第二話:毒舌犬と高望み女
夢のような春の気配が、まぶたの裏に残っていた。
花びらが舞い、鈴の音が響いていた——そんな、現実じゃない空気。
でも、目を開けたら——そこに花も風もなく、ただ天井だけがあった。
木の天井。障子。畳。
違う、けど、知ってる。
家具の配置も、光の入り方も、空気の手ざわりすら——
「……ここ、私の部屋だ」
そう確信した瞬間、胸の奥がぞわっとした。
異物感と懐かしさが同居する、奇妙な“私の部屋”。
「……あれ……昨日……」
鈴の音。白い髪の神様。
「結婚しないと帰れません」と言われて、焦って、あの人を追いかけて——
「……そのあと、どうなったんだっけ……?」
たしか、あのとき——
足元で、なにかがぐにゃっとして——
「小型の妖怪を踏み潰した。君はその姿に驚き、盛大に卒倒した」
背後から突然響いた声に、結衣子は跳ね起きた。
「うわっ!……いつからいたの……!?」
神は、いつのまにか部屋の隅に座っていた。
姿勢はぴしっと正しているのに、空気に溶け込んでいて——それが逆に腹立つ。
「君が踏んだ妖怪は驚いて逃げていったが、怪我はない。安心しろ」
「妖怪……?」
そうだ、足元で、なにかがぐにゃっとして——
見たら、そこにいたのは——
灰色の、ふわふわした……“何か”。
まるくて、小さくて、毛に覆われていて。
その真ん中に、顔がついていた。
にっこりと笑った顔が。
じっとこっちを見つめる、目。
ぴくりとも動かないのに、
笑ってる。
笑ってる。
笑ってる。
(なにこれ……なにこれ……)
意味がわからない。
見たことない。
怖い。怖い、怖い、怖い——!!
『ぎゃああああああっ!!!??』
反射的に全力で叫んで、後ろにひっくり返った。
そして——そのまま、記憶は真っ白。
「てことは、やっぱり夢じゃなかったんだ……!」
(あれが、妖怪……?)
(この世界で“結婚対象外”の人がなっちゃってるって、言ってたやつ……?)
「……やば……次に会ったら謝らなきゃ……」
神は一拍置き、わずかに眉をひそめた。
……その表情が、すべてを物語っていた。
「君が気を失ったから、この部屋に運んだ。ここは異世界にある“君の部屋”だ」
「……え、じゃあここ……“結婚しないとやばいやつ”の、異世界?」
「そうだ」
結衣子の思考が、瞬時に現実へと巻き戻る。
「やばっ……婚活しなきゃ!え、まず何すればいいの!?花嫁修行!?料理!?出汁!?あ、包丁!?包丁の持ち方!?」
「却下だ」
ズコォッ。
見切り発車のテンションが空振りし、結衣子はその場に尻もちをついた。
「なっ、なんでよぉ……!」
「今の時代、“最初から料理ができる女性”を期待する男は少数派だ」
「え、そうなの……!?」
「料理を学ぶのは悪くない。だが、今の君に必要なのは——“心の整い”だ」
「……スピリチュアル……?」
「違う」
神はすっと立ち上がり、手をかざす。
ふわりと、紙が空中に現れた。
「まずは、自分がどんな相手を求めているのか。その漠然とした理想を、数値や言葉で“見える形”にする。そして、それを現実と照らし合わせる。それが、第一歩だ」
差し出されたその紙には、大きくタイトルが書かれていた。
【希望条件シート】
「……ガチじゃん……」
渋々、ペンを持つ。書く。正直に。思いつくままに。
神は静かに目を細めて、それを読み終えると、ふう、と小さく息を吐いた。
「……よし。これを“補佐役”に送る」
「君のことを、誰よりもよく知る存在だ。この世界の婚活において、君の“心の支え”になるはずだ」
(……誰よりも私を知ってる?)
