第6部-第94章 母との対話
夜、夕食を終えたあと。
ちゃぶ台の上には煮物の残りと湯呑みが置かれ、母はテレビのワイドショーを眺めていた。
浩一は湯呑みに口をつけたが、頭の中に昼間の出来事がずっと引っかかっている。
やがて意を決して口を開いた。
「……今日さ、同級生に会った」
母は驚いたように顔を上げる。
「同級生?」
「うん。岡村ってやつ。高校のとき一緒だった」
少しの沈黙のあと、母は目を細めた。
「へえ……あんたが友達の話をするなんて、珍しいね」
浩一は苦笑し、言葉を続ける。
「いや……友達ってほどでもなかったけどさ。でも、なんか……働いてる姿を見て安心したって言われて」
「そう」
母はそれ以上言葉を挟まず、ただ静かに頷いた。
浩一の胸には、まだ言い足りない思いが渦巻いていた。
「……母さん。俺、ずっと逃げてきたよな。大学も、仕事も、結婚も……何もかも」
母は湯呑みを置き、ゆっくりと息を吐いた。
「そうだね。でも……私は、あんたがこうして五十まで生きてきてくれただけで十分だよ」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
責められる覚悟で打ち明けたのに、返ってきたのは優しさだった。
しかし同時に、心の奥で小さな決意が芽生える。
――母のためにも、これからは逃げない。
テレビの音だけが流れる部屋で、二人はしばらく黙って座っていた。
その沈黙は、かつてよりもずっと穏やかだった。




