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第十八話:月華の聖犬☆ハッピー無双


「……はぁ〜、スッキリしたぁ!」


東堂 蓮との決別を果たした帰り道。

満天の星の下、結衣子は空を見上げ、ぱっと笑った。


——なのに。


「……あれ……?」


頬を伝って、ぽろりと大粒の涙がこぼれた。


「……なんで……?」


(別れられたのに。終わったはずなのに、どうして泣いてるの……?)


喉の奥がきゅっと締めつけられる。

胸が苦しくて、息が浅くなる。


(——ああ、そうか)


「……本当に、お別れなんだね」


もう、私の戻れる場所は、どこにもない。


フラれてからの2年間、彼にまた“認められる日”を夢見て、必死に婚活を続けてきた。

あの腕に、もう一度包まれる未来を——どこかで信じていた。


けれどもう、あの人の手は、私のことを二度と温めてはくれない。


けれど、今、胸を締めつけているのは、それだけじゃなかった。


(……ハッピー……)


浮かんできたのは、あの子の顔だった。


「……ハッピー……!」


結衣子はその名を、声に出して呼んだ。


その瞬間——

忘れようとしていた“あの朝”の記憶が、はっきりとよみがえる。





──結衣子、25歳。雪の日の朝。東堂と付き合って、初めての冬だった。


「……うそ……ハッピー……?」


まぶたをこすりながら目を覚ました結衣子が、ベッドの足元で見つけたのは——

冷たくなった、ハッピーの姿だった。


「ぃや……な、なんで……!?昨日まで、元気だったのに……!」


「……可哀想にな……昨晩、机から飛び降りようとして転げ落ちたんだ」


東堂が静かな声で言った。


「驚いて駆け寄ったけど、そのときはまだ元気だったんだよ。……たぶん、打ちどころが悪かったんだろうな」


「……でも……おばあちゃん犬のハッピーが、自分で机なんて登るかな……」


声が震える。

そんなこと、するわけない。

あの子は、もう足腰も弱っていて、抱き上げなければ段差も越えられなかったのに。


東堂は悲しそうに笑って、そっと結衣子の肩に手を置いた。


「……ちゃんと、埋葬してやろう。な」


「……う、うん……」


(……でも……)


「……ありがとう…?」


口に出したその言葉が、妙に空っぽに響いた。


いくら蓮くんでも、流石に、ハッピーに何かするなんて——

ありえない、でしょ?


──信じたかったのだ。

信じなければ、自分の選択すべてが、音を立てて崩れてしまうから。





──現在。異世界。


「……私、バカだった……」


境内の石畳の上。

夜風にさらわれるように、結衣子はぽつりとつぶやいた。


「やっぱり、どう考えてもおかしいよ……!あいつ、ハッピーに何かしたに違いない」

「……それなのに、私、あんな男の言葉を鵜呑みにして……最低だ……!」

「ハッピーの方が、ずっとずっと大事だったのに……!」


そのとき——


ふわりと、背後からぬくもりが重なった。


あたたかい腕が、そっと背中を抱く。

ふしぎと、知っている感触だった。


「……余計なことは考えんでええんや。結衣子はなんも悪くない。うちは、結衣子が前に進めるなら、なんだってええんやから」


「……ハッピー……っ!?」


振り返った先に、いた。


あの雪の朝から、恋しくて堪らなかった——

ハッピーの姿が、そこにあった。


「……ごめんね。私、ほんとに馬鹿で……怖かったよね……苦しかった、よね……」


(あの日……何があったのかなんて、聞けない)

(ハッピーの口からなんて、言わせられない)

(……蓮……いや、東堂……!)


