Report.06 私の手札
リタさんと別れ、再び全力疾走で西へと駆け抜ける。
橋を越え、騎士団の小屋を超えた辺りで少し速度を落とし、お祖母ちゃんの姿を探す。
「お祖母ちゃーん! どこに居るの!」
声をかけるけれど返事はない。最悪の想像が頭を掠めたが、それを振り払うように声を張る。
「――お祖母ちゃーん!」
見慣れている筈の真昼の森なのに、なんとなく嫌な空気を肌で感じ取る。日差しも、草木も、土の香りも、何一つとして変わらない筈なのに。
(――違う。生き物の気配が、稀薄なんだ)
森の中からは、普段は感じられる息遣いというものが全くと言っていいほど感じられなかった。きっと殺されたわけじゃない。生き物は危険に敏感だ。この危険を察知して、どこか遠くに身を潜めているのだろう。
(お祖母ちゃんも、そうしてくれていたらいいんだけど……)
そんな淡い期待を抱きながら捜索を進めていると、ふと地面に気になるものを見つけた。
「これ……血痕だ」
全身が総毛立つ。野ウサギか何かの血痕であって欲しいと願う。
血痕は、道を逸れて森の木々の奥へと続いていた。獲物を引きずったのか、あるいは。
(まるで、傷ついた人間が這い進んだみたい、な)
恐怖はあった。だが、それ以上にお祖母ちゃんが傷ついているかもしれないという事実に震えた。私は考えるよりも先に、血痕の伸びる先へと駆けだす。
「――はっ、はっ!」
ずっと走り通しだったので、息が切れてくる。鬱陶しい木々の合間を通り抜けて、少しだけ開けた場所に出る。
そこには。
「お祖母ちゃん!」自然、声が上ずってしまう。
「レド、来ちゃいけない!」
お祖母ちゃんが、真っ黒な異形に襲われていた。シ者と呼ばれていたヤツらの仲間だ。
先程見た個体よりもかなり大きく、私と同じくらいの身長をしている。そう、身長。ヤツは二足歩行をしていた。さっきの蜘蛛型のヤツよりも、かなり人間に近い造形。逆三角形に近い直線的なフォルムで、両手足は蜘蛛と同じようにブレード状に研ぎ澄まされている。人間で言う首から上をバッサリと切り落としたような体のその胸の辺りに、ギョロリと一つだけ目玉がついていて、私の生理的な嫌悪感と根源的な恐怖心を掻き立てられた。
呼吸が荒くなるのを自覚する。明らかに先程までの個体とはレベルが違う、そう直感した。
ヤツは私とお祖母ちゃんの声に気付いたのか、目玉をぐるりとこちらに向ける。よく見ると、目玉の下の辺りに、小さな昆虫の口のような器官がついているのが分かった。分かってしまった。
「ひっ」
そのとき、私の耳に届いたおぞましい音を、私はこの先ずっと忘れられないだろう。
『ミヅ、けタ?』
「……………………は?」
自分のものとは思えないような、情けない声が漏れる。
ヤツは、確かに今、言葉を喋った。『見つけた』、そう言った?
