Report.03 銀髪の騎士
本はいい。
優しくただ淡々と私に語りかけてくれるし、何より傷つくってことがない。人と関わる必要もないし、一度私のものになれば、部屋の中でいつも変わらず私の帰りを待っていてくれる。時間を忘れ、この体のことも忘れ、ただ一つの自意識としての私だけを受け入れてくれる。
私にはお祖母ちゃんとトリエとアーチェおじさんと、本さえあればそれでいい。むしろ私なんかには多すぎて贅沢なくらいだと思う。
「そうだ、本」
おばさんに貰ったお金の入った袋を握りしめる。いつもより数倍重いその感触に、先程のことを思い出して泣きそうになるけれど、もう子供ではないのでぐっと堪えた。
(……大事に使わなくちゃ)
何しろ、『これっきり』になってしまった。得意の狩りではもう稼げない。お祖母ちゃんにこれ以上世話をかけるわけにはいかないから、なるべく節約しなければ。
このまま帰ってしまってもよかったけれど、せっかく貰ったお金がある。沈んだ心だけを持ち帰るより、我が家に新しい友人を迎え入れるのも悪くない。そう思った私は、当初の予定通りいつも騎士団の人が使っている小屋を訪ねることにした。
(今日は誰か来てるかな……)
騎士団の人は、いつだって来ているとは限らない。来るのも同じ人ばかりではないが、今のところは三人ほどのローテーションで、男の人が二人と、女の人が一人。一応はその全員と顔見知りだった。
彼らは村に困りごとがないか、周辺に危険なことがないかのパトロールをしてくれているそうだ。必要以上に皆と親しくするような素振りはないけれど、物腰は丁寧だし、最初は皆驚いていたものの、私にも分け隔てなく接してくれている。メンバーが皆これくらい優しい人たちなら、将来は冒険者ではなく騎士団に入るのも案外悪くないかもしれない。
そんなことを思いながら、先程の道を引き返す。トリエと別れた橋まで戻ったところでふと、
「おい、どけよ。よく見えないだろ」
小屋の方角から、トリエのものではない声が聞こえた。
瞬間、全身が雷にでも打たれたみたいに硬直する。
「すっごい美人……かっこいー」「だから見えないって! もう十分堪能しただろ」「私もまだよく見てないんだけど」「あまり騒ぐなよ、バレちゃうだろ」
村の子供たちだった。それぞれが思いのままに言葉を垂れ流しながら、小屋の窓から中を覗いている。そんなことはどうでもいい。本のことも後回しだ。今はとにかくここを離れよう。
そう思っていても、体が思い通りに動いてくれない。自分の手足が思い通りに動くことに疑問の余地なんてない、そう考えていたのはどこの誰だったか。笑ってしまうくらい滑稽だった。
五人は居る。多すぎる。痛いのは嫌だ。今なら勝てる? 勝ち負けではない。手を出してはならない。自らの危険性を証明してはならない。大人たちに口実を与えてはならない。お祖母ちゃんやトリエに迷惑をかけてはならない。私は魔物ではない。私はバケモノではない。私は。
心臓が早鐘を打つ。体はちっとも動かないのに、思考ばかりが加速する。
「おい、見ろよアレ」
誰かが、そう言った。
「――いやだ」
私の声は、震えていた。
「誰かと思えば、イヌッコロじゃないか」
「首輪もつけずにこんなところをお散歩か。ご主人様はどうしたんだ?」
男の子たちが私を取り囲み、耳を、尻尾を、乱暴に引っ張りながら笑う。
「い、いた」
女の子たちは遠巻きにクスクスと笑いながら、辺りを見張っている。
子供は残酷で、そして狡猾だった。小屋の前では中の騎士に勘づかれるからだろう。私に声をかけて威圧すると、円を描くように囲みながら、段々と木々の奥へと追いやっていった。
