介抱の章
西に山並みを望む里の田畑が、山間からこぼれる橙色の陽を照り返す。見通しの良い里の北をはしる道沿いに立つ小屋に、威勢のいい声が響いた。
「おーい、茅。具合はどうだ」
「お帰り、あんた。大丈夫だってば、まったく心配性だね……って、どちらさん?」
狭い土間で、竈にかけた鍋を覗いていた女が、大きな腹を擦りつつ振り返り、眉根を寄せた。手にした荷を土間の隅に置く夫の後ろに、何とも風変わりな相貌をした影がひっそりと控えている。
戸惑いを隠せない女に、添助が満面の笑みを浮かべる。
「こちらは、りんさん。薬を商ってんだと。りんさん、妻の茅だ」
「りん、と申します。しがない薬売りでございますが、よろしければ、茅様のお身に合わせた薬を調合させていただきます」
「はあ、ご丁寧に……茅、です」
痩せた顔を微かに傾ける茅に、
「りんさんは身重でも飲める薬を扱ってるって話でな、お前を診て貰おうと思って連れてきたんだ。そんで、あのう……宿に困ってるって言うし、今夜はこのままうちに泊まって貰おうかと思ってさ。いいだろ?」
「あら、まあ……けど、ええと……りんさん、とやら、こんな狭いところで本当に構わないのかい? 見ての通り、寝るのが精一杯だよ?」
茅が何とも言えない顔をして、大の大人が三人横たわればいっぱいいっぱいの板間に目を遣る。その言葉にりんは笑みを崩さず、
「これは突然の訪問、大変失礼いたしました。つい添助様のお言葉に甘えてしまいましたが、ご迷惑でございましょう。ご安心下さいませ、茅様の具合を拝見しましたら、すぐにお暇いたします」
過ぎるほど慇懃な言葉に、添助が眉尻を下げ声の主を振り返る。
「りんさん、気にしないでくれ。おい、茅、そんな言い方したら……」
茅も慌てたように、
「やだ、違うのよ。この人が信用したお人なら、いくらでも泊まってって頂戴。ただあの、あたしもこんな身体だし、碌なもてなしも出来ないもんだから……」
却って申し訳なくてさ、と青白い顔で恥ずかしそうに口ごもり、夫に怖い顔を向けた。
「あんた、無理矢理お連れしたんじゃないだろうね」
「そんな訳あるかい。お前だってお産の時に薬があれば、心強いだろ?」
「そりゃまあ……ありがたいけど……」
口ごもる茅を見詰めていたりんが、突然、
「茅様、暫く横になられた方がよろしいかと存じます」
「えっ?」
「眩暈がお辛いのではございませんか?」
「どうして……」
「お身体に不自然に力をお入れでいらっしゃるように見えます。それに先程から、黒目も僅かに揺らい」
りんの言葉が終わらぬうちに茅の身体から力が抜け、上身が傾いだ。慌てて添助が妻を支え、
「おいっ、どうした……茅、茅!」
「揺すらず、そっと寝かせるのです」
背負っていた柳行李を土間に下ろしたりんが、隅に積まれた藁束を板の間に手早く並べると、添助がその上に茅の身をゆっくりと横たえる。りんは、妻より余程青い顔をしておろおろとしている添助に茅の脈を数えさせ、
「失礼いたします」
と、横たわる茅の目を暫し覗き込む。やがて、
「添助様、わたくしの荷をお取りくださいませ。それと、少々の湯と椀を」
「お、おう。すぐに沸かす」
添助は言われた通りにりんの柳行李と椀を茅の足側に置き、竈の鍋を慌ただしく降ろすと、土間の隅から穴の開きかけた古い鍋を持ち出して湯を沸かし始めた。
間もなくぐらぐらと湯気の立ち上り始めた鍋を己の脇に持ってこさせ、りんが柳行李から薬草や木の根を幾つか取り出してそこに放り込む。最後に、添助から買い取った薬草を一つまみ揉み入れた。
何とも言えない青臭さが小屋に立ち込める。
「茅様、薬を煎じました。お飲みになれますか? 飲み辛ければ湯気を吸うだけでもようございますよ」
りんが木椀に鍋の中身を汲み、目の焦点の定まらない茅の背を支える添助に差し出す。
口元に当てられた椀から薬湯を啜った茅の頬に、少しずつ血の気が甦る。やがて、落ち着きを取り戻した茅がしゃんと背を伸ばし、
「驚いた。ずいぶん楽になったわ」
「それは、ようございました。それと、こちらの丸薬をお試しくださいませ。眩暈を抑える効果がございます」
添助から椀を受け取った茅が、りんが差し出した丸薬を薬湯で流し込む。じつに不味そうに飲み込んだ茅につい吹き出した添助だが、すぐに真顔になり、
「りんさん、あんたが居てくれてよかった、ありがとよ。それであの……茅の具合はどうなんだ?」
りんが添助に向き直り、
「わたくしはしがない薬売りでございますから、確かなことは分かりかねます。が、恐らく、血の気が薄まっていらっしゃるのではないかと。安静になさって、大豆などを召し上がられてはいかがでしょうか。先程、向こうの田の周辺に植わっているのを見掛けました。あれは公事で納めるものではございませんでしょう?」
「まあ、そうなんだが……」
薬売りの言葉に、添助が顔を顰めた。
「あれは、私らの分じゃないから」
口を濁す夫に代わり茅はきっぱりとそう言い、すぐに笑顔で、
「それより、さっきは素気無い態度でごめんなさいね。本当言うと、ちょっと身体が辛かったの。もう大丈夫だから、遠慮しないで好きなだけ泊まってってくださいな。待ってて、すぐ鍋を温めるから」
「俺がやるから、お前は寝とけ」
立ち上がろうとする茅を押しとどめ、添助が竈に鍋を掛ける。干飯と大根の葉と根、僅かな干し魚で炊かれた雑炊に、りんが柳行李から取り出した香草を横から加えると、思いのほか食欲をそそる香りが立ち上る。
すぐに、ささやかな夕餉が始まった。
「この香草、いい香りがするのねえ」
「以前に訪れた海辺で採って干したものです。その辺りの村では、身重の方がよく口にされるそうですから、茅様のお身体にもよろしいかと存じます」
「えらく美味そうじゃないか」
「本当に。ねえ、りんさん、これは何処で手に入るの?」
「どうやら土の塩気が強くないと育たないようですから、この辺りで手に入れるのは難しゅうございましょう」
「残念だわ。海なんて見たことないけど、随分と此処とは違うんでしょうね」
「ええ。例えば、こんな話がございます」
りんが空になった椀を置き、語り出した。
ふかの群れを追い遣った大蛸の顛末。潮騒に混じる美しい妖の歌声。波間に覗く巨大な目。漁師と海鳥の騙し合い、その軍配。
そのどれもが面白く、自然と添助と茅の食べる手は止まり、りんの話に聞き入る。
気付けば、小屋の外は随分と闇色を広げていた。
「面白いわねえ」
「ああ。りんさんは色んな話を知ってるんだな……なあ、何処までが本当の話なんだい?」
「ふふふ、さて。こういった話をいくつか披露しますと、知らない土地でも商いがしやすくなるのでございますよ」
「確かに、こりゃあ皆、足を止めるだろうなあ」
和やかな食事を終え、夫婦が食器を片付け始めると、りんは茅の為の薬を拵え始めた。やがて、片付けを終えた茅が「なんだか、やけに眠いのよ……悪いけどちょっと休ませてもらうわ」と、壁際の藁敷きに大きな腹を庇うように身を横たえ、間もなく寝息を立て始めた。