第3節 近くにいて欲しかった
寝室の扉がノックされる音でアイリスは目を覚ます。
「――イザベルかしら」
アイリスは返事をしながら、寝返りをうって室内の様子を窺う。
窓から差し込んだ光が塵を反射して舞っている。
窓の外の太陽はすでに傾いていた。
夕方の光は、切るように幾重にも雲を突き刺していた。
「アイリス様、おはようございます」
扉の向こうから生真面目な声が届く。
アイリスはベッドに横たわったまま挨拶を返した。
「おはよう、イザベル」
イザベルはゆっくりと扉を開け、寝室に入ってくると小さく礼をする。
アイリスが起き上がろうとすると、イザベルはすっと近づき、手を握って支えてくれる。
アイリスは、イザベルの手の冷たさにほっとしてしまう。
「お加減はいかがでしょうか」
「ありがとう、大分回復してきたわ」
「良かったです。無理はなさらないでくださいね」
アイリスはイザベルの言葉少ななところが好きだった。
言葉少ななのに、必要なことはきちんと言ってくれるところが好きだった。
「では、お身体をお拭きしますね」
イザベルは思うように身体が動かないアイリスを気遣いながら、背中を拭ってくれる。
汗を掻き、火照った体に冷たいタオルが気持ち良い。
アイリスはその冷たさに、またほっとしてしまう。
本来であれば護衛騎士にしてもらう仕事ではない。
だが、アイリスの事情でイザベルにはそういった身の回りのこともお願いしなければならなかった。
マーレ皇国を出発する前、アイリスのために双星宮のメイドに色々と指南してもらっているという話をメイドたちから聞いたとき、アイリスはイザベルを抱きしめたくなった。
実の親やアレン以外の兄姉よりも一緒にいる時間の長い護衛のイザベル。
アイリスは、彼女と今はアレンの護衛を主にしているダニエルのことを姉や兄のように想っていた。
アレンが剣術の訓練にイゼベルとダニエルを連れて行ってしまうと、なぜだか姉と兄を取られたような気持ちになった。
小さな腹いせに三人をおままごとに付き合わせたことを彼らは覚えているだろうか。
側にいるのが当たり前だった彼女の落ち着いたダークブロンドは、アイリスの中ではいつの間にか「お姉さん」を象徴する色になっていた。
たとえ彼女たちが皇帝に命じられ、アイリスたちを監視していたとしても。
本当は完全に心を許してはいけないと分かっていても。
その『色』にほっとしてしまうのだ。
彼女の『色』はアイリスにとって、安心できるものだった。
だから、自分が呪われた存在だと分かっていても、どうしても彼女が欲しかった。
冷静で愛情深い彼女に、同情でも近くにいて欲しかった――
今でも時々思う。
自分の我儘で彼女をそばに置いたことを、彼女は恨んではいないかと。
◇ ◇ ◇
「イザベル、いつも本当にありがとう」
イザベルの若き主君は少しやつれた顔でイザベルに礼を言った。
イザベルは背中を拭ったタオルをランドリーバスケットに入れながら目を伏せる。
「いえ、この位なんてことのないことです」
「なんてこと、なんてないわ」
少し寂し気に呟く主人にイザベルは「ありがとうございます」と、ぎこちなく微笑んだ。
汗を拭った後は着替えを手伝う。
その背中は何度見ても白くて小さい。
けれども、ずっと見守ってきた大きな背中だ。
イザベルを信頼してくれていることが判る、まっすぐな背中だ。
実の家族よりも一緒にいる時間の長い、自慢の皇女様。
身分は大きく違っても、イザベルは不敬であったとしても自分の妹のように想っていた。
それでもやはり彼女は自分とは住む世界の違う存在なのだと度々思い知らされる。
――家族よりも近くて、もっとずっと遠い存在。
それがイザベルにとっての皇女アイリスだった。
◇ ◇ ◇
イザベルの家は古式ゆかしいマーレ皇国の、古式ゆかしい貴族の家柄だった。
そんな古式ゆかしい家出身のイザベルは、まだ国では珍しい女性騎士。
当然のように、実家にはイザベルの居場所はなかった。
イザベルの才を見出してくれたのは、騎士の家に嫁いだ伯母だった。
その伯母の勧めで騎士学校に通い出してからは、宿舎があるのを良いことに、休暇中の宿舎が閉鎖する短い期間以外は実家に寄り付きもしなかった。
そしてそのまま皇宮の騎士団に入り、ますます寄り付かなくなった。
騎士団に入ってからも、イザベルの居場所は少なかった。
騎士学校でのイザベルの成績は優秀で、常に上位三本の指に入るほどだった。
ただ、それは騎士学校の中の成績の話だった。
配属先が決まる頃、イザベルは自身に落胆することになった。
――現実は、夢よりも幾分も厳しい。
古式ゆかしき国では、女性騎士の立場は低かった。
いくら優秀だったとしても、努力をしたとしても超えられない、見えない壁があった。