「痛いって? でもお前、人間なんだろ? それならこんなものは生えてない筈だし、痛いってんなら、やっぱり魔物か何かなんじゃないのか?」
「人間だってんなら、これって付け耳なわけだし、痛いってのが嘘になるな」
「ならどのみち嘘つきってわけだ。嘘つきにはお仕置きしないといけないよな」
「魔物なら退治しておかないといけないしねー」
皆が皆、好き勝手な論理を振りかざす。暴論を盾に、私のすべてを否定する。
抵抗すれば、もっとエスカレートする。傷を返せば、きっと大人たちが報復してくる。子供でこれだ、大人が加わったらと想像するだけで身の毛もよだつ。そうなれば、標的は私だけでは収まらないかもしれない。
「おいお前。それ、何持ってんだ?」
「あ」
少年の一人が、目ざとく私の持つ袋に目を付けた。
さっきおばさんに貰ったお金の入った、大切な『これっきり』の袋。
「や、やだ。これはだめ」
思わず、反射的に抵抗してしまった。
「おい、なんだよその態度。そんなにいいものなのか? ちょっと見せてみろよ」
「これは、だめ!」
掴みかかってくる少年を拒絶するあまり、勢いよく突き飛ばしてしまう。一瞬の静寂。
「おい」
倒れ込んだ少年の声を合図に、二人の少年が私を同じように突き飛ばす。倒れ込んだ衝撃で取りこぼしてしまった袋を、周りにいた少女が拾おうとする。袋の近くには、何枚かのコインが溢れてしまっていた。
「うそ、これ全部お金じゃない?」
「なんだよ、また共食いか?」
「魔物が魔物を売ってお金稼ぎって、噂は本当だったんだな」
「魔物にお金は、要らないよな」言って、皆が袋に群がる。
「だめ!」
叫んで、袋に覆いかぶさるような姿勢になる。
「なんだよ、また共食いで稼げばいいだろうが」
好き勝手を言いながら、子供たちが私を引き剝がそうと襲い掛かってきた。
耳を、尻尾を、服を、髪の毛を、あらん限りの力で引っ張り回される。
「いたい! やだあ!」
「こいつ、さっきから痛い、やだ、だめしか言わねえぞ」
「魔物だから、これでも頑張って覚えたんだろ」
残酷な嘲笑が辺りに響く。情けなさに涙が滲む。
どうして。なぜ、私がこんな目に合わなければいけないのだろう。
意地を張らずにトリエに助けを求めればよかったのだろうか?
それでも、こんな惨めな私には勿体ないくらいの幸せを分けてくれる人たちに、私のせいで迷惑をかけたくはなかった。私の好きなものを、私の意地で守りたかった。守ってもらわなくてもいい、大切なものを守るだけの力が、価値が、私にもあると信じたかった。
「そこで何をしている? お前たち」
唐突に、凛と透き通るような声が響いた。
聞き覚えのない声。
俯せになって丸まっている私には、声の主が誰なのかは分からない。
「おいやべえよ。さっきの騎士だ!」「げっ、流石にあいつから告げ口されたらまずいんじゃないか?」「とにかく逃げよ!」
口々に言って、子供たちが散り散りに去っていく音が聞こえる。私は危機が去ったことに安堵し、つい嗚咽を漏らしてしまう。私が落ち着くまで声の主は何も言わず待っていてくれた。
「助けるのが遅くなってすまなかった。騒がしかった小屋の外が急に静かになったから、ようやく一息つけたんだが、妙に胸騒ぎがしてな」
怖かったろう? 優しい声色で、私の背中にゆっくりと指先を重ねながらそう聞いてくれる。
助かった喜びと、助けられてしまった情けなさと、また人に迷惑をかけてしまっている罪悪感とで、心の中はもうぐちゃぐちゃだった。
ひとまず、お礼だ。しっかりとお礼をして、嫌われないようにしないといけない。私は目元を拭いながら顔を上げ、努めて笑顔を作りお礼を言う。
「あの……助けてくれて、ありがとうございました」
私を助けてくれた騎士の人には、やはり見覚えがなかった。
