Report.17 受け売りだけど
アルトラインに滞在して一年になるが、騎士団の訓練棟に入ったことは何度かあった。リタさんやプランさんの手が空いているときには、ときどき戦闘の手ほどきを受けたものだ。そして今、私が向かっているのは訓練棟とは名ばかりの戦場――実戦そのものの死地だった。
訓練棟の造りは至ってシンプルで、中央に青天井の四角い訓練場があり、それをぐるっと囲むようにして壁。取り囲んでいる周りの建物には訓練に必要な設備が整っていて、騎士たちの成長を日々支えていた。
中を通るのもまどろっこしくて、強化をかけた両足で建物ごと跳び越えて訓練場に転がり込む。受け身を取りつつ視線を上げ、そして――
「やあ、レド。想定よりは早かったよね」
透き通るような冷たい声で言うエルノアと。
息を切らし、軍帽を取り落とし、外套もどこか焼け焦げたような跡の残るリタさんと。
「…………なんで」
「――――は?」
あり得ないものを見つめるように、同じような目をしたリリィちゃんと目が合った。
状況を全く理解できない私の耳に、悪魔の声がねばりつくように降りかかる。
「君たちは知り合いだったよね。紹介しよう、レド。
この子は新型シ者の試作品。出来損ないの我が娘さ」
シ者。今エルノアはなんて言った? リリィちゃんが、シ者? あのおぞましい非生物、人を襲うこと以外何も持たない、あのシ者? 私の耳を触って、私に耳を触られて、無邪気に笑っていたあの子が、シ者?
「耳を貸すな、レドナ。真に受けなくていい」
「駄目だね、耳くらいは貸してもらう。そのためにここまで来てもらったんだから」
「――っ!」
言葉を遮るようにして、即座に剣先に雷を纏わせて飛び掛かるリタさん。
それを――
「……ううう!」
間に割って入ったリリィちゃんが、呻きながら迎撃する。
その両腕の肘から先を、眩しすぎるほどに光を放つ刃に変化させて。
私にはもう、理解の範疇を超えていた。
しばらく火花を散らしながら鍔迫り合いをしていた両者だったが、リリィちゃんが腕を思い切り振ると、リタさんはその勢いで弾き飛ばされた。
「ぐ――っ」
悔し気に呻くリタさんに、エルノアが淡々と声をかける。
「駄目だよね、真面目にやらなきゃ。殺るなら殺る、手加減なしでさ。でなきゃ相手に失礼だ」
リリィちゃんはそんな光景を遠い目で見て、視線を私に移した。
「……どうして、おねえちゃん」
「どうして、って。それは――」
こちらの台詞だ、とは言えなかった。彼女が自分の正体を明かしたとして、私に何ができただろうか。そもそも、正体とは何だ。そう名付けられて、ただそうと生まれただけで、自分が何者かなんて誰にも分からない。少なくとも私には、自分の正体なんて分からない。
「……みっか?」
彼女はこうなることを知っていたのだろうか。私は往復三日はかかるお出かけをしている、少なくともリリィちゃんの中ではそうなっている。
だからあのとき安心した? 私を傷つけなくて済むと思ったから?
だから今驚いた? 私がこんな戦場にいるから?
三日後、帰ってきたら、約束。
涼しい声の悪魔は、目を閉じ、絵本でも読み聞かせるように告げる。
「ああそうだ。ええと、リリィ? レドは、残念ながら人は食べないよ」
「…………え」
私は今日、何度思考を止めればいい?
「だから、お腹は空かないんだよね。君が勝手に仲間意識を持ってるだけで、君たちは別物」
何でもいい。言っている意味はもうさっぱり分からないけれど、もうとにかく黙ってほしい。エルノアが嫌味な言い方ばかりするのは知っている。言葉の意味はどうでもいい、だからもうこれ以上彼女に話しかけるな――!
「もう我慢する必要ないよね。どんなに待っても、レドが君と食卓を囲む日は来ないんだから」
「もう黙れ――!」そう言ってエルノアへ飛び掛かろうとする私に、
「…………ううううううう!」
初めて見る、彼女の激情。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、リリィちゃんが飛び掛かってくる。
「――っ!」
つい慌ててナイフを構える。構えてしまう。
しかし、まるで傷つけたくないという私の声に応えるかのように、彼女の右手のブレードを受けた瞬間、触れ合ったナイフの先がジュッという音と共に一瞬で溶解した。
「あっつ――!」
こらえきれず、ナイフを捨てて飛びずさる。
「ううううう!」
そのまま彼女は、こちらを見据えて真っ直ぐに駆けてきた。
(止めたいっ――けど、そのためにはまず私が生き残らないといけない!)