言葉を喋るということは、ヤツには意思があるということ。
そして見つけたということは、ヤツは何かを、誰かを探していたのだということ。
誰を? 考えるまでもない。ここには私とお祖母ちゃんしか居ない。ヤツが『見つけた』のは、私しかあり得ない。
「――っ!」
怯える私に向かって、ヤツは思い切り地面を蹴り出して飛び掛かってくる。四肢の先端のブレードを体ごと回転させながら迫りくる。あんなものに触れたらひとたまりもない。
「ううぅ!」
反射的に地面を蹴って回避する。先程からずっと両足を強化していたお陰か、体は想像よりもずっと軽快に動いてくれた。
着地から続けて、今度は飛び上がらずに両手足を広げ、側転の要領で迫りくる。眼前にまで差し迫った死の歯車を間一髪、地面を転がるようにして避ける。
「はあっ、はあ!」
『こちらに負けの目があるようならそんなものは狩りではない』。私は今、狩りとは違う死の恐怖を確かに感じていた。ヤツからすれば、これは狩りそのもの。私に勝ち目などない。
「レド! お祖母ちゃんのことはいいから逃げな!」
「――お祖母ちゃん」
その声を聞いて、少しだけ冷静さを取り戻す。ここで私が負けたら、次はお祖母ちゃんの番だ。それはだめだ。あいつにとっての標的が私なら、お祖母ちゃんは関係ない。
そうだ、いじめっ子たちとは違う。ヤツに遠慮する必要はない。手を出したから報復されるなんてこともない。むしろ、手を出さなければただこちらが殺されるだけだ。
「――ふう」
一呼吸置いて、意識をリセットする。落ち着いて、腰に下げていたナイフを前方へと構える。強化すべき部位、使うべき魔術と、そのタイミング。私の手札を最大限活かさなければ勝ちの目は生まれないのだと自覚する。
『ぎ、ギひ』
ヤツが不快な笑い声を上げる。ヤツは右手のブレードを、いつの間にかお祖母ちゃんの喉元にチラつかせていた。
(もしかして人質のつもり? もしそれほどの知能があるなら、もう……)
最悪のシナリオを想像するが、幸か不幸か、ヤツは再び先程と同じように飛び掛かってきた。冷静に、両足を強化して横っ飛びに身を躱す。
(お祖母ちゃんと私が仲間だということには気付いている、でも、それで人質を取るほどの知能はない――)
続いて、側転の要領で繰り出される回転攻撃。攻撃の範囲は分かりやすいので、余裕を持って避け、再び態勢を整える。
(攻撃は恐ろしいけれど、単調。躱すだけならまだ余裕はあるっ!)
好機と見て、攻撃態勢に移ろうとするヤツにナイフで切りかかる。
「っふ!」
渾身の力で振りぬいたナイフはしかし、ヤツの振り返りざまに左手のブレードで軽く弾かれてしまう。
(硬いな……なら!)
弾かれた勢いを着地した右足で吸収しながら、意識を右手と右足に同時に集中させる。
「――ぁああ!」
強化された右足で地面を強く蹴りぬく。足元の土がめくれあがって舞い上がるほどの衝撃。その勢いのままに空中で素早く一回転。ヤツの回転しながら飛び掛かってくる攻撃の意趣返しだ。回転分の遠心力を加えて、もう一度同じ所にナイフの一撃を叩き込む。今度の一撃には手応えがあったが、ヤツも両手のブレードを重ね合わせることでなんとか対抗してくる。
「……はあ、はあ」
戦える。今の攻撃なら通用する。問題は、私の魔力、集中力がいつまで持つか。
(家を出てからずっと身体強化は続けている。全身強化ほどではないけど、恐らくそう長くは持たない)
なら、これに頼り続けるのは危険だ。魔力が切れたらロクに立ち上がることもできない。もしそうなれば死んだも同然だった。
(幸い攻撃は単調だから、避けるだけなら強化はなくても問題ない……だから問題は、攻め手)
こちらの攻撃方法を工夫するか、それとも、
(攻撃を与える場所を工夫する。弱点を探る?)
やってみる価値はある。そう考えている私の不意を突くように、ヤツが右手のブレードを横一線に振るってきた。
「――っ!」ギリギリのところで、上体を逸らす。そこを逃すまいと、続けざまに左手のブレードで突いてくる。
「この――っ!」体を折りたたみ、屈むようにしてそれを避けると、
「うわっ!」右足のブレードのローキックが迫ってきた。避けきれずに、ナイフの背に左手を添えてなんとか受け止める。ガキッという嫌な金属音が耳に響く。
(攻撃のパターンが変わった。流石にそれくらいの知能はあるか……!)
私はあくまで狩人、それもまだ見習いのレベル。このような白兵戦での身のこなしにはそれほどの造詣がないし、実戦だって初めてだ。ヤツにスタミナの概念があるかは分からないけれど、少なくとも長引けば不利になるのはこちらだということは間違いないだろう。
(なら、ここらで一つ、決め手にかける!)
