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第5部-第64章 迷いの影
万引きの一件から数日、浩一はいつもより早く出勤し、持ち場でも必要以上に周囲を確認するようになった。
動作を意識しすぎてぎこちなくなり、逆に疲れが増していく。
同僚の会話も耳に入らず、返事が遅れることが増えた。
勤務後の更衣室で、後輩が何気なく言った。
「浩一さん、この仕事向いてますよね。落ち着いてるし」
その言葉を笑顔で返すことができなかった。
“落ち着いている”のではない。ただ、体が重くて素早く動けないだけだ――そう思ってしまったからだ。
帰宅すると、母がテーブルに湯気の立つ味噌汁を置いた。
「最近、顔が暗いね」
浩一は「そんなことないよ」と答えたが、箸の動きは鈍かった。
母はそれ以上何も言わず、湯呑を手にした。
夜、布団に入っても、あの時エスカレーターで立ち止まった自分の姿が繰り返し頭に浮かんだ。
“もし相手が凶器を持っていたら”
“もしお客様に被害が出ていたら”
考えるほど、冷たい汗が背中を伝う。
仕事を続けることの意味と、自分の限界。
その二つが、夜ごと静かに心の奥でぶつかり合っていた。




