第十九話:満ちていく
──神殿『縁側の間』に、春の気配がそっと忍び込んでいた。
障子越しのやわらかな光が、畳に静かな影を落としている。
香炉から立ちのぼる煙が、風に乗ってふわりと舞い、どこか懐かしい香りを運んでくる。
外はまだ冬の名残が濃い。けれど、風の匂いの中に、どこかやわらかさが混じっていた。
空は白くにじみ、凍てついた空気も、静かにほどけていくようだった。
その静けさの中で、結衣子は、ひとり座っていた。
ひとつ深呼吸をするたび、肺に満ちる空気が、現実味を帯びていく。
(……もう、二月かぁ)
この世界で春を迎えるのは、初めてだ。
でもその春は、ゴールでもある。
異世界で婚活できる期限——四月一日が、目の前まで迫っていた。
タイムリミットまで、あと二ヶ月。
「……嘘みたいだよね」
思わず、ぽつりと声が漏れる。
現在、結衣子のもとには4人の男性から真剣交際の申し出が届いている。
性格も背景も違うけれど、全員に共通していたのは——
誠実で、優しくて、彼女の言葉に耳を傾けてくれるということ。
(こんなの、贅沢すぎる……)
結衣子は目を伏せる。
膝の上に揃えた手が、ぎゅっと力をこめたように震えた。
「……後は、私が“誰をいちばん好きか”を決めるだけ、なんだよね」
けれど——それが、できない。
(全員、「32歳のうちに入籍したいんです!」っていう、無茶ぶりにも笑って合わせてくれて……)
(……いやまず、こんな滅茶苦茶な希望にまで応えてくれるなんて、どんだけいい人たちなのって話なんだけど)
(…こんなに良くしてもらってるのに、私は……)
──と、思考の底でぐるぐるしていたら。
ふいに、過去の自分の姿が浮かんできて、思わず鼻で笑ってしまった。
(……ほんと、バカみたいだったな)
「……考えてもみれば、偏差値50女が高望みして、最高ランクの男を求めてたってだけでもおかしな話なのに」
「その理由が“自分を捨てたハイスペを見返したいから”って……」
「そんな“からっぽの女”が、本気で人と向き合って、心を通わせて、幸せになろうだなんて——笑っちゃうくらい、無理な話だったよね」
けれど——いまの私は、あの日の“私”とはもう違っていた。
東堂と、きっぱり決別したあの日から。
私は、少しずつ、少しずつ……失くしていた“自分”を探し集めてきた。
高望みしていた頃の、“意地”や“見栄”じゃない。
東堂に押し殺されていた、本当の“私の気持ち”。
嫌なことは嫌。
してほしいことは、ちゃんと伝えたい。
そうやって、“自分の輪郭”を少しずつ、取り戻していった。
そして——
いま、私のそばにいてくれる4人の男性たちは、そんな私を否定しなかった。
こんな私になれたのは
……泣いても、迷っても、失敗しても。
それでも、ずっと、私のそばにいてくれた二人がいたから。
「……ハッピー。……神様」
静かに呟いたその名前が、胸の奥でやさしく震えた。
(あの二人がいなかったら、私はきっと、今もグラグラのままだった)
(でも——)
空っぽだった心に、じわりと何かが満ちていく感覚。
誰に見せるわけでもないけれど、確かに、いま——
私は、“満たされている”。
結衣子は立ち上がった。
リビングを見渡すと、そこには、かつての彼女では考えられなかった“整った日常”が広がっていた。
整えられた部屋。
あの成宮ほどではないが、余計なものを減らせたので、空気がよく通る。
心まで澄んでいく気がする。
ズボラな結衣子でも、掃除がしやすいように工夫された動線。
乾燥機付き全自動の洗濯機に、ポイポイ収納。
誰に見せるでもないけれど、ここは“今の私”そのものだった。
キッチンに目をやると、料理教室で学んだ献立の下ごしらえが整っている。
今や、三品同時調理もお手のものだ。
「……私、変わったなぁ」
呟いた声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
──あの日のことを、思い出す。
あの寒い夕暮れ、東堂と決別してから数日後のことだった。
***
「ねぇ、私、料理教室に通ってみようかなって思ってるの」
座布団の上で丸くなっていたハッピーが、ピクリと耳を動かす。
「……料理教室?」