受け止めたナイフをヤツのブレードに滑らせて、そのままの勢いで立ち上がりつつ、 ナイフを思い切り突き上げる。
狙いはヤツの目玉。
予想通り、ヤツは大きく飛び上がってそれを避けた。
ヤツのブレード状の体は、突きのような点の攻撃を受け止めるのには向いていない。加えて眼球。どんな生物であっても、首筋、眼球は急所と相場が決まっている。
その動きを予想していた私は、すかさず右手のナイフを突き出し照準を合わせる。
――意識の流れにはとびっきりの勢いをつけて。螺旋を描きながら加速した魔力は、ナイフを握り込む右手の指先へと収束する。
「留まることなき自由の風よ――」
飛び上がったヤツが着地するまでが勝負。空中では姿勢くらいは変えられても、この攻撃は躱せない!
「――貫け!風槍!」
詠唱と共に放たれた風の刃。爆発的に加速したそれはヤツの目玉めがけて一直線に加速する。
だが攻撃が当たる瞬間、ヤツは両手のブレードを眼前で交差させた。
瞬間、激しい衝突音。そして、衝撃を食い止めんとする刃が奏でる金属音。
刹那の攻防は長くは続かず、やがてヤツは衝撃に負けて吹き飛ばされていった。
私の起こした暴風の影響で、辺りには砂埃が舞い上がっている。
「今のは流石に、効いたでしょ」息を切らしながら、言葉をこぼす。
魔力をほとんど使い果たして、地面にへたり込む。手応えはあった。しかし風のコーティングがあったとはいえ、飛ばしたのは何度も受け止められている普通のナイフだ。完全に倒しきれたとは限らない。
「お祖母ちゃん、大丈夫?」
だから私は、急いでお祖母ちゃんの元へと駆け寄った。
「レド……こんなに汚れて、ほら、ここのとこなんて切れちゃってるよ」
言われて、腕の切り傷に気付く。打ち合いの際に避けきれなかったんだろう。
「こんなの平気だから! それより早く村に戻ろう」
「老いては子に従えとは言うけど……レド、お前は強いんだねえ」
「強くなんてないよ、多分あいつだって仕留めきれてない、だから早く――」
村までお祖母ちゃんを連れて逃げる。それが私たちの勝利条件だった。村まで戻ればリタさんが居る。彼女の力なら、あんなヤツきっとどうとでも、
『に、ガ?』
土埃の向こうに、両腕のブレードが欠けたシルエットが浮かぶ。
ヤツはまだ、生きていた。
「くそ……!」
足はまだある、お祖母ちゃんを庇いながらでは逃げきれない。 そう判断して、予備のナイフを構える。両腕が欠けたということは、目玉を守る術がないということだ。つまり、このナイフを突き立てることさえできれば、それで終わり。
「……あ」
それなのに、体が持ち上がらない。戦意はある、武器の予備だってちゃんと用意していた。だけれど、体が言うことを聞かなかった。
魔力を使い過ぎたその代償だった。
「お祖母ちゃん、今すぐ走って逃げて!」
「馬鹿を言うんじゃないよレド! そのナイフをよこしな!」
言って、お祖母ちゃんが私のナイフをひったくるように奪い取った。
「だめだよお祖母ちゃん!」
「私だって狩人だったんだ、可愛い孫娘を傷つけられて黙っていられるほど大人じゃないよ!」
お祖母ちゃんはそう啖呵を切って立ち上がるが、その体は震えていた。
無理だ、率直にそう思う。そこらの獲物を狩るのとは訳が違う。負けるかもしれない、死ぬかもしれない、そういった恐怖を麻痺させることはそう簡単なことではなかった。
「おばあちゃん!」どうしようもない自分が情けなくて、声が枯れそうなほどに叫ぶ。
「この……!」
「よくやったなレド。お前は本当によくできた妹分だよ」
聞き慣れている筈なのに、随分と懐かしく感じるその声。
森にトリエの声が響くと同時に、ヤツの目玉は撃ち抜かれた。