Report.05 『シ者』
鼓動が早い。体が熱い。
心臓がはち切れそうだ。それでも決して足は止めない。
――村の中は、阿鼻叫喚を極めていた。
根っこの生えた方角からは、逃げ惑う人々の群れ。すれ違う私には目もくれない。その中にはいつか私に暴力を振るっていた子供たちの姿もあったが、その誰もが自分の身の安全に執心していた。
(――やっぱり、何かがあるんだ)
確信して、もう一段階速度を上げた。
極限状態の集中力を、両足と両目に全て割り振る。人々の合間を縫って、最短距離を駆け抜ける。全身強化を除けば、精々同時に強化できる箇所は二か所だ。足なら右と左で合計二つ。両目も強化できている現状は、間違いなくこれまでの限界を超えていた。
(体が、心が、お祖母ちゃんを助けたがっているのが分かる)
そうして速度を落とさず走り抜けて、村の中心、根っこが生えたと思われる広場に差し掛かる。
「――っ」瞬間、思わず息を呑む。
根っこの根本には、想像通りぽっかりとした暗い穴が空いていて。
その中から、たくさんの異形が溢れ出ていた。
「ひっ」
あれは、何だ? 魔物、なのだろうか。少なくとも私の知っている魔物は、ツノウサギのように動物的な特徴を持っていた。だがあれは、あれを生き物であると理解することを、脳が拒んでしまっていた。
強いて言うなら、蜘蛛。体高は私の腰くらいだろうか。艶もない漆黒の四肢の先端はブレード状に研ぎ澄まされており、歩行の度に鳴るカツカツという音から、相当な硬さがあるように見受けられる。それらが繋がる中心には丸い球体のようなものが一つだけ。他には目も耳も口も、およそ生物らしい特徴は何一つなかった。それらからは生物としての誇りも尊厳も、生きるという目的さえ感じられなくて、その形状から受け取ることのできる情報はただ一つだった。
(狩りに来たんだ、私たちを)
同じ狩人として、そう直感した。
そして、それらの異形の中心には一つの嵐が巻き起こっていた。
「――!」
咆哮が轟く。白銀に光り輝く雄々しい姿。こちらには生物らしさが如実に感じられた。
(――獅子?)
私の目には、そう見える。この辺りではまず見かけたことなどないが、本の知識としては知っていた。光が尾を引きながら、巨体に似つかわしくない凄まじい速度で戦場を駆け抜ける。そして彼が駆け抜けた後には、遅れてバチバチと弾けるような音が響き渡る。
彼はその巨体で戦場を蹂躙していた。彼の爪牙から逃れ、村人を追おうとするヤツらに気付くと、逃すまいと追いつき喰らいついている。明確な意思を感じる動き方だった。
(あれは――魔物? でも敵じゃない)
恐怖に震えていた私は、強力な味方が居てくれたことに安堵する。
そうして硬直が解けると同時に、すぐさま思考を切り替える。
「そうだ、お祖母ちゃん――」再び駆けだそうとした私の耳に、
「――っ! レドナ、伏せろ!」凛とした叫び声が響き渡った。
「えっ」
反応が遅れた私の下へ電光石火のように駆け寄ったリタさんが、庇うようにがばと強引に押さえつけ、馬飛びの要領で私の頭上を切り払った。
彼女の凄まじい剣速から繰り出される一撃をまともに喰らい、顔も口もないヤツらの内の一体は、うめき声を上げることもなくただ切り飛ばされ、そして動かなくなった。
「リタさ――」
「何故来たレドナ! 家で大人しくしているんだ!」
リタさんの有無を言わせない迫力に、一瞬言葉が詰まる。
「シ者の相手は、今のレドナにはまだ無理だ! 幸い、今回の『根』はそこまで大規模なものじゃない。私だけでも何とか村は守ってみせるから――」
「でも、お祖母ちゃんが!」
切羽詰まったような私の表情を見て、彼女は瞬時に思考を切り替えてくれた。
「――くそ。おばあ様の行先に心当たりは? こっちに来てるってことは」
「わかんない、けど、多分いつもの場所! 村の西側の狩場だと思う!」
「騎士団の小屋の方か……」リタさんは苦々しい表情を隠さずに言う。
「私とラオで手分けをすれば、数は足りる。だが、あそこまで離れては細かな制御が出来なくなる。どちらも中途半端になったら最悪……」
ラオ、というのは状況から察するにあの獅子のことだろう。細かい理屈は分からないが、彼はリタさんの戦力の一つと数えていいものらしい。とにかくそういう事情なら。
「私が行く。お祖母ちゃんを助ける」
「無茶だ! もし向こうにシ者が向かっていたら、レドナ一人じゃ――」
「じゃあどうすればいいの! リタさんは何か知ってるんでしょ? 良い手があるなら従うから教えてよ! 早くしないと、迷っている間にお祖母ちゃんが危険な目に遭うかもしれない!リタさんは私一人じゃ無理っていうけど、お祖母ちゃんなら大丈夫だって言うの!」
「それは……だけど……」
リタさんは悲痛な表情を浮かべる。出会ったばかりの私を心配してくれている。まるで、トリエやお祖母ちゃんみたいに。どうしてそうまで想ってくれるのかはわからないけど――
「――そのシ者ってヤツが、向こうに向かっているとは限らないでしょ? そのときは、私がお祖母ちゃんを連れてここまで戻ってくるだけ。だからリタさんはその可能性を信じて、この先一体でも、ヤツらが西へ抜けないように私の背中を守っていて」
それしかない。極限状態の集中力は既に最善の一手を導き出していた。リスクのない選択などない。あるのはただ後悔するか、しないかだ。判断の遅さで戦う前に負けるのだけはごめんだった。圧倒されたように驚いた顔をしていたリタさんはやがて目を伏せると、そっと私を抱き寄せて、軍帽を放り投げてから私とおでこをくっつけた。
「――リタさん?」
「…………」
彼女はぐっと何かを堪えるように、固く目を閉じている。ほんの二、三秒の出来事。
本当に綺麗な人だと、場違いにもそんなことを思う。
「レドナ、君は強いな。その強さが、私には眩しい」
そう言って少しだけ微笑んで、外套を翻した。
「行ってくれ。ヤツらは一歩も通さない」
リタさんは、私を信じてくれた。
「――はい!」
「レドナ!」リタさんが振り向かずに叫ぶ。
「君がこの村で最も信頼している者は誰だ!」
質問の意図は分かりかねたが、その答えは明瞭だった。
「トリエです! トリエ・アーチェ! 赤髪が目立つ女の子みたいなお兄ちゃん!」
「承知した。ここを通ることがあれば必ず伝えよう」