こんなにも美人なら、一度見かけたら忘れることはないだろうと思う。トリエは細身で女の子っぽいタイプの美形だが、この人は男性的な格好良さも備えた中性的な美人だった。騎士の人たちが揃って着ているぴっちりとした制服に、質のよさそうな黒い外套を羽織った出で立ち。よく手入れされているのが伺える美しい銀髪を後ろで一つに結んで流し、こちらも騎士の人たちにお揃いのシャープな軍帽を上から被っている。目つきは鋭いが表情は穏やかで、一目で優しい心の持ち主だと直感した。
屈みこみ、座り込んでいる私に目線を合わせてくれているから、自然、外套が土埃に汚れてしまっているが、それを気にかけるような素振りもない。他の騎士の人たちは大人ばかりだったけれど、この人は相当に若く見えた。トリエと同じか、少し年上くらいだろうか。
「あ、えと、すみません」
ついまじまじと眺めてしまった。気恥ずかしさで少し顔が火照ってしまい、視線を背ける。
「?」
おかしい。さっきから騎士の人からのリアクションがない。そして気付く。
「あ――」
彼女の視線は、私の顔に釘付けだった。
油断していた。騎士の人たちは皆、私に優しくしてくれたから。私は異常なのだと、その事実を失念していた。ついさっき、それで痛い目を見たばかりなのに。
「あの、私、帰りますので。ご迷惑をおかけしました!」
驚いたような表情で固まっている彼女に改めて一礼して、駆けだそうとする。
「あ、まって――」
そして、彼女に尻尾を掴まれた。
「痛い!」
「あっ、うわ、ごめん!」 慌てて尻尾を離される。
「ひゃあ!」勢い余って、地面に真正面から転んでしまった。
「……………………」
「……………………」
何ともいえない微妙な沈黙がこの場を支配する。
「えっと、本当にごめんね? なんというか、その、掴みやすいところにあったから、つい」
「いえ、こちらこそ急に走り出して、すみません……」
なんというかもうめちゃくちゃで、色々と台無しだった。彼女は、オホンとわざとらしく咳払いをして。
「君がレドナ・フィールドだよね」
私の名前を呼んだ。
「……はじめまして。うん。私はリタ。リタ・リオン。東境の越境管理官をしている者だ」
そう言ってリタさんは、整った顔をふにゃっと崩して、はにかむようにして笑った。
「なんと言ったものか……今は少しだけ都合が悪くてね。明日また、出直してくれるかい?」
そう言ってリタさんは申し訳なさそうな顔をした。彼女がそんな表情をする意味が分からなかったので、とりあえず私は気にしないでほしいと伝えた。
「そうか、うん。思った通り、レドナは優しい素敵な子だ。――レド? 皆は君をそう呼ぶんだね。ふうん……それならやっぱり、私はレドナと呼ばせてもらうよ。それともダメ、かな」
何故かしゅんとした顔をするリタさんに、慌ててそれでいいと返答する。
「ありがとう! えへへ。あ、そうだ。私のことは気軽にリタちゃんって呼んでくれ」
気軽すぎる。流石にツッコミを入れてしまった。どうやら彼女は、当初の印象よりもだいぶその、なんというか、可愛らしい人のようだった。
「明日はレドナにプレゼントがあるんだ、楽しみにしていてくれ。あ、お金は要らないからね」
最後にそう言って、小屋に戻るリタさん。扉を閉める前にこちらに振り向いて、大きく手を振って見送ってくれた。
「なんというか――嵐のような人だった」
そんな台詞を口にするのは初めてだった。新しい友人を我が家に迎え入れることは出来なかったけれど、それ以上に得難い出会いだったように思う。少なくとも、持ち帰るものは沈んだ心だけではなくなった。
このときの私は、まだ知らなかったんだ。
この出会いの意味を。その後に待ち受ける更なる嵐の存在を。
