虹蚯蚓の章
「……あ、が……」
さして力を込めているとも思えない行者の手の中で、禾助の頭蓋がみりみりと音を立てる。激痛に手足が突っ張り、握っていた拳がじわりと開き、鍬を取り落とした。やがて、
ぽとり
禾助の右手から小さな何かが零れた。りんが土に落ちたそれをそっと攫う。手に更なる力を込めようとする行者に、
「それ以上力をお入れになったら、その方の頭蓋が割れてしまいますよ」
掛けられた声にふん、と鼻を鳴らし、行者が手の力を僅かに緩めた。
「……む……ぐぅ……」
禾助が唸りながら、額を掴む行者の手を引き剥がそうとばたばたと身をくねらせる。
「…………」
禾助の手が行者の手甲に触れる直前。
眉を顰めた行者が腕を一振りし、暴れる農夫を地面に叩きつけた。大地で数度跳ね転がる禾助に一瞥もくれず、行者は黙って手を差し出す。りんがその手に先程拾い上げたものを渡してやると、行者はそれを腰に下げている竹筒に滑り込ませた。
りんは身じろぎひとつしない禾助にちらりと目を遣り、
「随分と慈悲のないことでございますね。何方様かは存じませんが、一体、どのような教えを体現されているのでしょう」
内容とは裏腹の淡々とした声に、行者は微かに眉を顰め、やがて己の身体を見回し頷いた。
「ああ、この形か……この姿なら、態々こいつ等に交わる必要が無いと思ってな」
それで選んだだけのことよ……こともなげに言う。己で言う通りなのだろう、よくよく見れば、行者にしては何処かちぐはぐである。
数珠も錫杖も携えず、身に纏っている白衣と結袈裟は古びて見えるものの、山で修業をしているにしては汚れやほつれが殆ど見当たらない。装束の首元や手甲や脚絆の隙間から覗く腕脚にもびっしりと布が巻かれており、恐らく全身そうなっているのだろうと容易に想像がつく。ざんばらに伸びた黒髪に縁どられた男らしい顔には、どのような心も浮かんでは居らず、その様は美しい木彫りの面を思わせた。
そして、におい。深い山の奥を思わせる青々としたにおいが、男に纏わりついている。
「何時からご覧になっていらしたのですか」
男はそれに答えずりんを見詰め、やがて葉擦れを思わせる声で、
「お前はこれに用があるという訳では無かろう?」
男が腰に下げた筒を撫でる。りんの細い目が更に細まり、
「ええ。やはり、わたくしの探し物ではございませんでした」
「これが何か知らなかったのか?」
男の言葉に、りんが頷く。
「この辺りに求めるものの気配はあるのですが、はっきりと感じられずに弱っておりましたところ、ある方から、こちらの畑の下には土を富ませる生き物が居るらしい、と伺ったのです。ですが、それがどんな生き物か、畑のどの辺りに居るのか、その方も微睡みに聞いていた為に詳しいことはご存じないとのことでした」
もしかしたら、自分の探しものが変質してしまい感じ取れないのかもしれない、それでなくとも、探し物の手がかりを得られるかもしれない。どちらにしても確かめる必要がある。
「ですから、それをご存じの方に案内していただこうと思いついたのでございます」
「…………」
「それの名を伺っても?」
「『虹蚯蚓』。それを知ってどうする」
にべもない言葉に、りんが口を開きかけた時。
「……ごほっ……」
地に転がっていた禾助の目が開いた。己に起きたことを呑み込めていないのか、鼻と口から血を滴らせながら力の入らない腕で僅かに上身をもち上げ、ぼんやりと辺りを見回す。
男が再び禾助にゆっくりと腕を伸ばす。
「ひぃ……」
一気に目が覚めたらしく、尻もちをついたまま後じさる農夫の額を、男の手が掴む。額を掴む指の隙間から、縋るような目がりんに向けられる。
「あ、あんた! 薬売り! た、助けてくれ!」
「お前、五月蠅いな」
男がぐいっと禾助に顔を寄せた。先程の苦痛と男の膂力を思い出し、がたがたと身体を震わせる禾助に、静かな声が、
「アレをどうする心算だった」
「ア、アレ……?」
「あの蚯蚓だ」
「…………」
「答えろ」
手の隙間から怯えた目が男を見返す。
「撒く心算でした」
「撒く?」
「はい。身を割いて、畑に撒こうと思っとりました……」
おかしな色を放つ蚯蚓が現れた年は田畑がよく実る、じいさんからそう聞いていたが信じちゃいなかったんだ、朝方……その薬売りが家に来た時に、田が僅かに虹色を帯びていたと言い出すまでは……だから、皆が寝静まってから。
ごくり、と禾助が唾を飲む。
「試しに土を掘り返したら、そいつが居たんだ」
「………」
蚯蚓の中には、千切れた分だけ身を増やせるものがいる。このおかしな色の蚯蚓がそうできるのかは知らないが、普通の蚯蚓でも、二つに千切れた身体の片側は大抵生き延びる。ならば賭けてみよう。うまくすれば増えたそいつらが、更に田畑を豊かにするかもしれない。
男の昏い目に実禾が映る。額を掴まれたまま、禾助は腕を振り回し、
「な、なな、何がいけないんだ。折角の運だ、見極め時を逃すなんざ、愚か者のするこった。それよりも、あんたは一体何者なん……」
「もういい」
男が僅かに手に力を込める。禾助は「ひゅっ」と息を漏らし、動きを止めた。
「その辺になさいませ」
己にかけられた言葉に、男は振り向きもせず、
「こいつは何に手を出したのかも分かっていない。そんな阿呆はどうなっても仕方がない」
「その方がどうなろうが、わたくしも興味はございません。ただ、貴方様の主様は貴方様の行いを良しとするのだろうか、と思っただけでございます」
「…………」
りんの言葉に、男の手の力が止まった。男は暫し天を仰ぎ、やがて、
「……面倒だが、こうしてくれよう」
禾助に顔を寄せた。
「お前のしようとしていたこと、そのまま返そう。安心しろ。その薄汚い身をどうこうしたりはせん」
「なな、何……」
「眠ればわかる」
指の隙間から洞を思わせる瞳が禾助の目を射ると、びくん、とその身が跳ねた。男の手から、力の抜けた身体がくたりと地に頽れる。
程無く、目を瞑り横たわる禾助から恐ろしい叫びが上がった。
「ひ……やめ……あ……ああああああ!!」
口から泡を零し、土塗れで転げまわる身体を見下ろしていた男が、
「本当に五月蠅いな。場所を変えるぞ」
りんを促すように山に顔を向けると、男の姿が掻き消える。後を追うように、薬売りの身も空に溶けた。