第8節 楽しみを取っておきたい
アイリスが『顕現の魔法』を披露し終えた後、各々が課題の練習を始めていた。
アレンも今回の授業の課題である『泡沫』の練習をするため、近くにいたレオとフランから距離を取った。
そして、雛姫はそれが当たり前のようにアイリスの方へと突撃していった。
魔法実技の授業のはじめの二週間程は、本格的な実技の授業が始まる前に魔法耐性を鍛えるための授業だった。
体術で言うところの受け身の練習と言ったところだ。
そして、今日から本格的な実技が始まった。
とはいえ、中等部出身の学生たちは魔術具を使用しての簡単な魔術や、火を出したり、水を出したりといった基本的な魔法は習得済みだ。
そしてこのジェダイト教室の高等部からの編入組の三人の内、アイリスと風鈴は魔術棟所属でその能力と実力は言うまでもない。
かたや残りの一人であるアレンは魔力をほとんど持たない。
魔法は全く使えないと言っても過言ではないアレンは、既に落ちこぼれが確定していた。
アレンが『泡沫』の詠唱をしても、出てくるのは数滴の水くらいだった。
――『想像する力』があっても、それを顕現するための魔力がなければ、何の意味もない。
アレンはそれを良く知っていた。
だから魔法以外で闘う術を身に付けようとしている。
それはきっと、『呪い』が解けても無駄にはならないはずだから。
アイリスだってそうだ。
アレンが魔法を使えないのと同じように、いや、それ以上にアイリスは苦しい想いをしている。
――それでも、精一杯闘っている。
アレンは真白なベストの胸元を右手で掴み、アイリスの方を見る。
アイリスは複数のクラスメイトたちに囲まれて、何か質問をされながら楽しそうにしている。
アレンはその楽し気な様子に穏やかな笑みを浮かべる。
そして今日の課題である『泡沫』の練習を再開した。
しかしその直後、腕をとんとんと叩かれた。
アレンはその感触を追うように目線を下げる。
見下ろした視線の先には、アストルム老師が立っていた。
アレンの黒いシャツには、白樺の古木のように神秘的な手が添えられている。
アレンが気付かない内に隣に来ていた老師は、アレンの横で微笑んでいる。
気配に敏感なアレンは、触れられるまで気付かないという経験がほとんどない。
内心驚いたが、それを呑みこんだ。
「……アストルム老師」
「驚かせてしまったかのう」
老師は言とは違い、驚かせたことを悪びれていない悪戯な笑みを浮かべている。
「実はのう、アレン君に特別にプレゼントをあげようと思っての」
「……プレゼント、ですか?」
「ほれ、こいつじゃ。アレン君はこれからはこれを使うとよいぞ」
その皺だらけの手には小さな木箱が握られており、それをアレンの掌の上に乗せた。
視線で促されてその箱を開けると、中に入っていたのは銀の腕輪だった。
蔦が繊細に浮彫されている細工の見事な一品だった。
「これは?」
アレンは首を傾げ、老師に問う。
「魔術具じゃよ。それを着ければ少しだけじゃが、魔法が使いやすくなるんじゃよ」
「魔法が使いやすくなる、ですか」
「魔力とマナを魔法に変えるのを補助してくれる促進剤みたいなものじゃよ。君みたいな子にちょうど良い代物でのう。貰い手をずっと探しておったんじゃや」
老師は何てことのないように説明するが、アレンは少し考え込む。
「……良いのでしょうか。これは……その、『ズル』にはなりませんか」
アレンはアストルム老師の顔色を窺う。
しかし、老師は明るい笑顔を少しも崩さずにいる。
「気にすることはない、高潔なる若者よ」
アストルム老師は金色の瞳でアレンを優しく見つめる。
「この学院では試験でも魔術具を使うのは許可されとる。新人戦もあるし、じきに分かるじゃろうが、魔力が高い者でも普通に使うとる。何なら好んで魔術具主体で戦う者もおる。勿論それを我々学院側もそれを決して咎めたりせん」
アストルム老師は真剣にそう言った後、茶目っ気のある笑顔でアレンを見つめた。
「そりゃあ、『悪い物』は法に則って使用禁止じゃがのう」
アストルム老師は教え諭すようにアレンに語る。
「しかし、ある一定の範疇を超えなければ、自らに合った、自らに必要な道具を使うのは、大事なことじゃよ。それは生きるための知恵であり、それを技術ともいう」
「技術……」
「不便さを、理不尽さを、無力さを、そうやって人間は乗り越えてきたんじゃ――」
――そう、アレンは無力だ。
「使える物は使わんとのう。魔法も魔術も、わしらの生活にはいまや普通に使われとるんじゃからのう」
確かにマーレ皇国の皇宮内にも、学院の寮にもそういったものは身近にあった。
海をも超える距離を繋ぐ通信用の魔水晶、安全を守るための監視術式がかかった扉、食事が冷めないように保温の術がかけられた器や保温庫。
小さな目的は様々でも、大きな目的は共通だ。
――人々に幸福を与え、護るためのもの――
そして、アレンの頭にある言葉が思い起こされた。
それはつい先日レオに言われた「お綺麗」という言葉。
――自分は何を利用してでも果たすべき目的があるのではなかったかと自問する。