とはいえ、こんなシートひとつで、何が変わるというのか。
……そう思った、そのときだった。
紙が淡く光を帯び、ふっと宙に溶けていく。
まるで、願いごとを空に投げたみたいな——そんな、不思議な感覚。
「って、補佐役ってなに?……いやまず、私のこと知ってるって、誰よ?」
その瞬間、空気がふわりと揺れた。
花びらのような光が舞い、ふわふわと何かが現れる。
「……毛玉?」
小さな体。小さな足。つぶれ気味の鼻先。白くつややかな毛並みに、ぴょこんと立った耳。首元には紅いリボンのような飾りと、宝石のような光を放つ首飾り。
「わ、わぁ……可愛い……」
それは、神の眷属とも思える、静かな気配をまとっていた。
……のに、次の瞬間。
「誰が可愛いじゃコラァァァァ!!!!!!」
「ギャアアアアアアア!?」
小型犬、突然のブチギレ。しかも関西弁。
「誰が毛玉やねん!うちや!うち!ハッピーや!!!」
「……え?ハッピー?ハッピーって、まさか私の……」
「せや!あんたが9歳のときから一緒やった、ハッピーさんや!!神さんにお願いしてな、しょーもない結衣子のケツ、叩きに来たったんやで?感謝しいや!」
「……ほ、ほんとに……?ってか、ハッピーって関西弁だったの……!?」
「そらそうよ!!けどな、再会早々やけど言わせてもらうわ」
「お前——高望みすなぁぁぁああああ!!!!!!」
空間がビリビリ震えるほどの怒鳴り声。神ですら、一歩引いた。
「えぇぇぇ!?なんでいきなり説教!?」
「結衣子が言うてた理想な?年収1000万以上、身長180超、塩顔イケメンに細マッチョ。高学歴で、上場企業で、趣味が合って、聞き上手で優しくて、浮気は絶対せぇへん。でも引っぱってくれる男らしさもあって、家事育児に積極的で、お金を自由に使わせてくれて……親とは別居で、実家は裕福!?——って、どんなユニコーン探しとんねん!!!」
「……あれ、普通じゃない?」
「おるかーい!!仮におったとしても、そんな逸材、婚活市場に残っとるわけないやろがいっ!!」
「そういう男はな、若くて強かな女たちに、草一本残らんくらい刈り取られとるわ!!」
「そ、そんなぁ……!男の人って、これくらいが普通だと思ってたのに…」
「…てか、え?さっき“心の支えになる”って言ってたよね?私の聞き間違い??」
結衣子の混乱に、神はわずかに視線を伏せ——静かに、ひとつ息をついた。
「……まぁ、彼女の言うことは聞いておいた方が、今後のためだ」
「ワッハッハ!泣いた数だけ女は強くなるもんや!」
そう言うと、ふっと──優しく笑った。
「……ゆーいこっ。会いたかったで」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれた。
思い出す、7年前。
小さな体を、毛布にくるんで見送った朝。
あの日を境に、触れられるものは、もう何ひとつ残っていなかった。
もう一度会いたいと、何度も願った。
でも、それが叶うなんて、思っていなかった。
なのに今——
ハッピーがいる。動いてる。喋ってる。
しかもなんか、関西弁でめちゃくちゃ説教してきてる。
「は、ハッピー……!私も会いたかったよ……!」
「うわぁあん……もう、怒られて悲しいのと、会えて嬉しいのとで、ぐちゃぐちゃなんだけどぉ……!」
「あーあー、ぼろぼろ泣いて。ほら、鼻かみや」
「…結衣子、泣き虫なんはちっこい頃からなーんも変わらんなぁ」
「このふわふわの手触り……お日様みたいな匂い……ほんとに、ハッピーだぁ……!」
「……泣きすぎや。うち、ティッシュとちゃうねんで?あーもう、自慢の毛並みが台無しなるわ……」
「まぁ、こんなんも懐かしいっちゃ懐かしいけどな」
「これでは、どちらが飼い主だったのかわからんな」
「うちやで」
「いや私だよぉ!!……まぁ、今は逆転してたけども!!」