「うん。……もちろん、お見合いも頑張るよ?もう一月だし、前よりも予定詰めて入れようと思ってる」
そう前置きしてから、ふ、と少しだけ口元を緩めた。
「でも、夕方って、お見合い入れられないし……だからその時間に、ちょっとでも“意味のあること”をしてみたくなって」
「たしかに。“料理できます〜”は婚活ポイント高いもんなぁ」
その言葉を聞いて、ここに来たばかりの時を思い出す
―
『やばっ……婚活しなきゃ!え、まず何すればいいの!?花嫁修行!?』
『料理!?出汁!?あ、包丁!?包丁の持ち方!?』
『却下だ』
ズコォッ。
『料理を学ぶのは悪くない。だが、今の君に必要なのは——“心の整い”だ』
―
「…ふふ。前は……たしかにそうだったけど」
「今は、私を選んでくれる誰かに、なにかしてあげられないかなって思って……」
結衣子の目はまっすぐで、静かに熱を帯びていた。
言葉に力を込めるでもなく、でも確かに芯がある。
その姿を、神はしばらく無言で見つめていた。
そして——
「……そうか」
少しだけ、目元がゆるんだ。
「なら、通うといい」
「……私、もう大丈夫かな?」
その問いに、神はゆっくりとうなずいた。
「……あぁ。今は“その時”だ」
「その時?」
「……人は、自分の器が満たされて、はじめて隣にいる誰かの器を“満たそう”と考えられる」
障子の向こうで、竹が風に揺れた。
「……二人のおかげだよ」
結衣子はそう言って、そっとまぶたを伏せる。
「……私、本当は、ずっと思ってた。一生、孤独なんだろうなって」
「私なりに頑張ってたのに——出会うのは、既婚者とか、セフレとか、ヤリモクとか……そんなのばっかりで。気づいたら、32歳」
《“出来の悪い結衣子は、誰にも本気で受け入れてもらえないんだよ”》
「東堂に言われたこと……いつの間にか、自分の声になってたの」
ふっと息を吐く。その吐息には、かすかな笑みがにじんでいた。
「でも……二人は違った」
「ダメな私を見捨てずに、ちゃんと叱ってくれて」
「一緒に怒って、笑って、……泣いてくれて。ずっと、そばにいてくれた」
「神様とハッピーがいてくれたから……ようやく気づけたんだ」
「空っぽになった心を、やり場のない寂しさを、“誰もが羨む結婚”で埋めようとしてたことに」
「——結婚相手のスペックこそ、自分の価値だと思ってたことに」
少し、声が震えた。でも、その瞳は、まっすぐだった。
「でも、ほんとはそんなの、いらなかったんだ」
「だって私にはもう、あったから」
「家族にも、友達にも……まわりのみんなに、十分すぎるほど、愛されてた」
「……神様が、教えてくれた。私は、“私でいることに価値がある”って」
「だから、今ならわかる」
「私の心は、もう空っぽなんかじゃない」
——こんな気持ちで「ありがとう」って思える日が来るなんて。
胸の奥に、じんわりとあたたかさが広がっていく。
ひとつひとつの想いが、静かに、自分の中に満ちていくのを感じながら——
結衣子は、やわらかく微笑んだ。
「私は今、泣きたくなるくらい、あたたかくて、穏やかで……満たされてる」
ハッピーは、鼻をすんすん鳴らしながら、ぐいっと袖で目元をこすった。
「……んもーっ!泣かさんといてや〜!そんなん、結衣子が結衣子やからに決まっとるやん!」
「……え?」
「君が満たされていると感じるのは、君が、君であろうとするその姿に、周囲の人間が“応えたい”と願った結果だろう」
「それそれ!そゆことやで!」
「……頑張ったな」
結衣子は一瞬、息をのんだ。
言葉にならないまま、ただ「うん……」とだけ小さくうなずいて、
口元をそっと、あたたかくゆるめた。
胸の奥に、ぽっと火を灯したみたいな、やさしい光が広がっていく。
(……ありがとう)
(このままの私で、いい。二人のお墨付きだもん)
(だから……もっと、大切にしよう。自分のことも、まわりのことも)
***
からん、と障子が揺れた。
香炉の煙がふたたびゆらめき、風のにおいが畳に降りる。
空は夕暮れ色に染まりはじめ、神殿の灯籠にひとつ、またひとつと火がともる頃。
結衣子の手元では、料理教室で覚えた献立が、ていねいに仕上げられていた。
部屋の中には、香ばしい匂いがやわらかく立ちこめている。
(うん、今日もいい出来……!)
