第十八話:月華の聖犬☆ハッピー無双
「……はぁ〜、スッキリしたぁ!」
東堂 蓮との決別を果たした帰り道。
満天の星の下、結衣子は空を見上げ、ぱっと笑った。
——なのに。
「……あれ……?」
頬を伝って、ぽろりと大粒の涙がこぼれた。
「……なんで……?」
(別れられたのに。終わったはずなのに、どうして泣いてるの……?)
喉の奥がきゅっと締めつけられる。
胸が苦しくて、息が浅くなる。
(——ああ、そうか)
「……本当に、お別れなんだね」
もう、私の戻れる場所は、どこにもない。
フラれてからの2年間、彼にまた“認められる日”を夢見て、必死に婚活を続けてきた。
あの腕に、もう一度包まれる未来を——どこかで信じていた。
けれどもう、あの人の手は、私のことを二度と温めてはくれない。
けれど、今、胸を締めつけているのは、それだけじゃなかった。
(……ハッピー……)
浮かんできたのは、あの子の顔だった。
「……ハッピー……!」
結衣子はその名を、声に出して呼んだ。
その瞬間——
忘れようとしていた“あの朝”の記憶が、はっきりとよみがえる。
*
──結衣子、25歳。雪の日の朝。東堂と付き合って、初めての冬だった。
「……うそ……ハッピー……?」
まぶたをこすりながら目を覚ました結衣子が、ベッドの足元で見つけたのは——
冷たくなった、ハッピーの姿だった。
「ぃや……な、なんで……!?昨日まで、元気だったのに……!」
「……可哀想にな……昨晩、机から飛び降りようとして転げ落ちたんだ」
東堂が静かな声で言った。
「驚いて駆け寄ったけど、そのときはまだ元気だったんだよ。……たぶん、打ちどころが悪かったんだろうな」
「……でも……おばあちゃん犬のハッピーが、自分で机なんて登るかな……」
声が震える。
そんなこと、するわけない。
あの子は、もう足腰も弱っていて、抱き上げなければ段差も越えられなかったのに。
東堂は悲しそうに笑って、そっと結衣子の肩に手を置いた。
「……ちゃんと、埋葬してやろう。な」
「……う、うん……」
(……でも……)
「……ありがとう…?」
口に出したその言葉が、妙に空っぽに響いた。
いくら蓮くんでも、流石に、ハッピーに何かするなんて——
ありえない、でしょ?
──信じたかったのだ。
信じなければ、自分の選択すべてが、音を立てて崩れてしまうから。
*
──現在。異世界。
「……私、バカだった……」
境内の石畳の上。
夜風にさらわれるように、結衣子はぽつりとつぶやいた。
「やっぱり、どう考えてもおかしいよ……!あいつ、ハッピーに何かしたに違いない」
「……それなのに、私、あんな男の言葉を鵜呑みにして……最低だ……!」
「ハッピーの方が、ずっとずっと大事だったのに……!」
そのとき——
ふわりと、背後からぬくもりが重なった。
あたたかい腕が、そっと背中を抱く。
ふしぎと、知っている感触だった。
「……余計なことは考えんでええんや。結衣子はなんも悪くない。うちは、結衣子が前に進めるなら、なんだってええんやから」
「……ハッピー……っ!?」
振り返った先に、いた。
あの雪の朝から、恋しくて堪らなかった——
ハッピーの姿が、そこにあった。
「……ごめんね。私、ほんとに馬鹿で……怖かったよね……苦しかった、よね……」
(あの日……何があったのかなんて、聞けない)
(ハッピーの口からなんて、言わせられない)
(……蓮……いや、東堂……!)
