、神様にでもなってやろう。
──俺のお姫様の、笑顔のために。
*
幻想的な和風ファンタジーに彩った、
美しくも残酷な、リアル婚活サバイバル。
君のために、この場所は用意された。
この舞台で、君が“本当の幸せ”を掴み取れるように。
たとえそれが、俺じゃない誰かとの未来だとしても。
300年、変わらぬ想いで、君を迎える準備をしていた。
隣に並ぶことは、できない。
名前を呼ばれることも、ない。
それでもいい。
君が誰かに微笑む、その瞬間を見届けられるのなら——
それが、桐島 誠一として生きた俺の、最後の願いだった。
世界が終わるその日まで。
君の奇跡を、静かに祈り続ける神でいよう。
次回:特別読切④『その光が夜明けなら』