五品完成。味見もばっちり。
盛りつけを整え、湯気の立つ皿を食卓に並べたその時——
「お〜い!結衣子〜!」
ぽん、と音を立てて、ハッピーが現れた。
「うおっ!?なんや!?今日はパーティーか!?ぎょうさん作ったなぁ!?おいしそ〜!」
「二人がたくさん食べてくれるからだよ〜!」
「ッかー!そりゃ結衣子のごはんが絶品やからな!」
得意げに胸を張るハッピー。
その顔は、昔の“ちっちゃいチワワ”だったころの面影を、ほんのりと残していた。
ふと鼻をひくつかせたハッピーが、食卓の湯気に吸い寄せられるようにぴょんと身を乗り出す。
その瞬間——
パァン、と軽やかな音とともに、ふわっと光の粒が弾けた。
気づけばそこに立っていたのは、
ふわふわの髪に、大きな瞳をきらきらさせた、10歳くらいの少女。
ハッピーはその姿のまま、うっとりした表情で料理を見つめた。
「うち、人間のごはんも食べられるようになって、ほんま幸せやわ〜……!」
「…ちょ、ハッピー可愛すぎる…」
結衣子が思わずつぶやくと、ハッピーは得意げに胸を張った。
「せやろぉ!?…いやー、人間様がこぉんな贅沢なモン食べとったとは知らんかった!」
「うちはいっつも安モンのドッグフードと、時々……ダークマターが……」
「安モンで悪かったわね!…って、ダークマター?」
ぎくり。と、肩を揺らし、ハッピーはその場で固まった。
「うおっ。口が滑った。気のせいや。忘れて」
「ちょっと!?ダークマターって、私の手作りごはんのこと言ってる!?ねぇ!?」
少し間を置いて、ハッピーはどこまでも遠くを見つめながら、語り始めた。
「……懐かしいな。焼き肉のええ匂いにワクワクして待っとったら、禍々しいオーラ放つ“暗黒物質”が、ドッグフードの上に乗って出てきた…あの日の夕餉」
「まさに、ケシズミ・オブ・ザ・デッド」
「あの“ジャリッ”とした食感……今でも夢に出る」
ハッピーは目を細めて、宙を見上げた。
「……あれは焼き肉やない。焼けた肉や」
……ハッピーの話を聞いて、思い出した。
あれは、モザイク。完全にモザイク案件だった。
「……あのときはほんと、いろいろ、ごめんなさい!!!!」
「ワッハッハ!しゃーないな!今日このごちそう食べさせてくれたら、許したる〜〜!!」
「どうぞ召し上がれ、ミディアムレアでございます!!」
「んまっ!!」
ハッピーが皿にかぶりついたのと同時に、部屋いっぱいに笑い声が弾けた。
香ばしい匂いとともに、空気がほんのり甘くなる。
結衣子も、笑いながらお箸を伸ばす。
(……あぁ、幸せって、こういう時間のことかも)
……でも、心のどこかが、ふと風を抜けたように空っぽだった。
視線を向けた先に、そこにいて当然の“誰か”の姿がない。
(……神様がいないだけで、こんなに静かになるんだ。あんなに無口なのに)
笑顔の余韻が、すっと静まっていく。
「……ところで、神様は?」
結衣子がふと尋ねると、ハッピーは口をもぐもぐさせながら答えた。
「また天界に呼び出されとったで。最近ちょくちょく呼ばれとるな。……まぁ、時期が時期やもんな」
「……うん、そうだね」
結衣子は、ふと視線を落とした。
(……早く一人に決めなきゃ。迷惑かけてるんだから)
(全員、本当にいい人で。でも……)
(“好き”って言いきれない。誰にも。もしかして——)
心の中に、名前のない気持ちが、そっと沈んでいく。
まるで、水面の下に隠れてしまったように。
(……考えすぎて、ほんとにハゲそう)
——それでも、言葉にできない“気持ち”が胸に残っていた。
成宮の家から飛び出したあの夜のこと。
あの感情。あの涙。
まだ、言葉にはできないけれど——
「……神様、私のせいで、怒られてないといいな」
***
──場所は、天界。
結衣子たちの世界の、はるか上空にある“神々の管理層”。
神は、しばし立ち止まってから、一歩、足を踏み入れた。
冷たい無音が、足元に絡みつくようだった。
