結婚
あの人は何度も来てくれた。
何度も夕食を一緒に頂いた。
あの人の笑顔を見たくて……違う。笑顔だけではない。
会いたかったのだ。ただ、あの人に会いたかった。
あの頃はそれだけで他には何も考えていなかった。
そのうちに休日も会うようになった。
連絡は手紙だった。
電話が無かったから手紙で連絡を取っていた。
そして、あの人から「結婚」という言葉が出た。
私は身の程を弁えずに、ただ愛する人の妻になれる喜びしかなかった。
私が「はい。」と答えた日の後、あの人は家族に「結婚の意思」を伝えた。
伝えた日から始まったのだ。
その日、工場から家に帰る道で、大きな見たことがある車が止まっていた。
私は「惣一さん!」と思って走って家に向かった。
玄関を開けたら、そこに居たのは、あの人ではなかった。
「あぁ、貴女が小林綾子さんですね。
私は川口家の弁護士をしております郷原と申します。」
「初めまして。小林綾子です。」
「あぁ、初めまして。用件だけを言いに来ました。
川口家では小林綾子さんを受け入れることはありません。」
「……!……あの……どういう……。」
「当主である川口惣右介様がお認めになられません。
次期当主の川口惣一様の嫁として。」
「……あの……。」
「川口惣一様との結婚を諦めて頂く!ということです。
こちらには諦めて頂くためにご用意した金子があります。
それをお渡しします。
貴女のご家族がしばらく豊かに暮らせる金額ですよ。
さぁ、こちらにご署名と捺印を!」
「帰ってくれ! そんな金! 要らん!
貧乏人やから何言うても、ええと思うとるんかっ!
誰が娘を売るような真似……するかっ!
帰れ! 早よ帰れ! 帰らんかい!」
「お父ちゃん………。」
一番下の幼い弟が泣いていた。
母は弟を抱きしめていた。
父は塩を弁護士に投げつけていた。
「貰わないと損ですよ。いいんですね。」
「要らんちゅうたら、要らんのや!
早よ帰らんかい!」
「野蛮な奴らや! 当主に申し伝えますよ。
後から、欲しいって言うても知りませんよ。」
「帰れ―――っ!」
弁護士が帰って行った後、私は泣き崩れた。
父は私を抱きしめて「貧乏でもあないなことされて平気やない。怖かったやろ。嫌やったやろ。お父ちゃんがもっと稼げてたら、あないな目に遭わさへんのに……済まん。済まんな。綾子。」と言って泣いていた。
あの人は知らなかった。弁護士が来たことを……。
会いに来たあの人に話した。
話さざるを得なかった。別れるつもりだったからだ。
別れを告げたら、「嫌や!」と言って、私を抱きしめた。
「お金を受け取らなかったこと」「書類に署名捺印をしなかったこと」を聞いたあの人は、「やることが定まったわ。少し待ってて。必ず迎えに来るさかい。」と言って、2か月間連絡は無かった。
私はもう終わったのだと諦めようとした。
諦めようと言い聞かせていたあの頃……久し振りにあの人から手紙が来た。
「手紙には私の家に来る」と書いてあった。
来る日は、その日は手紙が届いた日だった。
暫くして玄関で声がした。
「こんばんは。川口です。川口惣一です。」
私は嬉しくて玄関を開けたら、そこに……あの人が立っていた。
その顔は微笑んでいた。
「待たせてごめんな。迎えに来たんや。」
「迎えに?」
「うん。ご両親に挨拶させて貰うても、ええ?」
「う……うん。」
「綾子、入って貰え。」
「はい。お父ちゃん。……狭いけど入って。」
「ありがとう。」
あの人は狭い家に上がって両親の前に正座した。
そして……。
「先日は大変失礼なことを父が致しました。
申し訳ございません。」
「ああ! うちは貧乏やけど娘を売るほど困ってないんや。」
「はい。勿論です。」
「また、何か……か?」
「今度は私自身がお願いに伺いました。
綾子さんを私の妻に迎えたいと思っております。
結婚を許して頂きますようお願い致します。」
「あんた……親が反対してるんやろ。」
「はい。」
「それでも、綾子と結婚したいんか?」
「はい! 私の妻は綾子さんしか居ません。」
「親はどないするねん。」
「説得しました。」
「説得……応じたんか?」
「はい。」
「どないどして……?」
「私ひとりっ子なんです。家を継ぐのも会社を継ぐのも私ひとり。
親には家も会社も継がないと申しました。
綾子さんとの結婚を出来ないのであれば何も継ぐ気は無いと言いました。
家を出ると……。
時間は掛かりましたが、ようやく結婚を承諾させました。
これからは綾子さんと二人で生きていきたいと切望しております。
どうか、お父様、お母様、綾子さんを私に下さい。」
「綾子、どないする?
結婚したら苦労するぞ。」
「うち、惣一さんの妻になりたい。」
「そうか……苦労はするの目に見えてても行きたいか?」
「はい。」
「しゃーないわ。綾子、お前の人生や。」
「お父ちゃん。」
「気張りなさい。」
「お母ちゃん。」
「ありがとうございます。綾子さん、一緒に……。」
「はい。」
それからは、早かった。
あの人も、秀樹も……結婚したいと思ってからが早かった。
私は18歳だった。
新婚旅行から帰って来てから19歳になったのだった。
そして、あの人は23歳だった。
若かったのだと思う。
⦅挙式、披露宴は全て川口家のためのものやったなぁ……。
両親の着物も親戚の着物も……全て川口家の言うなりやったなぁ。
それでも、文句を言う人が居なかったのは、お金を全て出して貰うたからやな。
宮崎への新婚旅行までは、夢の中やった。
新婚旅行から帰って来てからは……地獄 やった。⦆
そう地獄が待ってた。