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第5部-第67章 きっかけの一言
ある平日の午後、館内は比較的落ち着いていた。
浩一は二階フロアで巡回を終え、休憩室へ戻る途中、インフォメーションカウンターの前を通った。
そこで、見覚えのある老夫婦と目が合った。
彼らは、この商業施設の常連客だ。
奥さんが浩一に微笑み、「いつもありがとうございますね」と声をかけてくれた。
それだけの、短いやり取りだった。
だが、その「いつも」という言葉が、胸の奥で大きく響いた。
自分はここに立ち続けることで、誰かにとっての“当たり前”になっていた。
もし自分がいなくなれば、その当たり前は静かに消えてしまう。
休憩室に戻って缶コーヒーを開けた瞬間、田村の配置転換の提案が頭をよぎった。
「続けるために移るのか、それとも残るために踏ん張るのか」
問いはまだ答えを持っていなかったが、この場所での“役割”を意識したのは久しぶりだった。
帰宅後、夕食の席で母がふと口にした。
「この仕事、あんたに合ってると思うよ」
その一言は、午前中から心の奥に積もっていた迷いの雪を、少しだけ溶かすようだった。
夜、布団の中で天井を見つめながら、浩一は小さくつぶやいた。
――もう少し、ここでやってみるかもしれない。