風ひとつないはずの空間に、妙な“緩さ”だけが漂っている。
天井は金光に満ち、白く輝く床は雲のようにゆらぎ、すべてが厳粛──に、見えるのに。
玉座らしき椅子の上には、神界の“上司”にあたる男がいた。
神器らしき板を手に、指をカチカチと忙しなく動かしている。
「お〜、来た来た。あとちょっとで“天界ふにふにパズル”クリアなんだよぉ。待っててな」
その声に反応するように、鳥型の使い魔がひらりと舞い降りた。
上司が「あー、これね。代筆ありがと。異常ナシでシクヨロ〜」と告げると、鳥は巻物を持って飛び去っていく。
「ハッピーちゃん、昼はそっちで頑張ってるじゃない?今の子、代理の子なんだけどさぁ、サボってるとくちばしでつついたり、俺の頭にフン落っことしてくるんだよね〜」
「……ハッピーちゃん、早く戻ってきてくれないかな。あの子はあの子で暴力的だけど、まあ……可愛いと許せちゃうよね。ドロップキックされても。うん」
神は無言で、じとっとした目を向けた。
「……あっ、その目やめて!?違う違う、さっきまでちゃんと働いてたから!ほんとに!」
神器を慌てて膝に隠しながら、気まずそうに笑う。
「今はちょっと……休憩中。息抜き。神サマだって、たまには気を抜かないとパンクしちゃうんだから!」
神は小さくため息をついた。
その視線が、部屋の隅をふとよぎる。
──壁にかけられた後光の光輪。
そこには、神衣らしき白装束がふたつ、ハンガーのように引っかけられて揺れていた。
(自由な人だ……)
「……おつかれ様です」
神が静かに口を開いた。
「結衣子ちゃん、期限まであと少しだねぇ。どぉ?結婚、できそ〜?」
「彼女の様子を見る限り、期限にはどうにか間に合うのではないかと思っております」
「そっか〜〜。いやぁ、お前とハッピーちゃんに任せて正解だったわけだ」
「……ありがとうございます」
「だってさ、元々“上”からの命令は、アレだったじゃん?」
空気が変わる。
神は一瞬だけ、まなざしを落とした。
「……“どんな形でもいいから、椿 結衣子に子供を産ませろ”」
部屋に、重たい沈黙が落ちた。
「そーそー。それだよ」
上司はわざとらしく笑ってみせた。
けれど、その目の奥は、決して笑っていなかった。
「いくら人口調整が大変ったって、あいつらに“人情”ってもんはないのかねぇ」
「ま、そんなもん持ってるの、元・人間だった俺たちぐらいかぁ」
上司は肩をすくめ、ため息まじりに続けた。
「でもさ〜、それじゃ、あんまりにも可哀想じゃない?だから、“お前”を任命したんだけどぉ……」
「……」
「それでも、もし——期限が過ぎてしまったら……」
上司はふっと目を伏せた。
——そして次の瞬間、空気が凍る。
「さすがの俺でも、もう庇いきれない」
声は低く、冗談の色は一切なかった。
その瞳に浮かんだのは、底知れぬ静けさ。
先ほどまで漂っていた軽やかさは、痕跡すら残さず消えていた。
「そのときは、手筈通り……結衣子ちゃんは“自ら命を絶った”と報告する。そうすれば、魂は天界に登ってこれない。“記録”上からも消える」
淡々とした口調だった。だがその奥には、やりきれないほどの苦渋がにじんでいた。
「お前の作ったループ世界に、魂ごと閉じ込めちまえば、外から手を出すことはできない。強制的に子を産まされるような未来には、絶対にしない。……俺たちにできる、ギリギリの逃し方だよ」
それは、温情というにはあまりにも過酷な策だった。
だが確かに、残酷な未来だけは回避できる。
「……だからさ」
上司は、ゆっくりと顔を上げた。
「頼んだよ、“桐島誠一”くん」
空気が、すっと静まった。
「……はい」
(……その名前は、とうの昔に捨てた)
(俺は、“椿結衣子に子供を産ませる”使命を受けた)
(必ず、君を“幸せな結婚”に導いてやる)
(——そのために、“俺”は、満たされぬ永遠に身を投じたのだから)
次回:桐島 誠一
※タイトル一覧ではわからないようにします!