自分よりも下位の成績だった者が、皇族の護衛や重要な宮の警備を任されている隊に配属されていく中、イザベルは誰も気にも留めないような隊に配属された。
誰がいるかも分からない皇宮の奥深くにある、とある宮の警備隊。
イザベルが警護するその宮は、身体の弱い皇族縁者の療養のために貸し出されているという話だけは、先輩から聞かされていた。
しかし、その宮は四六時中静かで人の気配はせず、外から見ても手入れがさほど行き届いているようには見えなかった。
緑が深いその静けさの中では、警護しているという実感を感じることが難しかった。
それでも、イザベルは騎士としての誇りを胸に、毎日背筋をしゃんと伸ばしてその門前に立ち続けた。
ただ自分と他人を比べることが怖く、騎士学校の同期たちとは必然的に疎遠になった。
実家でも孤独だったイザベルには、その孤独はあまり気にならなかった。
冷静なイザベルは、諦めと使命感を両立させた。
イザベルはあの日々の中で背筋を伸ばして立っていたことを、今でも自分の中の誇りにしている。
――それはある日、イザベルはその宮とその住人と出会い、その秘密を知ることになったからだ。
現在につながる大事な出会いがあったからだ――
若きイザベルが毎日護り続けたその場所は、アイリスとアレンの双子が住む双星宮だった。
初めてその双子の兄妹を見た時の衝撃は、今でも忘れられない。
あんなに小さく幼かった二人が成長し、マーレ皇国から遥か彼方にある『聖域』にまで来た。
それはイザベルにとっては大きな衝撃で、大きな喜びでもあった。
何よりも、二人を護るためにこの場所に同行できたことは、この上なく名誉なことだった。
そして彼らは新しい風が吹くこの場所に、古式ゆかしい国に窮屈さを感じていたイザベルも一緒に導いてくれた。
彼らは何も言わないけれど、きっとそれはイザベルにとって意味があることだ。
アイリスとアレンは、実家で煙たがられたイザベルを必要な存在だと、彼女たちにとって必要な人間だと言ってくれた恩のある大事な人だ。
側に御仕えしていたくて、様々な反対を押し切って、今回の聖域入りも自ら志願した。
この旅立ちのために、時間の許す限り、出来る準備は何でもした。
たとえその護衛役が、マーレ皇国に不利益をもたらさないように彼らを監視する役割も同時に担っていたとしても。
自分は誰よりも彼女たちの味方でいたいといつも思っている。
何かあれば、必ず護ると心から誓っている。
――それなのに、裏切っているような気持ちになるのはなぜ?
【必要があれば殺せ】
皇帝の冷たい声がやけに耳につくのはなぜ。
だけどきっと、常に人目を気にしながら、負の感情に対して敏感なまでに生きてきた彼女たちはそんなイザベルの気持ちなどお見通しなのだと思う。
だからイザベルは今日もいつもどおり、しゃんと前を向くのだ。
理不尽に呪われ、理不尽に苦しむ彼ら兄妹を護るために――
◇ ◇ ◇
その夜、アイリスは再び夢を見た。
全ての色が混ざり合った白い闇はどこまでも続き、雲の中にいるように靄がかかっていた。
――この夢を見るのはもう何度目だろう。
この白い眩しい闇の中、アイリスはふわふわと漂っていた。
空気と一体になったように身体は軽く、そわそわする。
アイリスは果ての無いその空間を自由に飛び回り、夢の終わりを待った。
やがて、夜光虫のように小さな『色』が現れる。
その『色』はアイリスの身体の周りをシャボン玉のようにふよふよと飛び始めた。
アイリスはいつものように、指先でそっと、その『色』に触れる。
すると、眩しいほどの『色』がアイリスの身体を覆い尽くした。
その瞬間、『色』の闇に包まれ、身体がその波に押し流されるように反転するのを感じた。
『色』に溺れた後、再び目を開ける。
するとそこには、漆黒という色だけが残る。
「やめて……」
アイリスは膝を抱え、目を閉じ、耳を塞ぐ。
「ききたくない……」
耳を塞ぎながら聞いた自分の声はいつもよりも幼く聞こえた。
泣きそうに耳を塞ぐアイリスを嘲笑うように、その声はアイリスの中に直接響いた。
【月花の呪いだ】
その声は、鐘楼の音のように尾を引いて響く。
『月花』、それは『寵愛』を意味する。
アレンとアイリスが受けた呪いは、神の寵愛、すなわち祝福なのだろうか。
アレンは剣に愛され、アイリスは魔に愛された。
アレンは魔力をほとんど持たない代わりに、剣の祝福を受けているとも言える。
アイリスは生命力をほとんど持たない代わりに、魔の祝福を受けているとも言える。
でも――
アイリスは強く叫ぶように、弱く呟いた。
「でも――」
「こんな寵愛なら要らなかった」
――そして、夢が終わる。