瞬時に両足と両目に意識を集中する。
「うう!」
左右のブレードを交互に振るうリリィちゃん。一歩間違えば即死の軌道。
それをしっかりと見極め、最小の動きで躱していく。
(躱すだけなら何とかなる……彼女はまだ子どもでリーチは短く、戦闘経験もほぼゼロ)
けれど決め手がない。私には手加減ができない。狩りの経験から獲物の仕留め方は熟知しているけれど、生け捕りの経験はない。予備のナイフは二本あるが、ナイフで切れば彼女は死ぬ。そもそもの話、そんなこと私にはできっこない――!
私が迷っているうちに、仕留めきれないと無意識的に体が反応したのか。
(もしかしてこれ――段々伸びてる――?)
リリィちゃんの両腕のブレードは、今や最初の二倍ほどの長さまで伸びていた。
彼女はそれを、悲嘆のままに乱雑に振るう。
私はたまらずに、飛びずさって距離を取る。
「…………ううう」
涙を流し続ける彼女の痛ましい姿を、見たくないけれど、観察する。
(傷つけられない、傷つけたくない。それなら抑えるしかない)
見れば彼女のブレードは、伸びてはいるものの、肘より上は普通の体のままだった。
(なら――肘から上を掴む。そのためにはあのブレードをかいくぐって近づくしかない)
目測を誤れば、即死。ナイフでも受けきれないのでは避けるしかない、が。
使うなら、今。
そう直感して、右手に再び予備のナイフを構え、ブレスレットの一つへと意識を向ける。
「…………うう!」
ナイフを再び構えた私に傷ついたような表情を向け、両手を振りかぶって駆けてくる。
私もそれに合わせて駆け出し、マグに込められた魔術を解き放った。
「風装!」
瞬間、魔力の風が解き放たれ、私の体を覆う。その眼前に、右手のブレードが迫りくる。
私はそれに合わせてナイフを振るい、
「――はあっ!」
思い切り、ブレードごと彼女の体を弾き出した。
「……えっ」
唖然とし、態勢を崩す彼女の隙を突いて、強化したままの両足で懐まで飛び込む。
――刃が触れれば溶解してしまうのなら、そもそも触れなければいい。本来は防御用を想定して作ったものだけれど、相手を傷つけずに捕らえるためなら、こちらの方が都合がいい!
一気に駆け寄って、彼女の両の二の腕を、四つん這いの姿勢で押さえつける。
「……ううっ!」
「リリィちゃん! 落ち着いて、私の目を――」
言って、彼女を落ち着かせようとするが、
「うああ!」彼女の右足が、私のお腹にめり込んだ。
「う、え」
滅茶苦茶に痛かった。私の体は五メートルほど上空に飛ばされ、一瞬、状況の理解に苦しむ。
恐らくは、シ者として設計された力。
それと、私の風装の効果がまだ残っているせいで、反発作用が働いたのだろう。
私は空中で痛みに呻きながら眼下の状況を捕らえようとし――
「うっそ」
彼女は、振りかぶった右のブレードでそのまま私を焼き切らんとしていた。
空中ではまともに身動きが取れない。迷っている時間はない。何か手を打たなければ死ぬ。後先を考えてなどいられない。私が死ねば、きっとあの子は――!
「っ! 風葬!」
即座に判断し、右手に角度をつけ、もう一つのマグを起動させる。
その刹那、圧縮され、爆発的な勢いを得た剣に似た風の柱が、私の右腕から射出された。
本来であれば、決め手に欠けた私を支える攻撃用に特化した魔術。だがこんな傷つけるだけのもの、彼女を止めるためには何の役にも立たない。一時的に、ただ緊急回避のために放たれた風の柱によって、私の体は死の刃をすり抜ける。
「……うう!」
攻撃を外し、慌てて立ち上がろうとするリリィ。
「――リリィ!」
そんな彼女にあらゆる打算を捨て去って走り寄り――。
――そして私は、リリィをただ力の限り抱き寄せた。
「…………おねえちゃん」
「ごめん、色々、なんて言っていいか、わからない」
彼女の体は、まだ本当に小さくて。
「だけど、もうやめよ? あとは全部、お姉ちゃんに任せていいから」
私はもう、泣き続けるこの子と戦うことは出来なかった。
それならもう、死んだ方がましだった。
「…………ごめん、なさい」彼女は何故か、私に謝った。
「リリィは何も悪くないよ」
「ごめんなさい、ごめん、なさい」彼女は謝り続けた。
「もう、いいから」
「……おなかがね、すくの。もう…………がまんできないよ」
「ずっと我慢してたんでしょ、すごいよ。お姉ちゃんがなんとかする、我慢しなくてよくなる」
「……ほんとう?」
「当たり前だよ。冗談は言うけど、嘘は絶対に言わない。受け売りだけどね」
「…………それ、うそだよ」
そう言って。
リリィは熱すぎない、温かく小さな腕で、私をそっと抱き返した。