「結衣子」


ハッピーは、ぎゅっと結衣子を抱きしめた。


「これは、うちと、あのクソ虫の問題や」

「あんときは無力なおばあちゃん犬やったけどな、見てみぃ。うち、今はなんでもできんねん。あいつとの因縁は、自分でカタつける」

「結衣子の一番の復讐はな、眉間にこーんなでっかいシワつけんと、素敵な男捕まえて、ニコニコハッピー♪になることやろ?目的、見失わんでな」


「……うん……うんっ……!」


大粒の涙があふれる。


ハッピーは目を閉じる。


(あの日のことなんか、結衣子に言わんでええ。一日も早う、東堂のことは忘れてほしい)





──7年前。現世・深夜一時すぎ。


ワンルームの静まり返った部屋に、男の低い声が響いていた。

蛍光灯の白い光の下、東堂はソファに腰をかけ、スマホを耳にあてていた。


「ん〜……うん、うん。わかってるって。ちゃんと会える日には連絡するから」


眠そうな声で、甘えるように笑う。


「は?彼女?いないいない、誰かと勘違いしてない?俺、ずっとお前だけだからさ」


——その言葉に、すぐそばで眠っていた老犬・ハッピーの耳がぴくりと動いた。


(……なんや、それ……)


細い身体を起こし、東堂の方をじっと見つめる。

愛する飼い主を裏切るような、低く滑らかな嘘の声。


胸の奥に、ザリッとした違和感が走る。


(結衣子のこと、ほんまに好きやなかったんか……?)


ハッピーが立ち上がろうとしたその瞬間——

東堂がスマホを切って、ゆっくりと振り返った。


「……なに、見てんだよ」


その目は、暗かった。

光も、ぬくもりも、何ひとつ浮かんでいない。


ハッピーが小さく唸る。


「ヴゥ……グルルルル……(……東堂 蓮……結衣子は、あんたのこと本気で——!)」


「うるせぇっつってんだろ、このクソ犬!」


——ドンッ!!


「ギャゥッ!!」


重い鈍音と、乾いた悲鳴。


ハッピーの小さな体が、床に叩きつけられるように、跳ねた。

みぞおちに深く、内臓を抉られるような衝撃。

息が詰まり、胸の奥が冷たく痺れていく。


震える足。動かない前脚。

立とうとしても、もう力が入らない。


それでも、必死に目を開けて、結衣子のベッドの方を見た。


(……結衣子……あかん……)


けれど、彼女は眠ったまま。

気づいてはくれなかった。


(……この男は……ダメや……結衣……子……)


