5
その日、絵美はバイトをしながら今日の二者面談のことを考えていた。
先日絵美は本当の天才の姿を見てしまってから、何もかもにやる気というものを見いだせずにいたのだ。
圧倒されてしまっているのだ、完全に。
きっと弥生にそんなつもりはないだろう。そんなことは十分に分かっている。理解している。
けれど、絵美にとっては、あの日の出来事というのは本当に大きなもので、あんなにも簡単に自分の心が折れてしまったことが、夢が潰れてしまったことが、絵美本人が信じることが現在進行形でできていない。
あんなに素晴らしい作品を作る息子が葉月だということが許せない気持ちだったり、絵美は一生懸命勉強して手に入れた知識だって、葉月という“天才”相手では、一々学ばずとも、勝手になんとなくできてしまうものだということを、改めて思い知った。
こんなに悔しい気持ちになるとは思っていなかったが、同時に、自分はどう足掻いても凡人なのだと改めて思い知ってしまった。
その途端、全てに対するやる気がなくなってしまった。
大好きな月人に言われたから、という些細な理由でコンクールに応募しようか、というところまで考えていたのだが、それでも、元々コンクールに応募する予定だった葉月のことを考えてしまうと、どうしても絵を描こうという気持ちになれない。
絵を描くことが好きで、絵に関する知識を身に着けることが大好きで、そのうち仕事にできれば良いのに、と漠然と思っていたはずなのに。
少し周りと優れている自覚が絵美にあったのが大きな欠点だった。
周りよりも少し、絵が上手かった。
だから、天才が目の前に現れた時、絵美は自分の無力さや平凡さを思い知ってしまった。
天才と呼ばれる人間に噛みついて批評家気取りになって、少しでも自分を優位に見せようとしていたのが、仇になった。
(私は、天才が嫌い)
自分にそう言い聞かせるが、それでも、凄いものは凄い。
それを批評するような権利が、自分にあるのだろうか?
「師走さん、体調悪そうだけど……大丈夫?」
「え? あ、すみません……」
「今日は人手も足りてるし、俺が心配だから早退してほしいな。また明日も出勤でしょ? あんまり無理しないでほしいよ」
「す、すみません……」
絵美のバイト先の店長は、百パーセントの善意でそれを言ってくれたのだろうと思う。
ただ、今の絵美には、その優しさもひねくれて受け取ってしまった。
決して普段はそんなことを思わないし、店長はそんなことを思って言ったわけでもないのに、絵美は思ってしまう。
(足手まといなら、そう言ってほしい。……こんな考え方をしてしまう自分が、とても情けなくて悲しい)
天才ならきっと、こんな考え方にはならないだろう。
画集葉月は、きっと、こんな虚しくなるような思考回路にはならないだろう。
一方、葉月は葉月で家に帰ってから今日の絵美の様子を思い浮かべていた。
決してディスられたいわけではないのだが、確かに自分のことを悪く言う人物というのは新鮮なのだけれど、そんな人物が明らかにテンションを低くしていたら気にならないわけがない。
調子が狂う、というやつだ。
今日は何となく絵を描くような気分にもなれなくて、普段なら描いて翌日にでも持っていけば良いだろうが悪いだろうが感想をくれる人が居るのに、その感想を投げてくれる人が居ないのだから、描きがいもないという話だ。
ぼんやりとしながら幼少期に自分で描いた作品の飾られた壁を見つめていると、不意に自室の扉が三回ノックされる。
「葉月、少し良いかい?」
声の主が弥生であることに気が付くと、思わず葉月はベッドから飛び起きて近くに放り投げてあったイラスト集の適当なページを開きながら「大丈夫!」と扉越しの弥生が自室に入ってくるのを待つ。
決して弥生は葉月に絵を描くことも好きになることも強要しない人物だが、絵美の言っていた通りに、本物の天才相手には実の息子であっても委縮してしまう部分がある。
一人の天才として、それと同時に、一人の父として。
「ど、どうしたの、お父さん。もしかして少し手が止まっちゃった? 僕で良かったら何か手伝ったりしようか?」
「それには及ばないよ、葉月。まあとにかく、そこに座って。少し葉月に聞きたいことがあって」
「僕に……?」
何を聞かれるのだろう。
今まで弥生が良くも悪くも葉月に必要以上に干渉してくることは無かった。もちろん、葉月が話しかければ普通に父親として話してくれる人だったし、良い成績を取れば素直に褒めてくれる人ではあったが、弥生の方から話があると言われることは、かなり珍しいことだった。
全くないと言えば嘘になるが、殆ど無いと言えば、嘘ではない。
「この前葉月が呼んだお友達……師走さんは、絵を描く人なのかな?」
「え……」
まさかこのタイミングで絵美のことを聞かれるとは思っていなかったので、葉月は少し驚いてしまった。