ハッピーが、両手で結衣子のほっぺを挟んで、まっすぐ見つめる。
その瞳の奥には、あの頃と変わらない光が宿っていた。
——まっすぐで、あたたかくて、ちょっとだけ泣きたくなるような。
そして、やわらかく微笑む。
「結衣子?うちはな、あんたに幸せになってほしくて、また会いに来たんや」
「ええ歳して、いつまでも幻獣みたいな理想ばっか追っかけとらんで、ほんまに、結衣子を幸せにしてくれる人を、探すんやで。うちが、ふさわしい男かどうか、見定めたるからな」
その瞳を見ているだけで、涙があふれてきた。
懐かしさも、嬉しさも、申し訳なさも、全部ぐちゃぐちゃになって。
「…結衣子がひとりで泣く夜、うちはずっと、心だけはそばにおった」
「でも、それだけ。なんの力にもなれんかった……せやから、今こうして——ほんま、夢みたいや。……ありがとうな、神さん」
神が、ゆっくりと頷く。
そして、静かに結衣子の方を見る。
「……少し物言いに棘があるが、そこの犬は、天界のどの魂よりも君の幸せを願っていた。故に、この計画に加えたのだ。長く共に生きてきたのなら、私には言えないことも言えるだろう」
その声音には、決して情には流されない者の、厳しさと優しさが同居していた。
「……あんた、ありがとう」
「なんか、神様みたいに見えてきた……」
「おい、はじめに神だと言っただろう!?なんだと思っていたのだ!!」
「まぁ分かるで。胡散臭いもんな」
「犬、そこに直れ!!天界に強制送還してくれる!!」
スッと、神がどこからか刀のようなものを抜き、構える。
「うちに喧嘩売るなんてええ度胸やな……。すぐに“ハッピーちゃん様〜”言うて跪かせたる!」
ハッピーも笑みを浮かべながら、ちいさな牙をチラリとのぞかせた。
「ちょちょちょ、うちで戦争しないで!!賃貸なんだから!!」
「なはは、ジョーダンやて」
ハッピーがニコッと笑い、まっすぐ結衣子を見つめた。
「……結衣子。どんなにしんどくても、この一年っちゅー限られた期間で、最高の相手を捕まえなあかんねん」
「うちらと戦う覚悟は、ええか?」
心の奥に、小さくてあたたかい火が灯る。
味方がいる——本気でそう思える相棒が、ここにいる。
……それだけで、ちょっと頑張れる気がした。
「……うん」
「よし。早速だが、お見合いだ」
「わっ、いきなり!?」
「一年とは、瞬きの間だ。準備に時間をかけすぎても意味はない。——そう。“心の整い”など、一日でできるものじゃない。故に、動きながら整える。それが、この世界の流儀だ」
「了解……。で、その、お見合いって、いつ?」
「本日の正午。君の行きつけの喫茶店だ」
「どえぇっ!?あと2時間もないじゃん!もっと早く言ってよ!!」
「信ッッじられへん!!レディは準備にめっちゃ時間かかんねんで!? 次から気ぃつけや!!」
「そ、そうか…」
神はそっと目を閉じ、静かに天を仰いだ。
「……私も、まだまだ勉強しなければな」
*
「……で、なんであんたその服選んだんや」
鏡の前で、髪を整える。
軽くカールを巻き直し、メイクもほんのり血色感を足す。
ほんの少しでも、よく見せたかった。だって今日からは、“戦い”が始まるから。
「え?かわいくない?」
「太もも全開!ピンクのミニスカ!?歳考えぇや!!」
反射的に背筋が伸びる。
「えぇ……!?だ、だって、ちょっとでも若く見られたかったんだもん!」
「せやからアカン言うとんのや!!」
「あぁ……」
結衣子が天を仰ぐと、隣からぼそっと声がした。
「こら神様!“あぁ……”ってなによ!?」
「神さんには分かったようやな。……はぁ〜。あんた、普段私服は何着とるん?」
「えー?そうだなぁ……トレンチコートに、足首丈のフレアスカートとスニーカーとか。まぁ、“綺麗め×カジュアル”な感じかな?」