リタさんと別れてからは、真っ直ぐ家に帰宅した。既に日は落ちかかっていたし、昼から何も口にしていなかったのでお腹もペコペコだ。今日は色々とありすぎたから、帰ってゆっくりと休みたかった。
「おかえり、レド」
家に帰ると、お祖母ちゃんが優しい声で迎えてくれた。扉を開けた途端に漂ってくる美味しそうな夕餉の香りが、鼻孔をくすぐり食欲を刺激する。
「ただいま、お祖母ちゃん! 今日はシチュー?」
「ああ、市場で良い野菜が売っていてね。それに、帰りがけに親切な人がとびきりのお肉を譲ってくれたものだから、これはもうシチューしかないってね」
「そうなんだ、それは楽しみ!」
アイナ・フィールド。私の自慢のお祖母ちゃん。両親の居ない私を守り、育ててくれた恩人。私と違って耳もなければ尻尾もない(いや、もちろん耳はあるのだけれど)、白髪交じりだけれど腰はまだ曲がっていない、 そんな普通のお祖母ちゃんだ。別に私は拾い子とかではなく、お祖母ちゃんともしっかりと血が繋がっているらしい。少なくとも、そういう風に聞いている。
「クロロとロロゥも、ただいま」
言って、窓際の止まり木に居る二羽のカラスに声をかける。大きくて目つきが悪いオスがクロロで、小さくて目がぱっちりとしているメスがロロゥ。フィールド家の飼いガラスだ。
「ああでも――この話は食べ始める前の方がいいだろうね」
二人分の食器にゆっくりと料理を盛り付けながら、お祖母ちゃんが言う。
「話って?」お祖母ちゃんの横に並んで、それを手伝いながら問い返す。
「今日のお肉はね、南のお肉屋さんに分けてもらったんだ」
「…………」その言葉に、思わず固まってしまう。
「レド、また魔物を狩ったんだね?」
「あ、えっと。それはその……」
言葉に詰まる私を見て、お祖母ちゃんが安心させるように微笑む。
「全く、無事でよかったよ。それにしてもまた腕を上げたみたいじゃないか、お肉屋さんが褒めていたよ。それに、感謝も。それから、申し訳なかったと伝えてほしいとも。出会うなり一方的にまくし立てられてさ、一体何事かと思ったね、私は」
お祖母ちゃんの言葉も、その内容も温かくて、胸の奥がきゅっとする。
「『私が随分と喜んだものだから、私のために、余計な苦労を背負わせてしまった』って、頭を下げられたよ。私には何のことか分からなかったけど、レドが人のために頑張ったことだけはわかった。お祖母ちゃんはね、優しい子に育ってくれたレドが誇らしくって仕方ないんだ」
盛り付けを終えて、テーブルへと運び、二人で向かい合って席につく。
「だから、レドのことを責めるつもりなんてこれっぽっちもない。これは本当さ。……その後、家に帰ったら今度はトリエが顔を見せてくれてね。狩りのこと、魔術のこと、今日のことを教えてくれた。あの子は告げ口みたいに思われるんじゃないかって心配していたけど、レドはそんなこと気にしないって言ってやった。あれの心配症は誰に似たんだかねえ」
お祖母ちゃんはカラカラと笑う。ひとしきり笑ってから、
「ただね、やっぱりお祖母ちゃんは心配なんだよ。可愛い孫が、自慢の孫が心配なんだ。トリエもそう。――レドなら分かってくれるね?」
「…………うん」
こうまで言われては、頷くより他になかった。
「レドがこうして毎日無事に帰ってきてくれて、一緒にご飯を食べてくれるなら、お祖母ちゃんは他に何にも要らないのさ。さあ、冷めないうちに食べよう。楽しみだねえ」
いただきます、そう言って、お祖母ちゃんはシチューのお肉を口に運ぶ。
「いただきます」
私も続いて食事を始めた。
「ああ――こりゃあ、うん。美味しいね、レド」
「うん」
その日二人で食べたツノウサギの肉は、温かな優しさと、命の味がした。