薬売りの章
ほとほと。
禾助が身じろぎし、薄目を開けた。まだ暗さの残る浅い朝、隣に目を遣ると母親は眠ったままだ。
ほとほと。
再びの物音に采助の頭がはっきりする。いつもよりも早い刻限に目が覚めたのは、戸口を叩く音のせいだった。近頃耳の遠くなった母は、まだ高いびきを掻いている。
誰ぞ、急ぎの用でもあるのだろうか。その割に、慌てた気配は感じられない。首を捻りつつ戸口に向かう。
禾助の起き出す気配が伝わったのか、不思議な響きの声が、そよ風のように聞こえてきた。
「御免くださいませ」
「誰だ、まだ夜も明けてねえぞ……」
「このような刻限に失礼致します、禾助様でいらっしゃいますか」
「確かに俺が禾助だが……なんだ、あんた?」
戸に手を掛けた骨太で短躯の男の目が、来訪者の全身を上下する。来訪者が深々と頭を下げると、周囲に何とも言えないにおいが広がった。
「わたくしは旅の薬売りでございます。添助様から禾助様のお話を伺いまして、もしや薬がご入用なのではないかとお邪魔した次第でございます」
「薬売り? 何だって添助の奴が……しかも、こんなおかしな刻限に……悪いが間に合ってる」
「熱冷まし、腫物、腹痛、どのようなご要望にもお応えできますよ。子宝に恵まれ易くなる丸薬等も扱ってございます」
「あんたもしつこい……待て。今、何と?」
「子宝に恵まれ易くなる丸薬、でございましょうか?」
「……あんたが添助から何を聞いたか知らんが、まあいい。入ってくれ」
「恐れ入ります」
来客を招き入れる為に半身を避けた禾助が、きょろきょろと周囲を伺う。
「こんな刻限を選んだのはわざとなんだろ……本当に誰にも見られてないのか」
「ええ」
戸口を潜り、薬売りが背負った柳行李を土間に下ろす。
「悪いが、静かにしてくれ。寝てるおっ母を起こしたくない」
「勿論でございます。それでは早速でございますが、どのような薬をご用意いたしましょう」
「……分かってるんだろ……その……」
「子宝の薬でございましょうか」
「…………」
黙って頷く禾助に、薬売りは柳行李から掌ほどの小袋を取り出す。
「丸薬が二十八粒入っております。日に一粒、一月の間欠かさず服用なさってくださいませ。効果は服用を終えてから一年ほど続きます」
「……値は?」
「銀二粒でございます」
禾助が顔を顰めた。
「効くか効かんか分からんものに、そんなに出せん」
「お言葉、ご尤もでございます。それでは、禾助様は日頃からお困りの身体の不調はございませんでしょうか」
「なんだ、突然?」
「ございましたら、それに合わせた薬を拵えましょう。勿論、その分のお代は頂きません。もし不調が治まれば、薬効を信用していただけるのではございませんか?」
禾助が腕を組む。
ここ数年、ずっと腰の痛みに悩まされている。それが代も取られず少しでもましになるのなら、悪い話ではない。例え効き目がなかったとしても、少なくとも損はないのだ。
ならばと腰の不調を訴えると、薬売りは柳行李から刻んだ何種類もの葉や、油の入った竹筒を取り出し、あっという間に薬を練り上げた。
「こちらは痛みを抑える膏薬でございます。痛みを紛らわす為だけのもので、痛みの元を無くすものではございませんが、塗り付けてすぐに効き始めます」
薬売りが竹の皮に膏薬を盛り、差し出す。禾助は着物をはだけ、膏薬を一掬いして腰に塗り付け暫くすると、目を瞠った。
「……本当に、全然痛まねえ……」
「それはよろしゅうございました。ですが効能は一日程しか持ちません。ご留意くださいませ」
禾助が大きく頷く。
「あんた凄えな……分かった、例の薬を買おう、いや、買わせてくれ。それと、今の膏薬の残りも買いたいんだが」
「ありがとうございます。膏薬は大した量でもございませんし、先程も申しましたようにこちらのお代は結構でございますよ」
薬売りは竹の皮を器用に畳むと、丸薬入りの小袋と共に禾助の手に乗せた。
ふと、ほくほく顔で代価を払う禾助の眉が顰められる。
薬売りが、向こうを透かすような目で戸口を眺めていた。
「なんだ? 外に何かあるのか?」
「いえ、実はこちらに伺う途中、畑で不可思議な色を拝見した気がいたしまして」
薬売りの言葉に、禾助が息を呑んだ。
「失礼いたしました、きっと気のせいでございましょう。それで、薬のお代ですが」
「……銀二粒だったな。分かった、払う。だから、他所でそんな話をしないでくれ」
「そんな話、とは」
「うちの畑が光るなんて、気味が悪いじゃねえか。そんなの聞いたら、皆も気を悪くするに違いない。だから、黙っててくれ」
「ご安心くださいませ、皆様と顔を合わせる前に里を出ようと思っておりますので」
「……そうかい」
薬の取引を終えると、薬売りはあっさりと禾助の家を出た。戸口でその背を見送る禾助の目が自然と己の畑に向く。
がたん
そこここの家で、起き出した人々の気配。目覚めた老母が息子の背に声を掛ける。
「なんだい、随分早いね。どうしたんだい」
「……なんでもねえよ」
外に覗かせていた首を引っ込め、禾助は野良仕事の準備を始めた。