「あ、う、うん、描くよ! 僕が友達になったのも、高校で部活一緒でさ。今年になって同じクラスになってから友達になったって感じ!」
嘘はついてない。
「彼女は、どんな絵を描くの?」
「師走さん……は……」
(分からない。どんな絵を描くのか)
今まで何度か絵を描いている姿を見てきたが、完成した絵というものは見たことがない。
いつも下描きの段階で止まっていて、コンクールに応募している作品もいつ出しているのか、実は分からない。
いつ見ても、彼女は画用紙に向かっているだけで、大きなキャンバスに向かって絵を描いている姿を、葉月は一度も見たことがない。
絵の具を使っているような姿を見たことがない。
彼女がいつも握っているのは、鉛筆かシャーペンだけ。
(もしかして、デッサンとかの方が得意なのかな? デッサンできるなら他の絵も普通に描けるとは思うんだけど……)
どちらにせよ、その下描きでさえ、葉月は絵美の作品を見たことがないのだが。
いざ聞かれてしまうと、葉月は答えることができなかった。友達として家に呼んだはずなのに、ここでうまく答えることが出来なければ、彼女が友達ではないということがバレてしまう。
きっと弥生はもう気が付いているのかもしれないけれど。
「し、師走さん、シャイな人でさ! なかなか見せてくれないんだよね~。シャーペンとか鉛筆で何か描いてるのは見たことあるんだけど、いっつもすぐに隠されちゃう。……あ、も、もしかしたら、神有先生だったら何かわかるかも? 部活の顧問だし、担任だし、師走さんと仲良いんだ!」
「へぇ……」
「と、というか、お父さん、よく師走さんが絵を描く人だって分かったね! やっぱり雰囲気とかかなあ。独特な雰囲気あるよね~」
(そろそろ苦しいなぁ……早く終わんないかな)
葉月はどうにかしてこの話題を終わらせたいのだが、弥生の方は何かを考えこんでいるようで、腕を組んで黙り込んでしまった。
(何か気に食わないことでも言っちゃった? 嘘ついてる時点で気に食わないことだらけだろうけど……)
「……いや」
この沈黙に葉月が苦痛を感じ始めていたころ、弥生は口を開いた。
「この前葉月が師走さんを家に呼んだだろう? その時、リビングの隣の部屋に少し忘れ物をしてしまって……取りに行ったときに、丁度葉月と師走さんの声が聞こえたんだ」
「僕と師走さんの?」
あの時、なんの話をしたっけ。
「私はあの絵の粗に気付かれたのはお父様だけでね。なんだか、嬉しい気持ちになってしまって。彼女もまた、素晴らしい観察眼の持ち主だね」
「おっ、おじいちゃん!?」
弥生の父であり、葉月の祖父である画集晩秋は、優れた審美眼を持つ宝石商であり、染織家という二足の草鞋を履いた芸術家だった。
今弥生が着用している作務衣も晩秋が染めたものであり、通常で購入しようものなら億単位の大金が動くほどの優れたアーティストである。
「あの粗をわざと作った可能性……空間と表現したことには感嘆を禁じ得ないけど……そこまで視野に入れている姿を見て、私は思わず感動してしまったんだ。私の作品を、正当な評価をしてくれる人が葉月の友達に居たなんて、と。……実は、あの粗が私が未熟だということの一番の証でもあるんだけれど……そこに気が付くということは、私の絵をよく見てくれているんだな」
『貴方の作品から出てくる粗ってものは、完全に“粗”でしかないの。それも、言葉で説明できてしまうものばっかり。でも、不思議ね。……粗まで、作品の一部にしてるんだもの』
『粗はあるんだ?』
『……まあ、私が勝手に粗なんじゃないかって思ってるだけで、それこそ完成したもので、わざと組み込んでいるものなのかもしれないけれど……表現としては、組み込んでいるというか……わざと空間を作っている?』
(──ああ、あのときか)
「まあ、葉月もダメ出しを受けていたけれど、正当な評価だね」
「う、うぐぅ……」
今までは弥生が口出しをしてくることは無かったのだが、こうして改めて父親として、また一人の芸術家として指摘されてしまうと、葉月も思わず耳が痛くなってしまう。
幸いなことは、今弥生は笑いながら葉月のことを評価してくれたことだろうか。
それこそ、マジトーンでダメ出しなんてものを目の前の天才画家にされてしまっては折れた心が立ち直れる気がしない。
今まではそんな指摘をすることも無かった分、余計に。
「葉月、もし機会があったらで良いから、師走さんの絵を見せてほしいな。とても私は彼女の描くものに興味があるよ」
「……うん、僕も」
ここまで誰かを褒める父を、葉月は息子として見たことがなかった。
“天才”という肩書だけで凄いものを作っていると思われ、真意を理解されることなく何百万何千万、あるいは何億という大金が動くこの世界に疲れていたのは、決して葉月だけではなかった。
彼の父である弥生もまた、“天才”であることに疲れていたのだ。
(師走さん、もしかして、君は
──“天才”なんじゃないか?)