——小さな呼吸が、そこで、ひとつ、止まった。







ひとしきり泣いたふたりの間に、しんとした時間が流れる。


その空気を破るように、神がふらりと現れた。


「——踊るぞ」


「……は?」


軽快な笛の音。なぜか祭囃子のような旋律。

神が、妙な手遊びを始めていた。


「悲しみに沈むときこそ、体を動かすのがいい。……やってみろ」


結衣子の手を取って、半ば強引にその動きに巻き込む。


「ぷっ……なにその動き……!」


「ちょ、ブハッ……!やめぇや神さん!うちの涙の余韻、全部どっかいったやんか!」


「これは由緒正しい“神舞”であってな……」



あまりの滑稽さに、結衣子の頬がゆるむ。


笑いと涙がまざり合って、胸の奥が、ふっとほどけた。



その瞬間——

心のどこかが、そっと開いた。


私は、小さい頃から——

誰かに嫌われるのが、怖かった。


怒ると面倒な子って思われそうで。

悲しむと重いって言われそうで。

辛いって言うと、きっと引かれる気がして。


だから全部、胸の中にしまって、「平気なフリ」ばかり、するようになった。


でも——


そんな私に、「そのままでいい」って思わせてくれた子が、ひとりだけいた。


無理して笑ってる時も、気づかないふりをしてくれて。

泣くのをこらえてる時は、そっと隣に座ってくれて。


あの子の前では、ちゃんと「悲しい」って言えた。

安心して、涙をこぼせた。



……あの子だけだった。

弱い自分を見せても、なにも変わらず、ただ隣にいてくれたのは。



あの日も、そうだった。


彼はただ、そこにいてくれた。

その優しさが、どれだけ救いだったか……



結衣子の視線の先に、もういないはずの小さな背中が浮かぶ。

それは、悲しみを和らげてくれた、たったひとつの光の記憶。




***




──小学二年の夏。


夕暮れ。

公園のすみっこで、一人、泣いていた。


「……お父さんのバカ……楽しみにしてたのに……」


鼻をすする音だけが響いていたとき。

小さな足音とともに、男の子の声がした。


「……結衣子ちゃん?」


顔を上げると、そこには近所に住む少し年上のお兄ちゃん

——誠一くんが立っていた。


「どうして泣いてるの?」


「……遊園地、連れてってくれるって言ってたの」

「先週は明日香が熱出してダメになったから、今日こそ行けるはずだったのに……お父さん、急に仕事入ったって……」


「行きたかったの?」


「……うん」


「……そっか」


誠一くんは、そっと隣に座って、ポケットから青いハンカチを差し出してくれた。



「…ありがとう」



それ以上、何も言わなかった。

彼は、慰めるでも、諭すでもなく、ただ隣に座ってくれた。


(なんで一緒にいるだけで……ちょっと楽になるんだろう。不思議……)


「……お父さん、行けなくなるなら、最初から約束なんて、しなきゃいいのに……」


小さくこぼしたその言葉に、彼はぽつりと答えた。


「……お父さんも、行きたかったのかもね」


その言葉に——涙があふれた。


朝、「ごめんな…」と謝った、お父さんの申し訳なさそうな顔を思い出す。


私は、“約束を破られた”って、“楽しみにしてたのにひどい”って、そればかりで——

お父さんの気持ちなんて、何も考えてなかった。


「……うぅ……ごめんなさい……ぐすっ……」


そのとき、どこからか祭囃子が聞こえてきた。


「あ、ねぇ。今日、隣町で夏祭りやってるんだって。行こう?」


「……え?」


「予定、なくなったんだろ?じゃあ、俺と遊ぼう!」


そう言って、誠一くんは突然、へんてこな踊りを始めた。


「ほら、結衣子ちゃんも!楽しい動きをすると、心も元気になるんだぞ〜!」


「……ぷっ、あははっ!」


涙が笑いに変わった。


私もへんてこな踊りを踊って、

二人でたくさん笑ったっけ。


泣いて終わるはずだった一日が、忘れられない“幸せな思い出”に塗り替えられた。



──桐島 誠一くん。


彼は今、どうしてるんだろう。

二つ上だから、今年で34歳か。


もう結婚して、子どもがいても、おかしくないよね……。




***




──異世界。


へんてこな踊りを終えて、笑い疲れた結衣子。

ふと、神の顔を見つめる。


(そういえば、一緒にいるときの、この空気感……な〜んか、似てるんだよね……)


「……ねぇ、神様って、いつから神様やってるの?神様の前は何やってたの?」


「……あまり、覚えていないが……」


ゴクリ。


「人の時間にすれば、300年ほどか」


「さ、300……」


(流石に、それはないか)


(……ていうか……)


グイッと歩み寄る。


「……ねぇ、神様について知らないことだらけだから、これを機に質問していい?どうやって神になったの?300年も何の仕事してたの?上司ってどんな人?聖徳太子って本当にいたの?」


「聞きすぎだ。いずれ話してやるから、落ち着け」


「……それもそうね!あははは!」


結衣子と神が笑い合うのを、遠目に見つめるハッピー。


小さく笑って、つぶやいた。


「……よかった。結衣子、ちゃんと笑えとる」


そして、きりっと背筋を伸ばす。


「さて……うちも、最後に“あいさつ”して、次に進もかな」




***




──幻想の街の裏通り。

灯りも人通りも絶えた、静寂に沈む石畳の路地。


東堂 蓮は、足元もおぼつかない様子でふらふらと歩いていた。


髪はぼさぼさ、襟はヨレヨレ、顔には深いクマ。

かつてのスマートさは見る影もなく、ただ“終わった男”がそこにいた。


(……くそ。なんなんだよ、あいつら。あんだけ尽くしてやったのに……)


