第三話
リリィは老夫婦の家で静かに座っていた。新しい服に着替えさせられ、血に汚れた手も老女に丁寧に拭われたが、彼女の紫の瞳は遠くを見ていた。心の中では、森での出来事が静かに反響していた。三人の盗賊を殺したこと、そしてそれに何も感じなかった自分自身に対する驚きが、彼女の内側に小さな波紋を広げていた。だが、その波紋はまだ形を成さず、彼女にはそれを言葉にする術もなかった。
老夫が薪をくべ、暖炉に火を灯した。炎の揺らめきが部屋を温かく照らし、老女がリリィの銀髪を優しく撫でた。「もう遅いから、今日はゆっくり休みなさい。明日、また一緒に暮らしていこうね」と老女が言った。リリィは小さく頷き、いつものように素直に言葉を受け入れた。だが、彼女の胸には何かざわめくものがあった。それは、老夫婦の温かさがいつもより強く感じられる感覚だった。
翌朝、リリィは再び老夫婦に頼まれ、森へ出かけた。「薬草が足りなくなったから、少し採ってきておくれ。木の実もあれば嬉しいよ」と老夫が笑顔で言った。リリィは籠を持ち、「うん、わかった」と答えて家を出た。影の森の奥へと進みながら、彼女は小さく鼻歌を歌った。昨日の一件があっても、彼女の心は依然として穏やかだった。血の匂いや盗賊の亡骸が残る場所を避け、静かな木々の間で薬草を摘んだ。
その頃、リリィが森にいる間に、村に暗雲が忍び寄っていた。彼女を襲った三人の盗賊は、実は辺境を荒らし回る山賊団の斥候に過ぎなかった。彼らの仲間――十数人の粗野で武装した男たち――は、斥候が戻らないことに気付き、森の中に様子を見に行くと仲間の死体を発見し、怒りと報復心を募らせていた。
「あの村に何かあるに違いない。奴らを皆殺しにして、財産を奪うぞ!」山賊の頭領が叫び、仲間たちが哄笑を上げた。彼らは馬に乗り、剣と槍を手に村へと向かった。
村は静かだった。畑で働く男たち、井戸端で水を汲む女たち、木陰で遊ぶ子供たち。誰もが日常を過ごしていた。だが、その平穏は突然破られた。山賊たちが馬を駆り、叫び声を上げながら村に突入してきたのだ。剣が振り下ろされ、槍が突き刺さり、血が飛び散った。家々が燃やされ、逃げ惑う村人たちの悲鳴が森の端まで響いた。
リリィが森の奥で木の実を摘んでいたとき、風向きが変わり、鼻を刺すような煙の匂いが漂ってきた。彼女は手を止め、紫の瞳を細めた。遠くから聞こえる叫び声と、燃えるような赤い光が村の方角に見えた。彼女の心は依然として静かだったが、何か異変が起こっていることは感じ取った。「おじいちゃんとおばあちゃんが待ってる」と呟き、籠を手に持ったまま、村へと急いだ。
村の入り口にたどり着いた瞬間、リリィは足を止めた。そこは、もはや彼女が知る村ではなかった。家々は燃え上がり、地面には血が流れ、村人たちが無残な姿で倒れていた。薪を運んでいた中年男は首を切り裂かれ、洗濯物を干していた女は胸に矢が刺さったまま倒れていた。井戸端の老婆たちは折り重なるように息絶え、子供たちの小さな体さえも血に染まっていた。静寂と死の臭いが村を支配していた。
リリィはゆっくりと村の中を歩いた。彼女の足元で血が跳ね、白い服に新たな赤い染みが広がった。だが、彼女の表情は変わらない。紫の瞳はただ、静かに周囲を見渡していた。彼女にとって、これは森での盗賊との戦いと同じだった。血と死は、ただそこにあるものに過ぎなかった。だが、心の奥で何かざわめいていた。それは、老夫婦の顔が頭に浮かんだ瞬間、急に胸が締め付けられるような感覚に変わった。
「おじいちゃん、おばあちゃん…」リリィは呟き、走り出した。燃える家々の間を抜け、老夫婦の小さな家を目指した。家の扉は壊され、屋根の一部が崩れ落ちていた。彼女は中に入り、暗がりの中で二人の姿を探した。「おじいちゃん! おばあちゃん!」彼女の声が初めて震えた。すると、かすかなうめき声が聞こえた。リリィは声のする方へ駆け寄り、倒れた家具の下に老夫婦を見つけた。