「結衣子」
ハッピーは、ぎゅっと結衣子を抱きしめた。
「これは、うちと、あのクソ虫の問題や」
「あんときは無力なおばあちゃん犬やったけどな、見てみぃ。うち、今はなんでもできんねん。あいつとの因縁は、自分でカタつける」
「結衣子の一番の復讐はな、眉間にこーんなでっかいシワつけんと、素敵な男捕まえて、ニコニコハッピー♪になることやろ?目的、見失わんでな」
「……うん……うんっ……!」
大粒の涙があふれる。
ハッピーは目を閉じる。
(あの日のことなんか、結衣子に言わんでええ。一日も早う、東堂のことは忘れてほしい)
*
──7年前。現世・深夜一時すぎ。
ワンルームの静まり返った部屋に、男の低い声が響いていた。
蛍光灯の白い光の下、東堂はソファに腰をかけ、スマホを耳にあてていた。
「ん〜……うん、うん。わかってるって。ちゃんと会える日には連絡するから」
眠そうな声で、甘えるように笑う。
「は?彼女?いないいない、誰かと勘違いしてない?俺、ずっとお前だけだからさ」
——その言葉に、すぐそばで眠っていた老犬・ハッピーの耳がぴくりと動いた。
(……なんや、それ……)
細い身体を起こし、東堂の方をじっと見つめる。
愛する飼い主を裏切るような、低く滑らかな嘘の声。
胸の奥に、ザリッとした違和感が走る。
(結衣子のこと、ほんまに好きやなかったんか……?)
ハッピーが立ち上がろうとしたその瞬間——
東堂がスマホを切って、ゆっくりと振り返った。
「……なに、見てんだよ」
その目は、暗かった。
光も、ぬくもりも、何ひとつ浮かんでいない。
ハッピーが小さく唸る。
「ヴゥ……グルルルル……(……東堂 蓮……結衣子は、あんたのこと本気で——!)」
「うるせぇっつってんだろ、このクソ犬!」
——ドンッ!!
「ギャゥッ!!」
重い鈍音と、乾いた悲鳴。
ハッピーの小さな体が、床に叩きつけられるように、跳ねた。
みぞおちに深く、内臓を抉られるような衝撃。
息が詰まり、胸の奥が冷たく痺れていく。
震える足。動かない前脚。
立とうとしても、もう力が入らない。
それでも、必死に目を開けて、結衣子のベッドの方を見た。
(……結衣子……あかん……)
けれど、彼女は眠ったまま。
気づいてはくれなかった。
(……この男は……ダメや……結衣……子……)
——小さな呼吸が、そこで、ひとつ、止まった。
*
ひとしきり泣いたふたりの間に、しんとした時間が流れる。
その空気を破るように、神がふらりと現れた。
「——踊るぞ」
「……は?」
軽快な笛の音。なぜか祭囃子のような旋律。
神が、妙な手遊びを始めていた。
「悲しみに沈むときこそ、体を動かすのがいい。……やってみろ」
結衣子の手を取って、半ば強引にその動きに巻き込む。
「ぷっ……なにその動き……!」
「ちょ、ブハッ……!やめぇや神さん!うちの涙の余韻、全部どっかいったやんか!」
「これは由緒正しい“神舞”であってな……」
あまりの滑稽さに、結衣子の頬がゆるむ。
笑いと涙がまざり合って、胸の奥が、ふっとほどけた。
その瞬間——
心のどこかが、そっと開いた。
私は、小さい頃から——
誰かに嫌われるのが、怖かった。
怒ると面倒な子って思われそうで。
悲しむと重いって言われそうで。
辛いって言うと、きっと引かれる気がして。
だから全部、胸の中にしまって、「平気なフリ」ばかり、するようになった。
でも——
そんな私に、「そのままでいい」って思わせてくれた子が、ひとりだけいた。
無理して笑ってる時も、気づかないふりをしてくれて。
泣くのをこらえてる時は、そっと隣に座ってくれて。