「ほんで婚活なったら突然、アイドルみたいなピンクのフリフリミニスカートかいな……」
「男の人って、こういうのが好きなのかと……」
「なるほど。だらしない訳ではないのに、何かおかしいと感じていたが……ようやく私にも理解できた」
ハッピーはジト目で見下ろし、ふん、と鼻で笑った。
「“飾らず自然体”が聞いてあきれるわ」
「ぎゃー!!やめて!!もうそれは忘れてーー!!」
神がわずかに目を細めた。
口元がほんのり緩んで、肩がピク、と震えた。
「……くっ」
「ちょっ…ねぇ、そこの神様!今、笑ったでしょ。絶対笑ったわよね!?」
「私は笑ってなどいない」
「笑ってんじゃないの!!そういうのが一番腹立つのよーーー!!」
「ワッハッハ!まったく、しゃーないな!」
ハッピーがくるりと回った瞬間、風が舞い、花が咲き、光がきらめく。
「え、なに――」
次の瞬間。
鏡に映った自分は、上品な桜柄の着物に包まれていた。
落ち着いた色合い。しっとりとした雰囲気。帯には、小さな花の飾りが添えられていた。
「……これ、すごい。魔法?」
「ハッピーちゃん先生からのプレゼントや。ええか?今の自分に似合う装いで、堂々とせぇ」
「20代に“若さ”で勝負しようったって、敵うわけないんやから。30代は30代のやり方でな」
「……うん。もう、“若く見せなきゃ”って無理するのはやめる」
「だって、“本当の私”を好きになってくれる人に出会いたいから」
私はもう30代だから。
20代に勝つには、自分のほうが見た目で勝たなきゃいけない——そう思い込んで、媚びたような若作りに走ってた。
結果、男にウケるつもりが、ただの“痛いファッション”になってたんだ。
30代は、30代の戦い方。
——おもしろい。
大人の女の魅力、見せてやろうじゃないの。
***
石畳の小道に、やわらかな陽の気配が満ちていた。
竹垣のそばをすり抜ける風が、どこか懐かしい匂いを運んでくる。
一歩ごとに、心の奥が静かにほどけていくようだった。
姿も形も異なる、幾種もの“異なるものたち”とすれ違う。
人のような者、動物のような者、空気のようにふわりとすれ違う者——けれど誰もが、この世界で自然に息づいていた。
路地の奥に、ひっそりと佇む木造の建物があった。
白い暖簾が風に揺れ、ほのかに漂う香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。それだけで、ここに来ることが最初から決まっていたような気がした。
「準備はいいか?椿」
「……うん」
わずかに息をのんで、頷く。
神は、音もなく扉に手をかけた。
ゆっくりと引かれた扉の向こうから、昼の光が静かに差し込む。
暖簾がふわりと揺れ、炊きたての香りのような温かさが、風とともに部屋に流れ込んでくる。
「行くがいい。——“君の物語”の幕開けだ」
「健闘を祈るで。戦じゃ、戦!!首とってこーい!!」
「お見合いって、そんな殺伐としてるもんだっけ!?」
結衣子は、そっと袖を握る。
緊張で、指先がかすかに冷たい。でも、足はちゃんと前を向いていた。
“初めて”のお見合い。ちょっとだけ、いい予感がした。
飾らず、ありのままの私を——なんて言ったら笑われそうだけど。……それでも、そんな私を好きになってくれる人に、出会いたい。
そう思って、揺れる暖簾の先へ——
一歩、踏み出す。
光が差す。
風が揺れる。
その先に、どんな人が待っているのかは、まだ分からないけれど。
*
小さな引き戸の向こう、やさしいお茶の香りが漂う空間。
座敷に置かれた卓袱台。その奥に、ひとりの男が座っていた。
まだ表情は硬い。肩も、少しこわばっている。
けれど、その唇の端が、ほんのわずかに——確かに、笑っていた。
……その笑みが、この“婚活地獄”の始まりだったとは、本人すら気づいていなかった。
次回:開幕!リアル婚活地獄