老夫は腹に深い傷を負い、血が床に広がっていた。老女は老夫に寄り添い、腕に剣の切り傷を負いながらもまだ息があった。二人はかろうじて生きていたが、その命は儚く消えようとしていた。リリィは二人に近づき、膝をついた。「おじいちゃん、おばあちゃん、私、帰ってきたよ。薬草と木の実、採ってきたよ」彼女の声は穏やかだったが、手が小さく震えていた。
老夫が目を細め、リリィを見上げた
。「リリィ…無事だったのか…良かった…」
彼の声は弱々しく、血が口元からこぼれた。老女がリリィの手を握り、涙を流しながら言った。
「リリィ…私の可愛い子…こんな目に…ごめんね…」
リリィは首をかしげた。「私が平気だから、心配しないで。おじいちゃんとおばあちゃんを助けるよ。薬草で治せるかもしれない」彼女は籠を置こうとしたが、老夫が弱々しく手を伸ばし、彼女を止めた。「リリィ…もういいんだ…わしらは…もう駄目だ…」
その言葉に、リリィの瞳が揺れた。
「駄目じゃないよ。私がいるよ。一緒に生きようって言ったよね?」
彼女は老夫の傷口を押さえようとしたが、血が指の間から溢れ、どうしようもなかった。老女がリリィの頬に手を当て、微笑んだ。
「リリィ…強く…優しく…生きなさい…お前は…わしらの宝物だ…」
その瞬間、老夫の息が止まった。老女が小さく声を上げ、リリィの手を強く握った。「リリィ…お前を…愛してるよ…」そして、彼女の目からも光が消えた。二人の手がリリィの手から滑り落ち、静寂が家を包んだ。
リリィは二人を見つめた。血に濡れた手が冷たくなり、彼女の膝に二人の重みが残っていた。彼女は静かに言った。「おじいちゃん、おばあちゃん?」返事はない。彼女はもう一度呼んだ。「おじいちゃん、おばあちゃん、起きてよ。一緒に生きようって…約束したよね?」
だが、二人は動かなかった。リリィの紫の瞳に、初めて異様な光が宿った。彼女の胸が締め付けられ、喉が詰まるような感覚が広がった。彼女はそれが何かわからなかった。ただ、目から熱いものが溢れ、頬を伝った。リリィは驚いて手を上げ、濡れた頬に触れた。「何…これ?」
涙だった。彼女が生まれて初めて流す涙。リリィは自分の手を見つめ、震える声で呟いた。
「私…泣いてる?」
老夫婦の亡骸を見下ろし、彼女の小さな体が震え始めた。
「おじいちゃん…おばあちゃん…行かないで…私、一人になっちゃう…」
初めての悲しみがリリィを襲った。森で人を殺したときも、村人たちの驚愕を見たときも、彼女の心は静かだった。だが今、彼女の中で何かが崩れていた。静かな湖面に投げ込まれた石が、大きな波を立てていた。彼女は老夫婦を抱きしめ、声を上げて泣いた。
「ごめんね…私がもっと早く帰ってたら…私がもっと強かったら…」
どれだけ泣いても、二人が戻ることはなかった。リリィは涙を流し続け、やがて声が枯れた。彼女は二人を抱いたまま、燃える村の音を聞きながら座っていた。外では山賊たちが去り、炎が村を飲み込んでいた。
時間が経ち、リリィは立ち上がった。彼女の目は赤く腫れ、銀髪は血と涙で汚れていた。彼女は老夫婦の亡骸を見下ろし、静かに呟いた。
「強く、優しく生きるよ。おじいちゃん、おばあちゃんがそう言ったから。私、約束守るよ」
リリィは家を出て、燃え尽きた村を見渡した。誰もいない。生き残りは彼女だけだった。彼女は籠を手に持つことを忘れ、ただ歩き出した。影の森の奥へと。その背中は小さく、孤独だった。だが、彼女の心には新たな感情が芽生えていた。悲しみ、そして生きる意志。
森の風が彼女を包み、不気味な唸り声が響いた。リリィは立ち止まり、空を見上げた。涙は乾き、紫の瞳に静かな決意が宿っていた。
「私、何者なのかわからない。でも、生きていく。答えを見つけるために」
彼女は再び歩き始めた。影の森の闇の中へ。その小さな足跡は、血と涙に濡れた村を後にした。彼女の旅は始まったばかりだった。