あの子の前では、ちゃんと「悲しい」って言えた。
安心して、涙をこぼせた。
……あの子だけだった。
弱い自分を見せても、なにも変わらず、ただ隣にいてくれたのは。
あの日も、そうだった。
彼はただ、そこにいてくれた。
その優しさが、どれだけ救いだったか……
結衣子の視線の先に、もういないはずの小さな背中が浮かぶ。
それは、悲しみを和らげてくれた、たったひとつの光の記憶。
***
──小学二年の夏。
夕暮れ。
公園のすみっこで、一人、泣いていた。
「……お父さんのバカ……楽しみにしてたのに……」
鼻をすする音だけが響いていたとき。
小さな足音とともに、男の子の声がした。
「……結衣子ちゃん?」
顔を上げると、そこには近所に住む少し年上のお兄ちゃん
——誠一くんが立っていた。
「どうして泣いてるの?」
「……遊園地、連れてってくれるって言ってたの」
「先週は明日香が熱出してダメになったから、今日こそ行けるはずだったのに……お父さん、急に仕事入ったって……」
「行きたかったの?」
「……うん」
「……そっか」
誠一くんは、そっと隣に座って、ポケットから青いハンカチを差し出してくれた。
「…ありがとう」
それ以上、何も言わなかった。
彼は、慰めるでも、諭すでもなく、ただ隣に座ってくれた。
(なんで一緒にいるだけで……ちょっと楽になるんだろう。不思議……)
「……お父さん、行けなくなるなら、最初から約束なんて、しなきゃいいのに……」
小さくこぼしたその言葉に、彼はぽつりと答えた。
「……お父さんも、行きたかったのかもね」
その言葉に——涙があふれた。
朝、「ごめんな…」と謝った、お父さんの申し訳なさそうな顔を思い出す。
私は、“約束を破られた”って、“楽しみにしてたのにひどい”って、そればかりで——
お父さんの気持ちなんて、何も考えてなかった。
「……うぅ……ごめんなさい……ぐすっ……」
そのとき、どこからか祭囃子が聞こえてきた。
「あ、ねぇ。今日、隣町で夏祭りやってるんだって。行こう?」
「……え?」
「予定、なくなったんだろ?じゃあ、俺と遊ぼう!」
そう言って、誠一くんは突然、へんてこな踊りを始めた。
「ほら、結衣子ちゃんも!楽しい動きをすると、心も元気になるんだぞ〜!」
「……ぷっ、あははっ!」
涙が笑いに変わった。
私もへんてこな踊りを踊って、
二人でたくさん笑ったっけ。
泣いて終わるはずだった一日が、忘れられない“幸せな思い出”に塗り替えられた。
──桐島 誠一くん。
彼は今、どうしてるんだろう。
二つ上だから、今年で34歳か。
もう結婚して、子どもがいても、おかしくないよね……。
***
──異世界。
へんてこな踊りを終えて、笑い疲れた結衣子。
ふと、神の顔を見つめる。
(そういえば、一緒にいるときの、この空気感……な〜んか、似てるんだよね……)
「……ねぇ、神様って、いつから神様やってるの?神様の前は何やってたの?」
「……あまり、覚えていないが……」
ゴクリ。
「人の時間にすれば、300年ほどか」
「さ、300……」
(流石に、それはないか)
(……ていうか……)
グイッと歩み寄る。
「……ねぇ、神様について知らないことだらけだから、これを機に質問していい?どうやって神になったの?300年も何の仕事してたの?上司ってどんな人?聖徳太子って本当にいたの?」
「聞きすぎだ。いずれ話してやるから、落ち着け」
「……それもそうね!あははは!」
結衣子と神が笑い合うのを、遠目に見つめるハッピー。
小さく笑って、つぶやいた。
「……よかった。結衣子、ちゃんと笑えとる」