答えは明確だ。
だから、今は、アストルム老師の好意に素直に甘える。
「ありがとうございます。アストルム老師」
アレンは銀色に光る腕輪を小さな木箱から取り出す。
そして、その腕輪を利き腕と反対の左手首にはめる。
帯剣している者として、自然に。
そして、唱えた――
「『水よ、大気を抱いて、顕現せよ』【泡沫―ウタカタ―】」
それは、先程まではただの水滴が出るだけだった魔法。
今はまだ爪の大きさくらいの小さな『泡沫』。
それは刹那に弾け、そこには目に見える物は何も残らない。
しかし、希望はそこに確かに在った。
――まだ、始まったばかりだ。
「まだまだ練習は必要そうじゃな。まあ、ソレは普及しておる魔術具と比べればコツがいるものだしの。入学試験のときも思ったが、見たところ、アレン君は『魔力の器』が無いという訳ではなさそうだからのう」
老師はまるで全てを見通しているように語る。
アレンはその視線を流すように笑んだ。
老師もそんなアレンを気にせずに続ける。
「その腕輪はマナをアレン君の器に魔力として定着させやすくもしとる。上手く使うんじゃよ」
「はい!」
アストルム老師の言葉に、アレンははっきりとと返した。
しかし、アレンは胸に込み上げる矛盾した想いを、飲み込めないと感じる。
この気持ちは浅はかで未熟なものなのだろう。
でもそれはアレンの等身大の想いでもある。
だからアレンは腕輪を触って見せ、自身の誓いを口にする。
「アストルム老師、貴重なものを賜りましたこと、御礼申しあげます。ですが、これは暫くは授業のときにのみ使わせていただこうと思います」
「ほう、そういう言い方をするということは、新人戦では使わんつもりかの」
アストルム老師は探るようにこちらを見る。
「魔術棟の長にこのようなことを言うのは大変な無礼とは思います。ですが、私は、魔法なしで自分がこの学院でどこまで辿り着けるのか、試したいのです」
その誓いは、「何をしてでも」という思いと矛盾していることは分かっていた。
でも、アレンは何よりもまず、『騎士』でありたかった。
たとえ、『お綺麗』と言われても。
譲れない自分の中の一本の剣を大事にしたかった。
それは、かつての師匠の言葉でもあった。
いつかはきっとそんな甘いことを言っていられなくなる。
この学院で高いレベルを見せ付けられてそう感じていた。
それでも、今だけはせめて――
「わしは構わんよ。それはもう君の物だからのう。どう使おうとお主の勝手だのう。わしにはなんの口出しもできんよ」
「恐れ入ります」
アレンは老師に頭を下げた後、アレンは再び腰を屈め、彼に耳打ちする。
「それとこれは皆には内緒にして欲しいのですが――実は、考えていることがありまして」
「ほう」
アレンは囁く。
「いつか私が自身の力で思い切り魔法が使えるようになったとき、私の魔法で妹を驚かせる、という楽しみを取っておきたいのです」
アレンは老師に向かって片目を瞑り、素直な笑みを向けた。
すると老師はニーっと歯を見せて笑う。
「ほっほっほっ、若いというのは良いものじゃのう」
「青臭いのは、自分でも分かってはいるつもりです。一応」
アレンはそっぽを見ながらこめかみを掻く。
「人間誰しもそういう時期はあるもんじゃよ」
老師はにこにことアレンの瞳を見ている。
「はは、そうですかね」
アレンは苦笑いする。
「良いのう、良いのう。わしも昔は青かった。生徒会長のクラーラ嬢も学院に入学したばかりの頃は今よりもずいぶんと青くてのう。それはそれは、可愛らしかった」
「は、はあ……。そうなのですね」
なぜ、急にクラーラの話をするのか分からなかったが、相づちを打つ。
アストルム老師は急に真剣な表情をし、優しい金色の瞳でアレンを見つめた。
「でものう。あの子は青さ故に、とても強いよ」
真剣な表情はすぐに悪戯な笑みに変わる。
「同じ騎士棟だしのう。アレン君も彼女から学べることが多いのではないかのう」
自然と入学式のときの彼女の姿が脳裏に浮かんだ。
「はい。素晴らしい方だと思います」
「うむ。まあとにかくその腕輪はお主が好きなときに好きなように使うと良いぞ」
そう言うと老師は急にアレンの腕を引き、自身の顔の位置までアレンの体を屈ませる。
そして、囁いた。
「それに、お主も妹君も学院に来る前から既に『魔術具』を身に付けておるじゃろう」
アレンの腕を離すとアストルム老師は自身の耳の部分を指す。
彼が指さしたのと同じ部分にあるのは――アレンとアイリスの秘密を隠す物――アイリスが造った藍玉のピアスだ。
「それが何かは聞かんよ」
老師はニコニコと笑っている。
やはり『聖域』は、このサンクチュアーリ学院は、油断ならない場所だ。
流石は、自由な風が流れる場所。
世界の技術が交わり、高まる場所。
背筋に冷たい汗が流れるのを感じる。
鼓動が速まるのを感じる。
これは、「バレていない内に入るのだろうか」と母国の玉座に座る皇帝を思う。
与えられた束の間の自由に、油断してはならないのだと、アレンは気持ちを引きしめた。




