再出発の日
長い間、暮らしたこの邸宅を私は今日出て行く。
一番下の三男が大学に進学した今日、私は出て行く。
広い庭も、夫婦の寝室も、息子たちの部屋も、そして……。
可愛い子らに恵まれて幸せな瞬間がなかった訳ではない。
その幸せな時間よりも苦しく辛い時間の方が、私には遥かに長かった。
苦しく辛い人生だった。
「奥様…………。」
「今日まで本当にありがとう。
ホンマにおおきに。」
「奥様…………。」
「皆、身体に気ぃつけてね。
あの子のこと、よろしくお願いいたします。」
「承知いたしました。奥様こそ、どうかお元気で……。」
「お願いしますね。
ほな、さいなら……。」
頭を深く下げたままの使用人に背を向けて、私は夫が用意してくれた文化住宅ではなく、別のアパートに向かった。
夫とは出来る限り会いたくないと思ったから、新しい家は生まれて初めて自分で不動産屋に出向いて決めた。夫に生活全般をみて貰う身なのに……。
⦅長かったわ。ホンマに長かった。
この人生で、この結婚で良かったことは……
あの子らに会えたことやろか……。
育てさせてくれて、ホンマにありがとう。
私の子に生まれて来てくれて………おおきに。
秀樹、忠司……学。
幸せに暮らして……。
生まれて来られへんかった……お腹の中で私が殺してしもうた、あの子。
堪忍……堪忍、え。……ホンマやったら、学のお姉ちゃんやったのに……
堪忍……堪忍……。
後の人生は、あの子の冥福を祈り続けます。
そやから、神さん、あの子を、いつか誰かの元へ元気に生まれて来られるように
してあげてください。お願いします。⦆
数々のことが思い出されて涙が出てきてしまった。
新しい家に到着してから掃除をして少ない荷物を片付けた。
そして、両親の位牌の隣に……小さな無記名の位牌を並べた。
水子供養した時に蒲鉾板で作ったあの子の位牌だ。
舅、姑に気付かれないように密かに……。
炊いたばかりのご飯を供えて、手を合わせた。
「お父ちゃん、お母ちゃん、うち、一人になったわ。
もう川口家とかはお仕舞いや。
楽になりたかってん。ええよね。お父ちゃん、お母ちゃん。
うちを、これからも見守っててね。」
銭湯へ行き、布団を敷いて寝る。
布団の中で横になっていると思い出してしまった。
泣きながら……布団の中で涙を流し、声を殺して泣いた日々を……。