そして、きりっと背筋を伸ばす。
「さて……うちも、最後に“あいさつ”して、次に進もかな」
***
──幻想の街の裏通り。
灯りも人通りも絶えた、静寂に沈む石畳の路地。
東堂 蓮は、足元もおぼつかない様子でふらふらと歩いていた。
髪はぼさぼさ、襟はヨレヨレ、顔には深いクマ。
かつてのスマートさは見る影もなく、ただ“終わった男”がそこにいた。
(……くそ。なんなんだよ、あいつら。あんだけ尽くしてやったのに……)
舌打ち混じりに呟きながら、路地の奥へと迷い込む。
と——
「お兄さん、こんなとこで何してんの?」
闇の中から、透き通るような声が降ってきた。
振り返ると、そこに立っていたのは一人の女。
白磁の肌に、朱をひいた唇。
伏し目がちな瞳は深く、かすかな鈴の音とともに、桐の下駄が石を打つ。
町娘のようでいて、この世の理から少し外れた気配を纏っていた。
「疲れてるんでしょ?癒してあげよっか?」
「ん〜〜……何、超かわいいじゃん……。いいよぉ、行こっか?」
「うん。おすすめあるの。こっちこっち〜」
ふわふわした声で、彼女は東堂の手を取った。
人の気配のない奥へ、さらにその先へ。
——小さな祠の裏。誰の目にも触れない闇のなか。
「……ここ、初めて来たわ……」
東堂がぽつりとつぶやいた、そのとき。
「ほな、“最後の相手”は、うちやね」
パチン、と指が鳴る。
空気が、一変した。
白い肌はしわくちゃに、艶やかな髪は乱れた白髪に。
瞳が紅に染まり、女の姿は——禍々しい“妖”へと変わった。
「な、な、なんだよこれ……!?コスプレ!?特殊メイク……!?」
「違うでェ、れんれん。うちはハッピーや」
「……は?」
「アンタが蹴り殺した、クソ犬や」
東堂の顔から、一気に血の気が引いた。
「ち、違う!!あれは事故で、俺は……!」
「黙っときや、クソ虫」
その声が、空気を凍らせた。
「女も犬も、自分の虚栄心を満たすために利用して、“使えなくなったら捨てる”。……そんな男に、“未来”は要らん」
ハッピーの手に現れたのは、大鎌。
その瞬間、ぶわりと黒い風が舞う。
老婆の身体はみるみるうちに変化し、そこに浮かんでいたのは——
艶やかな微笑みを湛えた、美しくも恐ろしい女神だった。
黒光りする刃が、ゆっくりと弧を描く。
「さあ……覚悟、できとるか?」
「ま、待ってくれ!!俺はっ、別にそんなつもりじゃ——!」
ザシュッ!!!
鋭い音が、夜を切り裂いた。
「ぎゃあああああああああ!!!!」
東堂の絶叫が、石畳に響き渡る。
華麗に振り下ろされた大鎌は、彼の“男の象徴”を——
無慈悲に、容赦なく、切り落とした。
「——ほな、達者でな」
ハッピーは、着物の裾を翻し、ひとつ鼻で笑って、闇の奥へと消えていった。
*
──翌朝。東堂の部屋。
「はっ!!」
東堂がベッドの中で跳ね起きた。
全身は汗まみれ、心臓はバクバク。
息を整えながら、恐る恐る布団をめくる。
(……ある。ちゃんと……ついてる……)
「はぁ……夢、か……?ビビらせやがって……」
胸を撫で下ろす。
スマホを取り、いつものようにAVを再生。
下着に手をかける——そのとき。
「……あれ?」
……動かない。
「……あれ?」
……感覚がない。
「おい、ウソだろ!?立てよ!?動けよ!!」
何度も試す。どれだけ試しても、何も反応しない。
「うわああああああああああ!!!!」
東堂の絶叫が、室内に響き渡った。
あるは、ある。
けれど、“男”としての機能は——完全に、終わっていた。
——これが、ハッピーの“最後のあいさつ”だった。
二度と誰も、傷つけられないように。
次回:満ちていく