舌打ち混じりに呟きながら、路地の奥へと迷い込む。


と——


「お兄さん、こんなとこで何してんの?」


闇の中から、透き通るような声が降ってきた。


振り返ると、そこに立っていたのは一人の女。

白磁の肌に、朱をひいた唇。

伏し目がちな瞳は深く、かすかな鈴の音とともに、桐の下駄が石を打つ。


町娘のようでいて、この世の理から少し外れた気配を纏っていた。


「疲れてるんでしょ?癒してあげよっか?」


「ん〜〜……何、超かわいいじゃん……。いいよぉ、行こっか?」


「うん。おすすめあるの。こっちこっち〜」


ふわふわした声で、彼女は東堂の手を取った。

人の気配のない奥へ、さらにその先へ。


——小さな祠の裏。誰の目にも触れない闇のなか。


「……ここ、初めて来たわ……」


東堂がぽつりとつぶやいた、そのとき。


「ほな、“最後の相手”は、うちやね」


パチン、と指が鳴る。


空気が、一変した。


白い肌はしわくちゃに、艶やかな髪は乱れた白髪に。

瞳が紅に染まり、女の姿は——禍々しい“妖”へと変わった。


「な、な、なんだよこれ……!?コスプレ!?特殊メイク……!?」


「違うでェ、れんれん。うちはハッピーや」


「……は?」


「アンタが蹴り殺した、クソ犬や」


東堂の顔から、一気に血の気が引いた。


「ち、違う!!あれは事故で、俺は……!」


「黙っときや、クソ虫」


その声が、空気を凍らせた。


「女も犬も、自分の虚栄心を満たすために利用して、“使えなくなったら捨てる”。……そんな男に、“未来”は要らん」


ハッピーの手に現れたのは、大鎌。


その瞬間、ぶわりと黒い風が舞う。

老婆の身体はみるみるうちに変化し、そこに浮かんでいたのは——

艶やかな微笑みを湛えた、美しくも恐ろしい女神だった。


黒光りする刃が、ゆっくりと弧を描く。


「さあ……覚悟、できとるか?」


「ま、待ってくれ!!俺はっ、別にそんなつもりじゃ——!」


ザシュッ!!!


鋭い音が、夜を切り裂いた。


「ぎゃあああああああああ!!!!」


東堂の絶叫が、石畳に響き渡る。


華麗に振り下ろされた大鎌は、彼の“男の象徴”を——

無慈悲に、容赦なく、切り落とした。


「——ほな、達者でな」


ハッピーは、着物の裾を翻し、ひとつ鼻で笑って、闇の奥へと消えていった。





──翌朝。東堂の部屋。


「はっ!!」


東堂がベッドの中で跳ね起きた。


全身は汗まみれ、心臓はバクバク。

息を整えながら、恐る恐る布団をめくる。


(……ある。ちゃんと……ついてる……)


「はぁ……夢、か……?ビビらせやがって……」


胸を撫で下ろす。

スマホを取り、いつものようにAVを再生。

下着に手をかける——そのとき。


「……あれ?」


……動かない。


「……あれ?」


……感覚がない。


「おい、ウソだろ!?立てよ!?動けよ!!」


何度も試す。どれだけ試しても、何も反応しない。


「うわああああああああああ!!!!」


東堂の絶叫が、室内に響き渡った。


あるは、ある。

けれど、“男”としての機能は——完全に、終わっていた。


——これが、ハッピーの“最後のあいさつ”だった。


二度と誰も、傷つけられないように。



次回:満ちていく

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