プロローグ カストルの花
昔から、カストルの花が咲いた日には本当にろくなことがなかった。
一番古い記憶は、母に叱られたとか、そういう些細なことだったけれど、歳を重ねるごとに増えてゆく嫌な思い出は、決まってカストルの花が咲いた日のことだった。
カストルは不幸の花なのだと、僕はごくごく自然に理解した。きっと偶然だとか、思い込みだとか人は言うかもしれないけれど、僕にとって、それは確固たる事実だった。
その事実を極めつけたのは両親の死だった。カストルが咲いたある日のこと、馬車に乗っていたところを何者かに襲われて、両親は死に、僕は生き延びた。それが僕にとって最も残酷な結末だったことは、誰の目にも明らかだと思う。
そして今日、僕は再び花開いたカストルを見た。この花を見るのは、実に6年ぶりだろうか。
この花の不思議なところは、宝石のように美しく輝く花であることだ。まるで、この世の希望や幸福を全て詰め込んだのかと思えるほどに。今日のカストルも、やはり光を受けて美しく輝いて、皮肉を込められている気すらした。
何はともあれ、妙な胸騒ぎを抱えながら過ごす1日は長くなる。とりあえず僕は鬱々とした気分で、頼まれたリンゴを買いに市場へと急いだ。
市場に着くと、行きつけの果実店がいつものように、いつもの場所に店を出していた。この果実店の店主からは、いつもリンゴを買うせいでリンゴ坊主と呼ばれている。僕はいささか不満だったけれど、特に問題もないのでそう呼ばれることに甘んじていた。
そしてその果実店の店主は僕に気づくと、いつものように、
「よう、リンゴ坊主。今日もリンゴか?」
「聞かなくてもリンゴですよ。一番安いのでお願いします。あ、美味しくないのは却下で。」
店主は僕の素っ気ない態度を見て声を上げて笑った。素っ気ないのはもとからだけれど、ただ、今日に限って言えば"素っ気ない"よりは"余裕がない"という方がふさわしいだろう。
それほどまでに僕はあの美しい、いや、美しすぎる花に怯えていた。得体のしれない何か恐ろしいものが近づいている気がしたのだ。
「ったく、その可愛げのない態度は変わんねぇな。」
「元からですよ。」
「ははは、やっぱり可愛くねぇな。にしても...」
店主はそういうと急に神妙な顔をして黙ってしまった。もちろん、リンゴを袋に入れる手は止めなかったけれど。
僕はそこはかとない、しかし根拠のない恐怖が少しずつ確かになっていくような気がして、それでもその続きをおそるおそる聞いてみる。
「...にしても、なんですか?」
「......やたら、辛気臭ぇ顔してるなと思っただけだ。そんな顔してるのはここに来た頃以来だろ。」
店主が続きを言い淀んだ理由を察して、今度は僕が黙る番だった。ここに来た頃というのは両親が死んだ直後のこと。再びカストルの花を見てしまった僕が、あの頃と同じ顔をしていたのは仕方のないことだろう。
「まあ、よく知らんが美味いリンゴ食って元気出せ。ほらよ。」
店主はリンゴでいっぱいになった袋に、おまけだとか言ってさらにリンゴを足そうとした。
なんて雑な励ましだろうと笑ってしまったが、そのいい加減さは逆にありがたかった。
「......リンゴだけ食べてても死にますよ。それじゃ、また来ます。」
そう言って僕は踵を返した。もちろん袋からこぼれ落ちたおまけのリンゴもしっかりと手に取ってから。後ろから、せっかく人が心配してやったのにとか、まけてやった分を返せとか喚く声が聞こえたけれど、それを気にする余裕なんて僕にはなかった。
これじゃあ、ただ良いことがあっただけじゃないかと思った。そしてそれが嵐の前の静けさのような気がして、僕の胸騒ぎはより一層大きくなっていった。
結局、1日は何事もなく終わった。あったと言えば、やっぱり袋に入れてみたおまけのリンゴのせいで袋が破れたことくらいだろうか。
そんなことで終わるはずがないと思ったけれど、やはりカストルが不幸の花なのだというのは僕の思い込みだったのだろうかと冷静な自分もいた。
とりあえず、何事もなかったのならそれで良いじゃないかと、なんとか自分をなだめすかして眠りについた。
数日後、やはりカストルは不幸の花だと、僕は確信を得ることになった。
なぜなら僕の妹の訃報が届いたからだ。それも、カストルの花が咲いたあの日に、妹は死んだらしい。
鈍器で殴られたような衝撃と眼前に物凄い速さで広がってゆく暗闇は、決して僕に涙を流すことを許さなかった。
そしてようやく、僕がいかに利己的な選択をしてきたのかを理解した。かいつまんで話せば、僕は妹2人と弟1人を捨てて生きてきたのだ。その結果、一番上の妹が死んだ。
また、実に勝手な話だというのは重々承知の上だけれど、僕は彼らを愛していないわけじゃない。誰よりその幸せを願って来た自負だってある。勝手だという自覚があるのは、何度でも言っておこう。
......だからこそ、妹が死んだという事実は、僕を最大限に苦しめた。
さらに言えば、死んだ妹と僕は双子だった。あとの2人と区別するつもりなどないが、やはり双子というのは特別で、自分の半身をそがれたような気分だった。
僕はきっと、彼らのそばに今もいて、守っていなければいけなかった。自分の心を守るためだけに、逃げ出すべきではなかった。彼らなら大丈夫だろうなどと、今思えば呆れかえるような楽観視などするべきではなかったのだ。
ここまで考えて僕は、今自分は何をすべきなのだろうと思った。そして今度こそ、残された妹と弟を守らなければならないと強く思った。そうしなければ、僕はいよいよ罪悪感に呑まれて生きていられなくなると感じたからだ。
それはすなわち、僕は元いた場所へ戻るということで、両親が死んでから世話になってきた人たちに恩を仇で返すような行為だということも分かっていた。
僕はどうしてそんな生き方しか出来ないのだろうと自嘲しながら、今住んでいる家の主人に申し訳程度の置き手紙を書いておこうと机の上に無造作に置かれていたペンに手を伸ばした。
翌朝、まだ夜も明けないうちに僕は帰路へついた。帰路と言うにはあまりに長い間いなかっただろうから少しおかしいかもしれないけれど、僕にとっては紛れもなく帰路と言うべき道だった。
死んだ妹は僕のことを恨んでいるだろうか。なぜ逃げたのだと、帰ってくるならもっと早く帰って来て欲しかったと、僕のことを責めるだろうか。あるいは、そんなことすらしないほどに、愛想を尽かしてしまったかもしれない。
何にせよ、僕はカストルの花を呪わずにはいられなかった。なぜ待ち受ける運命が、これほどまでに残酷なのかと、カストルの花が人であったなら問い詰めていたことだろう。もしかすると、有無を言わさずに殴り掛かるかもしれない。
そしてもう一つ、こうも聞くと思う。
昔から、最も理解できなかったことを。
なぜ僕の名にも"カストル"と刻まれているのか、と。