第1部-第8章 大学受験の朝
雪が舞うような冷たい風の朝だった。
まだ夜の気配を残す空の下、浩一は母に見送られて家を出た。
「気をつけてね。焦らずに」
母の声は優しかったが、それが逆に胸を締めつける。
――焦らずに、なんて無理だ。
そんな思いを飲み込み、手袋の中の指をぎゅっと握った。
駅前には、同じ受験生らしい若者たちが集まっていた。
真新しいコート、手には過去問や単語帳。みんな目に力がある。
自分だけが場違いな気がして、つい視線を落とした。
電車の窓から見える街は、白い息を吐く人々であふれている。
この中のどれだけが、自分と同じように試験会場へ向かっているのだろう。
会場の校門前では、塾講師や保護者たちが「がんばれ!」と声をかけていた。
その声が遠くに感じられる。
受付を済ませて教室に入ると、黒板の上には「入試会場」の文字。
壁時計の秒針の音がやけに耳につく。
机に置かれた受験票の上に、手汗がじわりと広がっていく。
試験開始の合図。
最初の問題を見た瞬間、頭が真っ白になった。
わかるはずの公式が出てこない。
次のページをめくっても、見覚えのない問題が並んでいる。
周囲ではシャープペンの音が止まらない。
焦るほど、思考はからまわりした。
昼休み、持参したおにぎりを食べながら、窓の外を見た。
曇ったガラスの向こうに、雪が細かく降っている。
「午後から挽回しよう」と自分に言い聞かせたが、午後の科目も結果は同じだった。
終了のチャイムが鳴ったとき、力が抜け、鉛筆が手から滑り落ちた。
帰りの電車で、周囲の受験生たちは「数学は簡単だったな」「英語の長文、予想通り」と話している。
その会話は耳に刺さり、胸の奥で何かがひび割れた。
――自分だけ、別の場所にいたみたいだ。
駅に着くと、母が迎えに来ていた。
「どうだった?」
「……まあ、普通」
それ以上は言えなかった。母の表情を曇らせたくなかったからだ。
ただ、その夜、布団に入っても眠れなかった。天井の模様が、やけに鮮明に目に焼きついた。