天運の章
杉
ヒノキ科スギ属の高木
古くから、様々な形で利用されている
日本固有種
「俺がこの地に目を付けたのは、偶々だった」
板の間に敷いた筵の上で、祖父が頑是ない兄弟に語り始める。まだ田畑を手伝える年頃でもなく、かと言って大人しく寝かせて置ける程には幼くもない子等の世話は祖父の仕事だった。
己を見上げる幼子たちに祖父が微笑み、続きを聞かせる。
父母と兄に己は死んだことにしてくれと言い残し、生まれた村を逃げるように飛び出してから暫く、あてもなく彷徨っていた。別に、何処でもよかった。その頃の彼が持っていたのは、若さと、人よりも目端が利く抜け目のなさだけ。
何があった訳では無い。皆が言うように、都へのあこがれがあった訳でも無い。貧しい暮らしも、どこに行こうが大した違いは無いだろう。ただ、それに不満を漏らすだけの隣人たちに辟易していただけだ。それ以上の何かを手に入れようにも、その手立てすら口に出せないような窮屈な暮らしは、獣以下にしか感じられなかった……何より怖ろしかったのは、己の心がいつしかそれを受け入れてしまいそうだったことだ。
気持ちを落ち着けられる場所が欲しかった。叶わないならば野垂れ死ぬのも仕方ない、その思いと僅かな手荷物だけを携え村を出奔した。
幾つか山を越え、木の根や泥水を啜り、辿り着いた平野を只管歩いていた際のことだ。
ふと気づく。なにやら、先程までよりも歩き辛い。枯れ草に混じる丈高い草に、時折足を取られる。
この辺りの土は作物が育ち辛く、折角の平らかに広がる土地なのに村の一つもないと聞いていた。実際ここまで、川沿いでもない限りは僅かに生える身窄らしい雑草と、ぼそぼそと黒ずんだ土の目立つ、荒涼とした風景が広がるばかりだったのに。
試しにと、伸びた草を無造作に掴んでみると、思いの外根を張っているのか抜くのに力が要る。
なんだ。何故ここだけ育ちの良い草が目立つ。草の根に着いた赤茶けた土がぽろぽろと足に零れ落ちる。
先程越えてきた山並みを振り返る。己の足元に目を凝らす。それを何度か繰り返していると、目の端で、水に油を引いたように土の内から虹色が浮かんだ……或いはそう感じただけだろうか。目を凝らしてみたが、既に綾はどこにも見当たらない。
首を振り頭を切り替える。
恐らくあの山の何処かが、かつて山崩れを起こしたのだ。崩れた斜面から流れた滋養を含む土は、不毛に見えるこの辺りの一部を潤した。そして――未だ誰も、そのことに気付いていない。
じわり
背に汗が伝う。これは、またとない好機だ。
「それから俺はここに畑を拵えた。思った通り、何を植えても良く育った。田を作るには水を引かなきゃならんから一人じゃ厳しかったが、その内、一人、二人と人が集まり出した。人手が増えりゃ田も作れるようになる。気付きゃあ、いつの間にか荒れ地だったここも里村の扱いさ」
膝の上で大人しく聞いている弟とは対照的に、兄がきろきろと眼を動かす。
「じいちゃんが、ここを拵えたってこと? なら、どうして隣の茂一おじさんが長になったの?」
「俺にゃ里を拵える心算なんざ、端からなかったからな。そんな事にゃ興味が無かったし、そもそも、こんなに人が集まると思ってなかった。今、この里に居る年寄の殆どは元の村をおん出た変わり者だ。そんな奴等を纏めるのは、俺なんぞより茂一のやつのがよっぽど向いとる」
お前達、俺がこんな風に思ってたって事は父ちゃん達にも内緒だぞ……祖父はそう言って目を細め、ふっと真顔になり、
「……けどな」
「けど?」
まだ舌足らずな言葉に、祖父が小さく唸る。
「俺はこの歳になるまでに二度も虹の土を見掛けてるんだが、どうも皆はそんなの見てねえらしい。だから、俺も黙ってんだ」
「じいちゃんの見間違いじゃないの?」
「そりゃ、瞬きの間にほんの少うししか光らんけど、見間違いなんてこたねえ。虹の土を見た年は信じらんねえくらいの豊作だったから、覚え違いってこともねえ……皆は、お天道さんばっかり見上げてて、足下を見ちゃいねえんだ」
皆で同じ方ばっかり向いてたって、面白くねえのになあ……祖父は小さく頷き、
「思うに、豊作はあれのお陰なんじゃねえかな。うん、何でかそう思えるんだ」
ま、俺が特別目利きだってことかもしれんけどな、と豪快に笑った。その弾みに、膝の上で微睡み始めた弟の頭が、かくん、と揺れる。祖父はその頭を撫で、
「お前達は俺に似て目端が利く。覚えておけよ、見極め時を逃すのは愚か者のする事だ」
「ねえねえ、どうして土が虹色なのか確かめなかったの?」
「確かめたさ。皆に見つからねえようにこっそり掘ってみた……だから、知っとるんだ。本当は、虹色に光ってたのは土じゃなかった」
「え? じゃあ、何が光ってたの? 畑の何処が虹色に光るの?」
目を輝かせる兄に、
「そんなに知りてえか……なら、このことを誰にも言わねえって誓えるか?」
「うん!」
「お父にもお母にも黙ってられるか?」
「う……うん!」
祖父は悪戯っぽく笑い、
「それはな……」