第1部-第6章 浪人生活のはじまり
卒業して数日後、母は小さな封筒を差し出した。
「これ、予備校の入学金に使って。お父さんが残してくれた分もあるから」
中には厚めの札束。浩一は受け取りながら、胸の奥に重いものを感じた。
――これを無駄にしたら、きっと後戻りはできない。
春の朝、予備校の自習室は新しい参考書の匂いがしていた。壁際には、志望大学のパンフレットや過去問が並んでいる。
周りの席では、高校の制服をまだ着慣れたような浪人生たちが黙々とペンを走らせている。
浩一も机に向かい、数学の問題集を開いた。……が、最初の数問で鉛筆の動きは止まった。
公式は覚えているつもりなのに、解き方が浮かばない。
隣の席の男子がシャープペンを走らせる音だけがやけに耳に響く。
午前中の授業を終え、昼休みになると、教室の外の廊下で数人の生徒が集まって弁当を食べていた。
浩一は一人、近くの公園に行き、ベンチでコンビニのおにぎりを食べた。
口の中が妙に乾き、水で流し込む。空を見上げれば、春の陽射しがやけに眩しい。
――一年後、この空をどんな気持ちで見ているだろう。
最初の一週間は、まだ意欲があった。朝九時には予備校に行き、夜まで勉強する。
だが、二週目に入ると、体はどんどん重くなっていった。
わからない問題が続くと、つい参考書を閉じてスマホを触ってしまう。
気づけば動画サイトで昔のアニメやお笑い番組を見ている。
帰宅すると、そのままゲームを起動し、夜更かし。翌日は朝寝坊して午前の授業をサボる。
母は何も言わなかった。ただ、夕飯のときに「ちゃんと行ってるの?」と一度だけ聞いただけだ。
「行ってるよ」と即答したが、その日は一日中、家にいた。
夏になる頃には、模試の判定はE判定が当たり前になっていた。
「まだ夏だし大丈夫」と自分に言い聞かせるが、机に向かう時間は日に日に減っていく。
焦りよりも、現実から目をそらす習慣のほうが強くなっていた。
ある夜、布団の中で天井を見つめながら思った。
――俺は、本当に大学に行きたいのか?
答えは出ないまま、扇風機の音だけが部屋に回っていた。