第1部-第5章 卒業の空
三年生の三学期、教室の空気は落ち着きと浮き足立ちが入り混じっていた。
進学組は合格発表の話で盛り上がり、就職組はすでに内定先の説明会や研修の予定を立てている。
廊下の掲示板には、大学や専門学校のパンフレットがずらりと並び、色とりどりの写真が目に飛び込んでくる。
「田島、お前はどこ受けんの?」
クラスの男子にそう聞かれ、浩一は曖昧に笑った。
「まだ、考え中」
「もう願書の時期だぞ」
軽い口調のはずなのに、その一言が胸に重くのしかかる。
家に帰ると、母が夕飯の支度をしていた。
「浩一、大学の願書、書いた?」
「……まだ」
「受けるんでしょ?」
「うん……まあ」
会話はそれ以上続かなかった。母は無理に追及しない。それがありがたいようで、同時に怖かった。
何も決めないまま時間だけが過ぎていく。母の優しさが、現実から自分を遠ざけていくようだった。
放課後、図書室に寄ると、佐伯が一人で机に向かっていた。
「田島くん、元気?」
「ああ、まあ」
「私、東京の大学に行くんだ。春からは一人暮らし」
その声は嬉しそうで、誇らしげだった。
「そっか……おめでとう」
心から祝福したかったが、その言葉を口にすると、自分との距離がさらに広がるようで苦しかった。
卒業式の日、校庭には大きな桜の木があった。三月のまだ冷たい風の中、花はまだ蕾のままだ。
式が終わると、同級生たちは写真を撮り合い、抱き合い、泣きながら別れを惜しんでいた。
浩一はその輪の外で、ゆっくりと校門へ向かう。
ふと、背後から名前を呼ばれた。
「田島くん!」
振り向くと、佐伯が駆け寄ってきた。
「今までありがとう。元気でね」
差し出された手を握ると、ほんの一瞬、温かさが伝わった。
けれど、その温もりはすぐに離れていった。
校門を出ると、空は高く、やけに青かった。
これから先の自分の空が、この青さのように広がっているのか、それとも何もない虚空なのか――
答えは、まだ見えなかった。